62. 一度目で得た経験則。
動物の行動描写があります。苦手な方はスルーをお願いします。
【注意】
パニックを起こした動物の苛烈さは素人がどうこう出来るレベルではありません。リアル遭遇した時は近付かず、安全な所まで待避して下さい。
勢いよく飛んで来た、底の抜けた桶を絡めて取った。意外と重くて驚く。
見慣れない装束の男に押し付けて、さっと目を走らせた。
散乱した荷を蹴りたて、鬣を振り乱した山岳馬の暴れっぷりは物凄まじかった。手綱を掴もうとしても、跳ね上がる二頭分の後肢を避けながらでは難しい。番いではなさそうなのに、その連携たるや見事としか言いようがなかった。他人事だったら呆気に取られている。
馬に慣れたこちらの人達が何故手間取っているのか、よく解った。
一頭でもアレなのに、庇い合う暴れ馬が二頭じゃフツーにヤバい。
太いロープを持った部隊の人が自分をすり抜けて行った。緊張ばかりが伝わって、どのように包囲して縄をかけるのかわからない。目立たないように、そっと移動した。
自分は幽霊だが、ヒトに見えなくても動物には認識される。
特に大型哺乳類には。
これは一度目で得た経験則だった。
迷い込んだどっかの牧場で白黒牛に揉みくちゃにされたのも忘れ難い思い出だが、断トツの大物は何と言っても海洋生物。鳴門海峡から太平洋に出て、泳いでいた鯨の群れから面白がられて追っかけられたのはここだけの話だ。
転がって逆さまになっている箱の影に身を潜める。自分のすぐ側で暴れている馬の感情が、ダイレクトに伝わってきた。
他の動物の騒動に狼狽え、見知らぬ人を警戒し、挙句に主人が見当たらない。逃げ出そうにも、それができない状況に混乱している。
少し離れた所のもう一頭が、後肢で荷物を蹴り上げた。
あちこちから注意を促す声が飛び交うが、張り詰めた声調に思わず「黙れ」と言いたくなった。<場>に呑まれてしまっては、収拾がつかなくなる。
荷は、けたたましい音と中身をぶちまけて落下した。馬は更に驚いた。目を剥き嘶いて、前肢を上げた瞬間。
自分は出し抜けに両腕を広げて立ち塞がった。突然現れた幽霊に、ビクリと反応する。
馬が自分を見た。
蹄の落下地点をズラして前肢を地面に下ろした。自分は両腕を下ろさず意識を鎮めたままでいた。
馬は長い首を震わせて鬣を振り、脚をカタカタと踏みかえて落ち着かない。
耳が後ろにピッタリと倒れていて汗をびっしょりかいていた。
とてつもない緊張と警戒が伝わって、空気が張る。
だが、それだけだった。
イーラから農耕馬より大人しいと評された性格は本物だった。ガチで狂った暴れ馬ならこうはいかない。
庭に出て視線を走らせたとき、一目で解った。
山岳馬は可哀相なくらい怯えていた。今も怖さで震えている姿に、胸が締め付けられる。
自分はそっと喉と鼻腔を震わせた。
その途端。
背けられていた顔が上げられ、パッと目が合った。
自分が出した<音>は、母馬が子馬を落ち着かせるために出す音に似せてある。それが聞こえたのだろう。まじまじと見る目に恐怖はない。耳がこちらを向いていて、集中しているのがわかった。
もう一度、音を出した。
自分をじっと見ているので驚かせないよう慎重に歩み寄り、静かに手綱を握る。手袋をした手で鼻筋を撫でて音を出すと、馬は喉を震わせて応え、太く頑丈な首をそっと下げてくれた。