78. 医師は今。
そもそも幽霊なんて存在は、視認されなければ其方退けがフツーで当たり前だ。けれど、ナチュラルな動作に呆然としたらしいイーラは、手帳が突っ込まれたポケットをまじまじと見ていた。
彼女の視線に気付いた医師は「写したらイリイチさんに戻すから」と事も無げに言うとヒラヒラと手を振った。
イーラはゆるゆると顔をこちらに向け、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
自分は悟った。
診療モードの医師にイーラ慣れすぎ。
「……イリイチさん仕立て物はできるかい?」
幽霊へ向けられた質問は、とても穏やかなのに返答への強制力が凄い。
否も応もない医師の力強さは謎だ。
琥珀色の瞳の主の眉が困った様に下がる。彼は溜め息をついた。
「全く。ボタン付けくらいしか」
イリイチの自信無さ気な声が聞こえた。うん。自分もだ。
裁縫ニガテ。スラックスの調整とか、裾上げテープを使うまで苦痛だった。
あ。廊下側の壁までもう少し。
背後で医師が小さく唸った。
「ここじゃ魔法が当たり前なんだが、呪い中毒が出とる患者に魔力は危険だ。毛布やシーツを剥いだのも、原料を糸にする段階で魔法が使われとるからだ。だから服も換えたい。ワシが紡いで織った反物があって魔力無しに縫い上げて貰いたかったンだが、……そうだ。ナナシノさんはまだ居るかい?」
ギクリとする。
反射的に足運びを止めてしまった。
恐る恐る医師を振り返った途端、見えない自分を探していた視線に認識された気がして、即座に後悔した。
何と言うか。
医師は今、フツーの顔をしている。
ビミョーだ。
初対面なのに、その表情に既視感があった。
ふと「バターを使った和食」をリクエストした仲間と同じだと思い至る。
いやな予感がした。
「……名乗りで予想して見当違いかと思ったが、手帳の文字で確信した。アンタ日本人だな? スマンが寝巻きの代わりにするから、親子に浴衣を縫ってくれ。学校の家庭科で習っとるハズだ」
……はい?
一瞬、何を言われたか解らず、ぽかんとした。
医師は泰然としたまま続ける。
「四反あるから替えも頼む」
え?
「肌襦袢もな。晒あるから」
どっかを見ながら、ぽんぽん言う医師に目眩を覚えた。
ちょっと待って。
……ホント待って。
「隣の部屋で仕立て作業が出来るように準備をしとってくれ。すぐに道具と生地を持って来るから」
言うだけ言うと、医師は振り返りもせずにドアを開けて出て行った。
パタパタと廊下を行く気配がして、音が小さくなっていった。
暖炉の火がパチンと爆ぜた。台風の後のような静けさが、耳に痛い。
茫然と目を向けた部屋の中。イーラは重々しく頷き、イリイチは可哀相なものを見る目をしていた。
自分はドン引いた。
……浴衣って、ソレいつの時代の家庭科だ。
自分の時はエプロンで、着物なんて縫ったコト無い。