1/お悩み相談受け付けます
念仏のように唱えられる数々の単語、黒板に書かれたミミズが這ったような文字、それらは人をまどろみに誘うのに十分な効果がある。
まったく、英語なんてものを授業に取り入れた人間の気が知れない。そんな事を考えながら、俺は寝ぼけ眼で授業を受けていた。レンズ越しに見える世界は既に霞んでいる。
暦は十月。過ごしやすい気温と窓から吹き込む涼しげ風、夏の暑さを忘れたこの陽気はさらなる眠気を誘うには十分だ。
寝ちまおう。そう英断を下して、俺は半開きだった目を完全に閉ざす。
その途端、このどうしようもなく緩慢な時間の終わりは告げるチャイムが鳴った。それは待ち望んだ昼休みの到来を告げる合図でもある。
「では、今日はここまで」
教卓の前の老いぼれ教師は、そう告げると、さっさと教室から出ていってしまった。
「くあっ……!」
椅子に座ったまま伸びと欠伸を行う。不思議なことにそれだけで先程の眠気が嘘のように吹っ飛んだ。
「さー、昼飯昼飯っと」
今日は食堂か、それとも購買でパンでも買うか、などと考えながら、席を立とうとした時だった。
「だ、伊達君、ちょっといいかな?」
「ん?」
右から声をかけられた。
振り返ると、そこには一人の小柄な女子生徒が立っていた。
その女子生徒は、美人の部類に入るであろう整った顔立ちをしている上、セーラー服の胸元には、飾られている青いリボンがはっきりと押し上げられている程の膨らみがある。
これだけ聞くと、美少女なのだが、如何せん、顔に掛けている黒縁眼鏡と三つ編みおさげの髪型があまりにも地味で、その発育のいいボディと美人顔が活かせていない。
「なんだ……地味子か」
「はぅ……ま、前にも言ったけどその呼び方はやめて欲しいな?」
拗ねたような目でこちらを睨む地味子。その表情がなんだか子犬を連想させるもんだから余計にからかいたくなってしまう。
「そうだったか? んじゃあ、眼鏡ちゃん」
「はぅぅ! それもやめてって言ったよ! ちゃ、ちゃんと名前で呼ぶって約束したのに……もう忘れちゃったの?」
涙目になる眼鏡ちゃん。潤んだ瞳がさらにこちらの加虐心をくすぐる。だが、そろそろやめないと本当に泣き出してしまいそうなので、やめておこう。俺もまだ女子からは嫌われたくない。
「冗談だ。わるかったよ、有沢」
「だ、伊達君の意地わるぅ!」
有沢は頬を膨らませ、上目遣いこちらを睨む。怒っているつもりなんだろうが、まったく恐くない。
有沢はうちのクラス――1年4組のクラス委員長だ。下の名前は確か『茉依』だったと思う。先程の『地味子ちゃん』や『眼鏡ちゃん』はクラスでの愛称。結構酷いと思うので、俺はからかう時以外は苗字でちゃんと呼ぶようにしている。
「んで、有沢。どうしたんだ?」
有沢に訊ねると、彼女は怒っている顔から申し訳なさそうな顔に変わり、おずおずと口を開く。
「あ、あのね、だ、伊達君に用があるって人がいて……」
「俺に?」
有沢はこくりと頷き、視線を横にずらす。それにつられて、視線を移すと、そこには一人の男子生徒が立っていた。
男子生徒は小奇麗に前髪を七三分けにし、Yシャツはキッチリとズボンの下に入れている。どこから見ても、真面目な優等生だ。
どこか見たことある顔だ。だが、知り合いではない。名前も知らない。少なくともこのクラスの生徒ではない。
「君が伊達覚くん、でいいのかな?」
「ああ、そうだけど……あんた、誰?」
「失礼した。僕は菊池、菊池守だ。3組のクラス委員長をしている」
菊池と名乗る男子生徒は、聞いてもいないのにクラスと肩書きまで名乗った。変な奴だ。
しかして、3組か。隣のクラスなら道理で見たことのある顔だ。
けど、3組には交友関係はほとんどない。おまけに、クラスの違う委員長が俺のような奴に用があるとは思えない。
俺が通う高校――私立枢木学園高等学校は古くからの伝統をもつ由緒正しき進学校だ。人気も高く、私立でありながら、入学志願者は毎年定員オーバーする。そのせいか、一クラス30名で各学年10クラスもある。
そんな学園の中で、俺はそれほど目立った存在ではない。勉強は中の下で、部活にも入っていない帰宅部。クラスでは世間話に花を咲かせる友人が何人かいる程度のごく普通の高校生。それが入学して半年で得た俺の地位だ。だから、別クラスの如何にも優等生ですって感じのクラス委員長の目に留まることなんて一切ない……はずだ。ただ一点を除いて。
