75. 囁くような声を拾い。
さぁ、と血の気が引いたのが自分でもわかった。イリイチ……、これはちょっと。
衝撃が過ぎる。
早鐘を打つ心臓に負けて、唇に指を当てたまま深呼吸した。
脳裏に浮かんだのは<井戸>での出来事だった。淵に座って小首を傾げた水の神の言葉が思い出される。
……<神降ろし>の儀式を邪魔したのであろ? よく滅ばされずにすんだの……
自分は目を閉じた。
そもそも神霊に近いとはいえ高が元人間が、神を呼ばわる儀式を妨害して無事で居られる筈も無いのに。イリイチの高仕様に目が行って完全に見落としていた。
自分のボケっぷりに眩暈がしそうだ。
やっとの思いで瞼を少し上げる。目を伏せたような形になったが、自分的にはコレが精一杯だ。
声が掠れていないように祈った。
「……わかった。それで、イリイチはどうしたい?」
黙って自分を注視していた琥珀色の瞳の主は、あっさり言った。
「精霊達にナナシノが “双子の無事を確認するまで”って言ったからソレ以上は何も。情報が足りない今は指針以上の事は決められないし――」
イリイチは、立ち上がってヒョイと肩をすくめた。
「先ずは、<禁書>の呪い? で病気になった親子をどうにかしないと。ドクターが居ても、ナナシノの経験談がないと診断のしようもないだろ?」
問うような眼差しに、頷きで返事をした。
差し出された手を掴んで立ち上がる。脇腹がズキリと痛んだが気にしないことにした。
あ。そういえば。
「……イリイチは、自力で<河>から双子の所へ戻れるか?」
琥珀色の瞳が、一瞬だけ泳いだ。
無理か。
「じゃ、自分のコート……は、マズイな。下手すると親子の寝床の真上に出るし。あー、自分の上着は辿れるか?」
探るような緊張の後、イリイチは苦しそうに言った。
「ジャケットとコートの位置が近すぎて、どっちがどっちか解らない」
しまった。そうだった。
ベッド側のソファの背凭れに置いたんだっけ。
「部隊長や、イーラ。……親子はどうだ?」
イリイチの目が、眇められて閉じられた。やがて「ダメだ」というように、ゆるゆると頭を振られた。
仕方がなかった。躊躇ったが、ごく小さな音に出した。
「……エイレーネーでは?」
目を閉じたままのイリイチは、囁くような声を拾って、言われた様に探ったようだ。
顰められた眉がパッと開いた。
「居た。見つけた。行ける」
すぐさま跳ぼうとしたイリイチの腕を、掴んで引きとめた。
驚いた琥珀色の瞳を見上げて、自分は密やかに言った。
「今のは、イーラの真名だ。あっちでは、くれぐれも音に出して呼ぶな」
イリイチはポカンとした後、説明しようと口を開きかけた自分を笑みで止めた。
「それ、ハルからも言われた」
え、と思ったが彼は笑んだまま手を握った。
次の瞬間には、自分とイリイチはイーラの側に移動していた。