92. 困惑しているような。
ハルトマンが鞄を持ったところで、早足に誰かが来た。
続いて、カチャ、カチャ、と音がゆったりと近付いてくる。
爪を持つ獣が立てる音だ。
一緒の人間よりは軽いが、子牛よりは重い。だが、板張りの廊下は人間の分しか軋む音をたてなかった。
疑問が湧く。自分の眉が寄るのがわかった。
指揮官は、ノックされる前に開錠しドアを開けた。
途端に、神の匂いが鼻を突いた。反射的に二歩後退る。
ハルトマンはチラと自分を見た後、部屋の明かりを消して廊下に出た。
カンテラを持って先導してくれた人が、その先で待っていた。
その傍らに、狼犬に似た獣が座っていた。
頭の天辺の小さな角とか吽形そっくりだ。ただし、もふもふ毛並みがブラウンシュガー色で金色と水色のオッドアイ。石像じゃないから色があって当たり前なんだが、自分が知る狛犬はこんなカラフルじゃない。
けど、こっちの方が好きだ。神と同じ空気を持つ獣だが、機会があるなら是非ともブラッシングしたい。
優美な尻尾が、ふさりと一度だけ大きく振られた。
ハルトマンもその部下も無反応で、生者に見えていないのだと解った。
指揮官を刺激しないように、そっと会釈をする。
自分の両手が衣類で塞がっているのを見た狛犬は、閉じていた口をほんの少し緩め、ちょっぴり舌の先を出した。
狛犬の愛らしい仕草に、思わず息をのんだ。
頬が緩みそうになるのを反射で堪える。ここでニヤついたら変な幽霊だ。
あ、表情筋イタい。
それにしても、チャームポイントが外見でなくて仕草とか反則だ。
「……隊長」
緊張しているというより困惑しているような声がした。
ハッとした。庭でパニックになった人に、宙に浮く服の山は見せるものじゃない。廊下から見えない位置に移動した。
「イリーナ様は談話室へ入られましたが、イーシャ殿は地下室へ行きました。外界の警士殿は書庫に石臼を運び込んだ後、親子から離れようとしません」
石臼運んで親子から離れない警士……イリイチのことか。
え? アイツ書庫に道具を持ち込んだのか。
耳を攲てていたわけじゃないが、思わず廊下の方を見てしまう。
大丈夫か。
想像した絵面がシュール過ぎるぞ。
「警士殿が言うには〝シノが戻るまで動かない〟と。時間がありません。無理にでも案内をかけますか?」
……シノって誰だよ。
ボケッと突っ込んだ。
アレか。姿を把握されても、言葉が途切れるのか。
ちょっと溜め息を吐きそうになった。
そんな自分を、じぃっと見ていた狛犬は獣毛に覆われた耳をぴこっと動かすと、おっとりと立ち上がった。身体の向きを変え、歩き出す。
何とは無しに、狛犬を見送った。
カチャ、カチャ、と爪が立てる音が遠くなり、ふさふさの尻尾が見えなくなって、唐突に思った。
……。
……何しに来たんだろう?
コチラに来て度肝を抜かれた事は何度かあったが、コレは分からない。
ぼうっとしていたら、指揮官の声が聞こえた。
「……解った。オリーに、支度が終わったのなら医家の手助けをする様に伝えろ。その後は守備班に合流。警士には俺から打診する。――行け」
敬礼らしい仕草をした部下も立ち去り、指揮官が息を吐いた。
黙ったまま、自分は廊下に出た。ハルトマンはドアを閉める。ポケットから鍵を出して施錠し、顔を上げたところで動きが止まった。
……何だよ?
月明かりが差し込む廊下で、視線が交差する。
何か言いた気な指揮官の青い瞳に、自分は「ああ」と思い至った。そう言えば、狛犬も似た様な目をしていた。
半笑いが浮かびそうになった。
山のような服を抱えた自分が、洗濯物持った主婦みたいに見えるんだろ?
知ってるよ? 前に「ハマリ過ぎ」って大ウケされたことがあるんだ。