81. これがフツー。
耳にした瞬間、イリイチは手で口を塞いだ。
パン、と痛そうな音がしたが、あらぬ方を見てプルプルしている姿は……、アレだ。
声を殺して笑っている。
医師はきょとんとした顔で琥珀色の瞳の主を見た。
……ちょっとウケ過ぎだ。
お前が初対面で自分にどんな印象を持ったかが良く解った。特に性別。
つか、一体なにを想像した?
真顔になろうとして失敗したイリイチは、ヒクつく唇を動かした。
「ドクター・セト、……イーシャ。ナナシノは男だ」
「ん。そうか、ありがとう。ワシの事はセトと呼んでくれて良いさ。それじゃ……」
医師は返事をすると、帳面、墨壷、小筆を取り出し、机に置いた。
リアクションが薄いというより、これがフツーのようだ。
自分は上着の内ポケット探って、残していた新しい手帳を取り出す。
経過録の続きだ。見せるのなら、イーラが席を外している今しかない。
筆に墨を含ませている医師の背後を通って、イリイチへ差し出した。彼は栞紐の頁を広げると、帳面の側に置いた。
墨と筆先を馴染ませていた医師の動きが止まった。眉を顰めている。
明かりを寄せて目で文字を追い、筆を置いて、イリイチを見た。
「……ナナシノさんが風邪で運ばれた時の体重は――」
持っていたペンで欄外に書き足す。
口元を手で隠していた琥珀色の瞳の主の眉根が寄り、唐突に顕れた数値を目にした医師は、下唇を突き出して唸った。
「……わかった。他に何かないかい?」
少し躊躇ったが、薬剤手帳も医師が持っているので構わないと思った。
「イリイチ。懐中時計をセト医師へ」
声の大きさは普通だったが、生者には聞こえていないようだ。母親の時は、姿が見えないのに声が聞こえるという心霊現象になってしまったから、内心ホッとした。
鎖を引っ張って取り出した時計を、琥珀色の瞳の主は机に置く。
目顔で促され、手に持った医師は竜頭を押して蓋を開けた。蓋と時計盤の間から、鈍色の光が三つ落ちる。自分の指が動いたが、医師は零れ落ちた光をサッと受け止めた。
彼の掌を見たイリイチの目が見開かれた。
「……イーラから聞いたが。ナナシノさんの死因は、乗り物に撥ねられた交通事故だったか」
手の中の硝酸薬を見た医師は、溜め息を吐いた。