68. 夜の静寂に。
動物の行動描写があります。苦手な方はスルーをお願いします。
防疫と安全面の観点から、関係者以外の方は厩舎に入るのはご遠慮下さい。
二頭分の蹄の音が夜の静寂に響く。
山岳馬と幽霊は、指揮官が小屋と呼んだ厩の前で立ち止まった。
ザワザワと木立が風にざわめく。
少ししてイリイチのため息が聞こえた。自分は頭が痛くなった。ハルトマンとの認識の違いが、物凄まじく大きいのが解った。
基礎が打たれた二階建ての厩は、もう小屋じゃない。厩舎だ。
鬣の生え際を掻いてやってから、牧柵に繋いだ。
重い引き戸をゴロゴロと開ける。飼い葉と木と石の匂いがした。
厩舎内の暗闇を、庭の篝火が四角に切り取る。光の中に自分の影がないのを無感情に見て、馬はともかく町っ子のイリイチが明かり無しで中を歩くのは無理だと思った。
奥から獣の気配がしてゴソリと音が聞こえた。
四角い光が動物の瞳を捉えて反射させ、こちらをじっと見ているのが解った。この匂いは……乳牛か?
「……イリイチ。明かりをつけるから、ちょっと待っててくれ」
自分と同じように手綱を繋いで動こうとしたイリイチを制する。
琥珀色の瞳の主は頷くと、結び目を解きにかかった。
出入り口近くに置いてあったランタンを取り、篝火からの貰い火で明かりを灯した。
持って中に入ると外の気温と音から隔絶されて、戸惑う。
整頓された馬具置き場は塵一つ落ちていない。馬房に入れられた飼い葉と鋸屑が目に付いたくらいで、ガランとした厩舎内に馬は一頭もいなかった。
中央にランタンを下げて仄かな明かりが広がると、奥からこちらを見る茶色い牝牛と目が合った。
好奇心が旺盛らしく、囲いの中からぬっと顔を出している。青みがかった黒い目で真っ直ぐ幽霊を見て、ふんすふんすと匂いを嗅いだ。
人懐こい仕種に思わず笑みが零れた。
自分が一歩踏み出しても驚かないし顔を引っ込めない。近寄って体型を見て眉が上がった。腹が少し太い。春くらいには仔牛を産むだろうか。長い舌を伸ばして、腕時計を舐めようとした。
牛の額を掻いてやり、厩舎内全体を眺めて空き具合を見た。牝牛側の馬房には掃除道具や飼い葉、鋸屑がしまい込まれてあったが、通路を挟んだ反対側は空っぽだ。
……出入り口近くの方がいいな。
チェックした馬房にホコリと蜘蛛の巣が無いのに安堵して空の飼い葉桶と水桶を通路に出し、床に鋸屑を足した。
外に出て、繋いだ手綱を解いた。
手招いてから先導し、房に入る。一頭分の間を空けて後ろを付いてきたイリイチに隣の房を指差し、それ以上奥に行かないように気を付けた。
房の中で壁に沿うように馬を引いて通路側に頭が来るように回る。手綱を柱に結わえて、鞍を外した。ズシリと重い鞍は鐙が無く、乗馬用ではない荷運び用だ。馬体に負担をかけずに外すには、脇腹を傷めているイリイチにはキツイ。
両腕で鞍を持ったまま、隣を覗き込んだ。
「……イリイチ、鞍は重いから外さずにそのまま待っててくれ」
自分の見よう見真似で房の中をくるりと回ったイリイチは手綱を柱に結わえるところだった。集中はしているが自分の言葉に頷いたのを確認して、その場を離れた。
頑丈そうな鞍置き台にそっと置いて戻る。
備付けの棒を渡して房の出入り口を閉じてから水勒を外した。無口頭絡だけになると、馬は気持ち良さそうに鬣を振った。