93. その目。
自分のほっといてくれ空気が伝わったのか、指揮官は何も言わなかった。
踵を返し廊下を進む。
外のざわめきに対して、屋内はひっそりとしていた。病人が寝ているからだろうが、広さの割りに人が少ない。
服を運んでいる姿を見られないで済むから、良かったと思った。
ハルトマンは、背嚢の山にバッグを押し込みつつ話しかけてきた。
「……ナナシノは分霊が解るか?」
先を進む歩調は一定だが、こっちの足は止まりかけた。
言葉は続く。
「イリイチは知らなかったし、解らないようだった」
歩きながら、自分は天井を仰いだ。
誰にも言う気は無いが、コチラの死霊術は惨い。
死んだ後で魂を分割されて扱き使われるとか何それマジかとゾッとした。
イーラが言った〝尊厳がない〟という意味が理解できたし、ここの弔い方を納得していない医師が黙っていたのにも同意できる。
それに分霊なんてマイナーな言葉をイリイチが知らないと聞いても「そりゃそうだろう」としか思わない。
つか、そういうヤツの方が多いんじゃないか。
書庫の前で立ち止まった。
指揮官の青い瞳が、真っ直ぐ自分を見ていた。
「その目……。分霊の意味を、知っているんだな?」
ドアを開ける素振りがなく、答えるまで動かない気配を感じた。
え。こっちは宙に浮いた服を見られたくないし、早く部屋に引っ込んで作業に入りたいんだけど。
無視して医師みたいに足でノックしようと試みたら、目顔で制された。
ハルトマンの雰囲気が変わっていた。
うあ、コイツめちゃくちゃメンドーだ。
どうすっかなー。
視線を外して廊下を見、天井を見上げ、息を吐いて。
しち面倒臭い空気に、自分は唐突に飽きた。どっちにしろ、イリイチのオカルトに対する苦手意識をどうにかしないといけないし、透り抜け等の心霊現象のやり方も教える気でいたし。
むしろ、そっちがメインだから指揮官が幽霊の特性を把握していても害は無い。
両腕で衣類を抱えたまま踵でノックした後、自分は。
自分でドアを開けた。
ハルトマンの目が見開かれた。
ノックに呼ばれて親子の部屋から来たイリイチは、ぽかんとしている。琥珀色の瞳の主は、掠れた声を出した。
「……ナナシノが増殖してる」
長机の隅っこに服を置いた自分と、棒立ちになったハルトマンを書庫に引っ張り込んでドアを閉めた自分は、顔を見合わせたあと同時に溜め息を吐いた。
増殖って何だ。
その言い方だと原生生物を連想するからヤメテ。ホントに。