85. イリイチの弱点。
医師の単衣と自分を交互に見ていたイリイチが、「じゃあ」と口を開く。
「ハルには予備に着替えてもらって……ナナシノお前行って受け取ってくれば? 親子はオレが看ているから」
ハルトマンの腕を放して振り返った。
あ、いいの? それなら……
「イーラ、部隊長が着替えている間に膿盆と粗塩を頼めますか? 今はまだ平気でも、そのうち要るだろうから」
「膿盆はともかく、塩なんて何に使う?」
ハルトマンがきく。
自分はひょいと肩をすくめた。
「塩じゃなくて、粗塩。精製されていない方が良いんだ。何にしろ来るだろうしソレ用で」
つらっと答えたら、琥珀色の瞳の主の声した。
「ナナシノ。〝ソレ〟って何だ?」
ん? 何って、
「悪霊」
口にした途端、部屋の時が止まった。医師以外の全員が眉根を寄せている。
漸く自分は、空気がおかしくなっているのに気付いた。
何か知らんが、しくじったか?
「……部隊長、今の話を医師に。その人は、イリイチを把握できても自分はダメなんだ。併せて〝清めの塩〟について訊いてみてくれ。知っているはずだから」
冷静なハルトマンの説明と質問に、医師も眉根を寄せた。どっかを見る目が科学的懐疑に満ちている。
「知ってはいるが……。ナナシノさん、ホントに清めの塩が必要になるのかい?」
逆質問に、自分は溜め息を吐きそうになった。
まぁ、気持ちはわかる。
自分もそうだったし。だからこそ沢山の霊に憑かれた経験は忘れられそうにない。
「気休めに過ぎないが<禁書>が<降臨>と同じ性質なら、神殿に居たような連中も来るかと。粗塩よりも有名なのは<銀の弾丸>なんだけど……」
頭を振って口を噤んだ。
それこそ〝銀の弾丸など無い〟だ。
ふと、琥珀色の瞳の主が真っ青になっているのに気付いた。その、すげぇ変な顔に見覚えのあった自分は、イリイチに近付いて顔の前で手を振る。
ガッチガチに硬直した幽霊に、人間三人が注目した。
弾丸繋がりで思い出した。
イリイチは<河>で拳銃嚢に手を掛けていた。あの時は銃を引き抜かなかったが、鋭い眼差しは本物だった。考えにくいが、パニクって発砲されては堪らない。
自分は、首を傾けて肩をポンと叩いて言ってみた。
「撃つなよ?」
「撃てるか!」
即答だった。
ドン引いたイリイチの反応の激烈さに圧倒されるが、あ。鳥肌立っている。
そういえば。
フィクション映像で激走馬車を見ているなら……映画好き? ひょっとして
「……イリイチ。お前、ジャパニーズ・ホラーを見たことあるのか?」
ピクリ、と。
僅かに琥珀色の瞳の主の肩が跳ねた。
ゴツイ美人をまじまじと見る。
自分を見返す動揺に心当たりがあった。仲間内でも何人かいたからよく知ってる。
こりゃ子供の頃に観て、あの理不尽さをスルーできないままトラウマになった型だ。夢に見て魘されたくらいはあったな。
というか。
予想もしなかったイリイチの弱点に、自分は頭を抱えたくなった。
どうすんだよ。
これから<部位>とか似た様なモノに遭遇すんのに、もう「ご愁傷様」としか言いようがないぞ。
自分の言葉がハルトマンの声で届けられた瞬間、医師はポカンとした。
「イリイチさん、アンタ幽霊なのに幽霊が怖いんかい?」
え!?
と、言わんばかりにハルトマンとイーラがイリイチを見た。青い目が真ん丸に見開かれている。自分は天井を仰いだ。
何だこの突然の公開処刑。フツー皆の前で言うか? 幽霊っつっても生前からの得手不得手というのがあってだな、……あ。
イリイチがヘコんだ。