59. 声がどこか遠くから。
ダイニングを素通りし、そのまま廊下へ出る。
納戸と思わしきドアの前で立ち止まると、イリイチではなく自分を見た。
一瞬不思議に思ったが、ハルトマンがドアを開けた時に理解した。
カ ビ く さ い。
自分のコートが毛布代わりになったはずだ。
窓の無い部屋に入ったハルトマンからバサバサと毛布を投げられ、反射で受け取った。
うえ。コイツ自分で家事をしないタイプだ。物は大切に扱えよもう。
つか生身だったらクシャミが出ている。幸い納戸の臭いが移っているだけで、毛布そのものがカビているわけではいないが、ちょ。コレ。
あああああ三日くらい昼夜干ししてぇ。
イラッとしたから毛布の山を抱えたまま、ドアのすぐ傍に立ってやった。納戸から出てドアを閉めて振り返ったハルトマンが仰け反る。
幽霊や二神はともかく、ただの人間に強烈なカビの臭いは頭痛モノだ。背後霊もやらないイヤガラセにハルトマンがそれとなく距離をとったのを見て、自分は溜飲を下げた。
「部隊長……屋根の使用許可を貰えればこのまま持って行って昼夜干しするが」
「……いや。別に干さなくても叩いて使――すまない。とりあえず、この辺りへ仮置いてくれ」
自分の背後でイリイチと二神がどんな表情をしたのか知らないが、何があったのか後で聞こう。動じない指揮官が、視線を逸らしながら廊下の片隅を指差すのは、ちょっと見ものだった。
板張りの廊下に直置いた毛布の山を畳む自分をチラリと見てから、ハルトマンは臭いがマシな一枚をあっさりと取り上げた。
廊下を進み、別のドアの前で止まる。奥に部屋があると言っていたが、あそこは客間だろうか。ほとほと、とノックし、ドアを開けたまま入室した。続いてイリイチと二神も入り、遅れる事しばし。畳み終わってから入った自分は、その部屋が客間でない事が解った。
ダイニングほど大きくは無いが台所ほど狭くも無い。
窓には二重カーテンが引かれ、外の様子はわからない。断熱効果は抜群のように思えた。
部屋の明かりが暖炉の炎で自分は驚いたが、続き部屋のドアを見て納得した。
テーブルとソファの他に、筆記机と大きな書棚が二つ。部屋の隅にベッド。
誰かの私室のようだ。
ガッシリとした寝台で母子が眠り、サイドテーブルにはガラスの水差しが置いてあった。
ハルトマンとイリイチが毛布を広げるところで、応接テーブルの上に陣取った二神がカビや湿気の話をしている。それで毛布の状態を魔法でどうにかしようとしていることが理解できた。
火の神が毛布の湿気を熱で飛ばすところをみて、そっとため息を吐く。
自分は、魔法が苦手だ。
なんとなく視線を泳がせて、眠っている親子を見る。
様子がおかしいのに気付いた。
……呼吸が早い。
眉をひそめて、そっと近づく。
手に持った上着をソファーの背凭れに掛け、枕元で片膝をついた。
子供の耳の下に触れようとして、手を止める。
スラックスの手袋を装着して触れ、リンパの腫れ始めを確認した。嫌な予感に、触覚を鋭敏に切り替える。ベルトループから腕時計を取り外し、今度は母親の脈を取った。布越しとはいえ脈拍が四十を越えたところで時間になり、手首を戻した。
『……ナナシノ? どうかしたかの?』
水の神にきかれたが、どう返事をしていいかわからなかった。臍を噛む思いのまま、いつの間にか伏せていた顔を上げる。
人は瘴気を吸うと熱発を起こすが、コレはそれ以前の問題だ。適切に対処しなければ、この親子は<禍神>が来る前に、おそらく死ぬ。
少なくとも自分はそうだった。
直前まで何の兆候も無かった。フツーに歩いていて唐突に息が切れた。驚いて立ち止まった途端に意識をなくし、その場で倒れた。一緒にいた仲間が救急車を手配しなければ死んでいただろう。
たまたま生き残ったが、何年経とうとも忘れようが無い。
特に、今は。
「……部隊長、医師の手配は可能ですか?」
自分の声がどこか遠くから聞こえた。
かつて<降臨>に触れて死に掛けた経験が、役に立つとは思いもしなかった。