71. 河の中心で。
鞍は頑丈に造られているので、概して重い。
それを安定させる為に、帯は確りと締められる。だが、前肢に食い込むソレは馬にとって不快感が大きく、乗せ外しに神経を使う。
「……脚の付け根にかかる下の帯を外して、……それから。厚布ごと鞍を抱えて持ち上げて。絶対に馬体の皮膚を擦らずに、そのまま。驚かせない様に外せ」
指示通りに動くイリイチの慎重さに、自分の眉が上がった。
やっぱスゴイな。山岳馬が手櫛で蕩けるはずだ。
鞍を抱えたイリイチが馬房から出ると、出入り口に棒を渡し、馬から水勒を外した。手綱の結び目を解いて、手に持った。少し伸びた部分が指に触れて、ため息が出そうになった。
うあー。手綱、傷まったか。
そっと撫でて、ふと足音に気付いた。イリイチも引き戸に目をやる。ポニーは幽霊の変化に頓着せず、鬣を振るわせていた。
人間の気配が近づいている。
世話をするために来たハルトマンの部下だろう。馬具置き場まで鞍を持っていけば鉢合わせする。タイムアップだ。手の水勒をその場に置いた。
『イリイチ、鞍を置け。そっと。音を立てるな』
『……了解』
屈んで鞍を置いたイリイチの腕を取って、自分は奥へと進んだ。
牝牛が興味深そうに目を輝かせて自分達を見ている。笑みが零れた。牛の額を掻こうとして思い止まる。
触ろうとした素手を引っ込めて、イリイチに向き直った。
『壁を透り抜ける』
は?
と、言いたげな顔をした琥珀色の瞳の主を、無視して自分は壁に半身を透した。
その心霊現象の悍しさからだろう。
顔を引き攣らせたイリイチが、バッと腕を引いた。同時に、開いたままの引き戸に人が立つのが見えた。
姿を見られる。
慌てた自分は、振り払われた腕と反対の手首を掴んで身体で引いた。<肩代わり>の激痛が走ったが、その甲斐はあった。蹈鞴を踏んだイリイチが壁に手を付こうとして、目を見開く。
琥珀色の瞳の主の指が、ガラスを通る光のように壁を透過した。
それを視認した瞬間。
厩舎の外に出るだけの心算が、しくじった事に気付いた。
脳裏に浮かんだのは、自分に取り憑いた沢山の幽霊。
岩を透った自分の指。
九人の亡霊。
遠い蒼穹へ昇った光。
しまったと思ったが、遅かった。
イリイチは清水を跳ね上げて数歩進み、踏み止まった。突然変わった空気の清浄さに反応したのか。空いた手が拳銃嚢に掛かり、夜を思わせる空間を鋭い眼で薙いで、ーー固まった。
清冽な流れの音が、耳に痛い。
連れて来る気は無かったのに。
焦って動いた結果に、頭を抱えたくなった。
琥珀色の瞳の主は<河>の中心で。
呆然と宇宙を見上げ、次いで自分を見た。