72. 途方に暮れ。
表情が抜け落ちている。自分に掴まれた手首を見て、唇を開いた。
「悪い、……ナナシノ、手を離してくれ」
あ。
すまん。
パッと離して、二歩後退る。
イリイチは少し屈んで、両の膝頭を握った。じっと静かに呼吸をし、水面に向けられた琥珀色の瞳は、何も映していないようだ。
ビミョーな事態になった。
胃が痛くなりそうで、一つ息を吐く。その途端、脇腹に痛みが走った。
熱を持ち始めた<傷>がよろしくない。片息をついて座り、横になる。背中を流れる清水が心地良く、瞼を閉じて目を開けた。仰向けで見た蒼穹の星は、刺すように輝いている。
自分は待った。
やがて、イリイチはゆっくり身体を起すと、真っ直ぐ立って周囲に視線を巡らせた。広やかな流れを見て、宇宙を見上げる。寝っ転がってる自分を見下ろし、徐にため息を吐いた。
「……ここがナナシノが言っていた、“あの世の入り口” か」
それは問いではなく、確認だった。
平淡な声音に正直に頷くと、イリイチはガシガシと髪を掻いた。
「クソッタレ。……ホントに入り口じゃないか」
零れ出た語気の鋭さに驚くと同時に、琥珀色の瞳の主の動揺を感じた。
イリイチは拳を唇に当て、喉の奥で呻くように言った。
「バカだろ……何やってンだ。あんなところで」
低い声調で紡がれた言葉は、感情を持て余している様だった。
似たようなことをどこかで耳にしたと思ったが、神殿の中だったと気付く。
内心で呟いた。
おまえにだけは、言われたくねぇよ。
オヒトヨシ。
視線を感じても、自分は話さずにいた。水が流れる音以外、何もしない。
「ナナシノ」
イリイチが座る気配がした。
「……何でオレの呼び掛けに応じたんだ」
内容より、消え入りそうな声遣いに引かれて首を捩った。
琥珀色の瞳が途方に暮れているのを初めて見た。
「お前、幽霊だけど……まだ生きている」