76. 忘れていた苦手意識。
現れた先は親子が運ばれた部屋だった。
琥珀色の瞳の主は突然の変化に驚いたのか、パッと手を離した。
騒動の前と違い、壁に備え付けられた照明に小さな火が灯されドアが閉められている。
応接セットの傍らでイーラは皺くちゃになった毛布を畳んでいた。彼女の真横に自分達は立ってしまい、イーラの肩がビクリと跳ねて視線が向けられる。目が合うと緊張が解けたのか、青い瞳が笑んで口元が微かに綻んだ。
部屋の中は暖かい。
生成りの長衣を着た男が枕元で屈んでいて、親子に綿毛布を被せるところだった。白いシーツが厚みのあるシーツに交換され、枕も違う。
イーラの側に置かれた寝具から、ベッドのリネンが全て取り替えられているのに気付いた。
イリイチと二人、顔を見合わせた。
ふと、上半身を起こした男から、様々な薬の匂いが混ざった清潔な香りが立つ。それを嗅いだ瞬間、入院していた病室の天井が脳裏に浮かんだ。
自分は唐突に理解した。
この生者は医者だ。
独特の香りは、医師の匂いだ。
土の神が岳人と共に連れて来た世捨て人。駆け落ちみたいな逸話とイーシャという名前から、女性だと思い込んでいた事に気付いた。
忘れていた苦手意識が湧き上がる。
行動力のある人物は概ね世間に受け入れられるが、周囲の人間が平穏でいられるかは、また別の話だ。
ソファーの背凭れから上着を取り上げると一歩離れた。
そして。
一つ息を吐いてから振り返った男の姿に目が点になった。
イリイチが自分をサッと見た。
長衣に見えたのは診察衣で、それが特徴的な黒い瞳によく似合っていた。
灰色がかった白髪は短く、髭がない。黄褐色の肌は日に焼けて健康そうだ。年齢を重ねたアジア人特有の色合いに、彫りの浅い顔の造作。
ボケッとした自分が持った医師への第一印象は「何でココに日本人が」だった。