「で、その3組のクラス委員長さんが、俺なんかに何の用があるんだ?」
「君にお願いしたことあるのだ」
「俺に? それはまた厚かましくないか? 俺達はつい今しがたお互いの名前を知ったばかりだっていうのに」
「失礼は承知だ。だが、君は、その……あれだ、〝お悩み相談〟に乗ってくれるのだろう?」
「……あんた、それどこで聞いた?」
「知り合いから聞いたのだ。それに君の噂なら一年の間では有名だ。どんな悩みでも迅速に解決してくる〝お悩み相談所の人〟としてな」
「ふふ、他にも〝なんでも屋さん〟とか呼ばれているよね。ホント、すっかり有名人になってるよ、伊達君は」
「お悩み相談所の人、なんでも屋さん、ね……」
無邪気に微笑む有沢を横目に、頭を抱えたい衝動に苛まれる。
そんな噂はちらほら聞いてはいた。だが、一年の間で有名になるほど広まっていたのは予想外だ。
俺は入学して以降のこの半年間で、成り行き上、何人かの知り合いの悩み相談に乗ったことがある。それは友人関係や恋愛についての悩み、学園内の小さなトラブルについて等の相談だった。
そういった悩みを一つずつ解決している内に『お悩み相談所の人』、『なんでも屋さん』なんてクラス内で呼ばれるようになったのが、夏休み前の7月のこと。
それならばと、もう他人の悩み相談には乗らないようにしようと思いもした。だが、そのお悩み相談をうまい話に変えてしまった奴がいたもんだから止めに止めれず、現在に至ってしまった。
「やれやれ……俺の高校生活はどうしてこんな面倒なことになったのか……」
「ん? 何か言っただろうか?」
「いや、こっちの話だ。気にするな。それより、俺にお願いしたいことってのは何なんだ?」
「おお、聞いてくれるか、痛み入る!」
「聞くだけな。まずはどういった相談か聞いてからじゃないと、その相談に乗れるかどうか分からん」
当たり前の事だが、何でもかんでも安請け合いはしない。下手したら厄介ごとに巻き込まれかねない。
「それもそうか。早とちりしてすまぬ」
素直に頭を下げる菊池。どうでもいいが、いちいち口調が堅すぎないかコイツ……。
「で、どういったことなんだ?」
「うむ。では、早速で悪いのだが――」
「ちょおっと待ったああああ!」
前の席からそんな大声を上げて、突然の乱入者が俺達の会話に割って入ってきた。
見れば今迄空席だった前の席に、鞄を投げ出し、こちらに身を乗り出している男子生徒がいた。
その男子生徒は、茶髪で、Yシャツはズボンの外に出し、おまけに第二ボタンまで外して、中に着込んでいる黄色いTシャツがわざと見えるようにしている。それだけなら、不良っぽく見えるはずなのだが、如何せん顔が童顔なせいで、迫力に欠けている。
そんな男子生徒が目の前に立っている。
「よお、重役出勤だな、男子生徒A」
「誰が男子生徒Aだよ! 人をロールプレイングゲームの村人Aみたいに言うなよ!」
「違うのか?」
「違うよ! つか、名前がちゃんとあるんだから、名前で呼んでくれよ!」
怒る男子生徒A。だが、悲しいかな、その童顔のせいで全然怖くない。
「すまぬ、君は誰かな?」
菊池は俺達のやり取りなどなかったように真顔で男性生徒Aに尋ねた。
「僕かい? 僕の名前は前田啓司。よろくね!」
「あ、ああ。僕は3組の菊池守だ。宜しく頼む」
「オッケー、菊池くんね。で、菊池くんは覚に相談事があるんだよね?」
「ああ、そうだが……」
「やっぱりそうか。それはどんな悩みなのかな?」
「いや、ちょっと待ってもらいたい。君は一体……?」
菊池の疑問はもっともだ。突然現れて、他人への相談事を話せと言われて、はいそうですかと話す奴がいないだろう。
「ああ、ごめんごめん。僕は覚の――」
「下僕だ」
「そう、僕は覚の下僕なのさ……って誰が下僕だよ!?」
おお、見事なノリ突っ込みだ。
「なんと、下僕とは……」
「前田君、伊達君の下僕だったんだ……」
冷たい目が二つ。菊池と有沢が残念なものでも見るような目でケイジを見ている。有沢に限ってはウルウルと瞳を潤ませている始末だ。
「ふ、二人とも、なんでそんな目で僕を見てるんですか!? 違うからね! 決して僕は覚の下僕じゃないから!」
