89. ミエルヒト。
どうしてだか追い詰められた感が拭えない。ハルトマンの伏せられていた顔が上げられ、青い瞳に射抜かれた。
うあ。
やっぱイーラの親戚だ。威圧感ハンパ無ぇ。
「どっか向いてようか?」
気付かないフリをして、水を向けてみる。
取り敢えず、その稽古着モドキを脱いでもらわないことには作業に入れない。何かハナシがあるなら、着替えながらしてくれ。
背を向けた自分からは見えなかったが、ハルトマンの溜め息が聞こえた。
衣擦れの音がし始めて暫く。ごく小さな声で話しかけられた。
「ナナシノ殿に頼みがある」
呼ばれて、真名の事を思い出した。
「……指揮は部隊長だから、殿はいい。そもそも〝ナナシノ〟は自分の本名じゃないから」
もう完璧に忘れてた。
何となく天井の隅を見てしまう。あ。蜘蛛の巣見っけ。
「それにイリイチから聞いて知っている。瀬……、医師とイーラの名前の事だろう?」
セト医師と言いそうになって支えたが、何とか誤魔化した。
着替えの音が一瞬だけ止まって、また溜め息が聞こえた。悪い。ホントごめん。
「……助かる」
ボソリと紡がれた言葉は、疲れを感じさせた。
……こりゃ何度か似た様な事があったな。
もういい、と言われて振り返った。
暗色系のシャツとズボンのハルトマンが、紺の服を持って立っていた。下は普段着だったのか。服を渡しながら、ハルトマンは唇を開いた。
「これは興味なんだが……」
ん?
「医家が。……イリイチを把握できるのに、ナナシノが分らないのは何故だ?」
それを当人に訊くか?
別に隠すことでもないから、説明することにした。
「そりゃ、大概の生者は<見える人>じゃないから」
受け取った胴着の肩を、両手で持って広げて検分する。
襟がちゃんと作ってあるから、大丈夫そうだ。
「ミエルヒト?」
バッグを開いて新しい紺の服を取り出しながら、ハルトマンが尋ねる。
自分は畳みながら喋った。
「自分が勝手にそう呼んでいる。部隊長や双子のように小さい頃から自分達みたいなのが解ったり、後天的に見えるようになった人間のことを指すんだ。自分はイリイチよりも弱いから見えにく――」
「――待て」
遮られて、視線を向けた。
感情の抜け落ちた顔をした指揮官が居た。