69. 馬と幽霊が。
痛みの描写があります。苦手な方は、スルーをお願い致します。
防疫と安全面の観点から、関係者以外の方は厩舎に入るのはご遠慮下さい。
柱の手綱を解いて手に持ち隣の房を見る。琥珀色の瞳の主は鬣の生え際を掻いていた。長い首を伸びやかにして蕩けていた山岳馬が自分に気付いて、そっとイリイチに合図する。
馬と幽霊が、馬房の中から自分を見返した。
ほのぼのとした様子にぽかんとする。
蹴って蹴られた間柄なのに馴染んでいる。スゴイな。手櫛でウットリとか自分じゃムリだ。
馬の鼻筋を撫でながら琥珀色の瞳の主は唇を開いた。
「……ナナシノ。この馬の鞍は、どうするんだ?」
自分が外そう
と告げる前に、ポニーの焦げ茶色の瞳と目が合った。
四本の脚で確りと立って、こちらを見ている。注視とは違う。むしろ優し気で穏やかな姿に、ため息が出そうになった。
ひどい目に遭った後だ。
馬から信頼を寄せられた方が世話をするのがベターだろう。
だが、イリイチは手綱を両手で結んでいた。ポニーとの接し方も見様見真似で、おそらく家畜全般に慣れていない。
機敏で慎重なのに、馬の蹴りが当たったのはその所為だ。
けれども飲み込みが早い。
それなら、やり方を教えれば良いだけの話だ。
水勒を飼い葉桶の側に置く。
手袋を外してスラックスのポケットに挟み込み、唇を引き結んだ。
脇腹を傷めたイリイチに「後で見せてくれ」とは言ったが、それはちゃんとした光源のある部屋の中での話で、厩舎ではない。
荒療治の予感に覚悟がいった。目を伏せ、気息を整える。
火の神ではないが、チョイチョイと手招いた。
近寄ったイリイチの腕をヒョイと掴んで持ち上げて、がら空きになった胴へ拳を突っ込んだ。
装備と制服を透過した自分の手が、腹を抉る。
琥珀色の瞳の主の身体が硬直し、馬房の中で馬がビクリと反応した。
真ん丸に見開かれた瞳が二対、真っ直ぐ自分を射る。
説明する時間はなかった。イリイチの身体が痛烈に自分の掌に食い込み、徹底的に気力を削いだ。
痛みと焦りに汗が出る。
脇腹から目を離さずに、触覚と勘だけで<傷>を探した。
見つけたのは指を動かした時だった。
躊躇なく傷を鷲掴み、そのまま引き抜く。と、同時にダメージが自分に移植され、衝撃に息が止まった。
抗原抗体反応で喘ぎそうになる呼吸を飲み込む。
掴んでいた腕を、そっと放して二歩後退り、慎重に唇を開いた。
「……まだ痛いか?」
イリイチはゆっくりと緊張を緩めた。
手がそろそろと持ち上がり、患部を確かめるように撫でた。
「……傷がない」