「違ったか?」
「違うわ! そこは、俺達は親友だって言うところだろ!」
「そうか、お前は俺の親友で下僕なのか」
「なんでだよ!?」
「違うのか?」
「違うよ! いや、親友は合ってるけど、下僕は余計でしょ! ていうか、お前は僕をそんな風に思ってたのかよ!?」
「わるい、冗談だ」
「あ、あのね、冗談でも言って良い事と悪い事があるでしょ……そういう事言うなら、もうマネージャーはしてやらないよ?」
「わるい! このとーりだ!」
俺は顔の前で両掌を合わせ、頭を下げる。
「分かればいいんだよ。じゃあ、ちゃんと菊池くんに僕についての誤解を解いてくれるかい?」
「オッケー!」
親指立てて気前よく返事をしたものの、何か誤解があっただろうか。などと疑問に思い、ここまでの会話を思い起こして、菊池に対してちゃんと自分を紹介しろということかと思い至った。
「菊池、改めて紹介する。さっき自分から名乗っていたが、こいつは前田啓司と言って、俺の親友兼マネージャーで下僕だ」
「そうそう、僕は覚の親友兼マネージャーで下僕なんだ。よろしくね……ってなんでだよ!? 結局、下僕なのかよ!」
おお、先程よりもキレのあるノリ突っ込みだ。お笑い芸人になれるぞ、お前。
「すまぬ、一応訊いておくが、さっきから下僕と言っているのは、冗談なのだよな?」
「そ、そうだよね! 冗談なんだよね?」
ケイジを哀れ見る目が二つ。どうやら、菊池も有沢も冗談が通じないタイプらしい。
菊池は口調だけでなく、頭も堅かったか。まあ、本当のお笑い芸人でもあるまいし、笑ってくれるとは思ってなかったけどさ。
けどなー、有沢には分かって欲しかったなー。それもこれもケイジの虐められ気質が起因しているのは疑う余地もないのだけれど。
「残念だったな、ケイジ。どうやら、お前にはお笑い芸人は無理らしい」
「何の話だよ!? つーか、なんでお前まで可哀想な目で僕を見るわけ!?」
いや、お前は元から可哀想な奴だから、いまさらそんな事を言われても困ります――と、しまった。ケイジをからかうのに夢中で菊池からの相談事を聞くのが疎かになってしまった。
「菊池、すまん。ちょっと悪ふざけが過ぎた。それで相談事ってのは、何なんだ?」
「ああ、その前に訊かせてもらいたい。先程から言っているマネージャーとは一体何なのだ? それも冗談か?」
「ん? ああ、それは本当だ。ケイジは俺のマネージャーをしてくれているんだ。俺が悩みを解決して、こいつが謝礼の交渉をする」
「なに、謝礼とな!? では、金を取るのか!?」
「いや、金だけとは限らないけどな。キブアンドテイクって奴さ。それに見合う物なら何でもいい。ま、面倒だから、金で手を打ってくれる奴が大抵だけどさ」
「そ、そうか……金か……」
うむ、と思い悩む菊池。どうやら、謝礼のことまでは知らなかったらしい。無理もない。謝礼を取るようになったのはここ最近のことだ。
悩み相談を乗る代わりに謝礼を貰う。それを最初に提案してきたのはケイジだ。俺がいい加減相談事に乗るのにウンザリし始めた頃、コイツが「じゃあ、見返りを貰えばいいじゃん」なんて言い出したのが始まりだったりするわけで。
「で、どうする? やめとくか? 無理にとは言わないぜ。こっちも別に入り用があるって訳じゃないからな」
「いや、是非お願いしたい。僕の悩みを聞いてくれないか」
「分かった。じゃあ、話してくれるか?」
「ああ……そうしたいのは山々なのだが、ここではまずい。それと出来れば君だけに話したい。非常にプライベートな話なのでな」
なるほど。何か事情があるようだ。
ケイジに目配せをすると、それに気づいてオッケーと親指を立てた。
大丈夫だよ、と有沢も何故かコクコクと頷いている。
「わかった。じゃあ、食堂はどうだ? 人はいるけど、みんな食事やお喋りに夢中だ。小声で話せば誰にも聞かれる心配はないだろ?」
それに俺もいい加減食事にありつきたい。
「ああ、そういえば昼休みであったな。すまぬことをした。こちらとしてもそれで問題ない」
「それじゃあ、さっさと行こうぜ」
席を立ちあがり、ケイジと有沢を残し、菊池を連れだって教室を出る。
さて、果たして今回のお悩み相談はどちらなのか。そんな事をぼんやり考えながら、食堂へと向かった。