77. 名字はセト。
「……イーシャ。エアと子供た――」
イーラの声が途切れたのは、医師と自分を見比べていた琥珀色の瞳の主に、男が近付いてその手を取ったからだ。
突然の握手に目を丸くしたイリイチへ、医師は笑んだ。野太いが、柔らかく穏やかな声で挨拶をする。
「ワシは医者だ。名字はセトというがココじゃ“イーシャ”と呼ばれとる。はじめまして。よろしく頼む。早速で悪いんだが」
医師は不意に動きを止めた。
不思議そうな表情を浮かべていた。
「……アンタがナナシノさんかい?」
「いや、オレは」
「イーシャ貴方イリイチに触れてナナシノが見えないの? あああ、その人は違うのナナシノはこっちに立ってるの」
イキナリ触れられた琥珀色の瞳の主は我に返り、イーラが慌てる。二人は自分と医師をオロオロと見たが、肝心の男には見えていないようで、きょとんとするばかりだ。
自分はため息が出そうになった。
仕方なかった。
上着の内ポケットから手帳を取り出す。頁を開いて琥珀色の瞳の主に差し出した。
彼が手帳を受け取ると、今度は医師の目が丸くなった。手帳が忽然と現れた様に見えたのだろう。
自分の手が離れると見える現象は天幕と同じだと思った。
「……経過録。コレの続きは?」
真顔になった医師は、目で文字を追いながら唇を開く。自分はもう一冊、今度は薬剤手帳を取り出してイリイチへ手渡した。
そこに生者の指が掛かる。
医師は二冊の手帳を手に取ると、器用にページを繰った。
自分の眉が上がった。イリイチに触れるから、幽霊の私物にも触れるのか。つか速読。何気に早ぇ。
暫くして医師は顔を上げた。イーラに向かって頷いた。
「精霊どもの協力があってアンタまでいるんだ。この親子は手持ちの器材と薬で対処する。ハルの事は後で何とかしよう。それと……」
喋りながら診察衣のポケットに手帳を捩込んだ。
え。
自分は呆気に取られて固まった。
動きを目で追ったイリイチは、眉を顰めている。厳しい顔をして口を開きかけた幽霊へ、医師の視線がピタリと止まった。
冷静な瞳に見覚えがあった。
……ヤバい。
医者が診療モードに入ってる。
産気付いた牛と同じだ。
逆らうと拙いどころか、コチラの方が危機的状況に陥るタイミング。
ロックオンされた琥珀色の瞳の主に、ひっそりと同情した。
「イリイチさん。アンタに頼みたい作業があるんだが聞き入れて貰えンかね?」
飄々とした語り口にも拘わらず静かな声音の依頼力がハンパない。
側に居るだけなのに変な汗が出た。
自分、見えてないなら廊下で待機してて良いか? 良いよな?
そろそろと間合いを取りながら、つい膨らんだ診察衣のポケットを見てしまい、ーー溜め息が出てしまった。
手帳……返って来んのかな……。