名無しの幽霊が 1.
<神降ろし>の妨害に成功して、その後、ナナシノに会うまでのイリイチの話。
最初に出てきた幽霊はアウストラルピテクスだった。
その次はネアンデルタール人で、どっちも目が合って数秒後には襲い掛かって来たから、返り討ちにして追い返した。
出てくる幽霊のチョイスが、ワケが解らない。焦ったのはココだけの話だ。
会話もへったくれもなかったが、声が出せなかったのには、その時に気付いた。
これでは事情の説明も出来ない。
だが、状況は切迫している。子供達が目覚めるのは時間の問題だ。
オレは腹に力を込めて、息を吐いた。
声帯が震えた。よし。これならイケる。何度か繰り返すと音が出た。
クーイングのような心許なさがあったが、全くの無音よりマシだ。
“言葉”までもう一息だ。
練習している間も、助けを呼ぶ。
氷から溶け出す水のように幽霊は現れるが、どいつもこいつもオレを見ると襲い掛かるか無言で消えるか。そして終盤になると言い訳して遁走するかだった。
少し前のヤツには特にムカついた。
オレを見るなり慌てて「ワタシ言葉わかりませーん」と叫んで走り出した。
お前コトバ通じてンじゃねーか!?
呆気にとられた次の瞬間には我に返って追い縋ったが、オレの指は空を掻いただけだった。
あとちょっとで掴めそうだった分だけ、ムチャクチャ悔しかった。
職業柄、襲い掛かって来られるのは慣れていたが、こうも続けざまに、しかも問答無用で逃げられるのは悲しくなるを通り越して、最早屈辱だ。
オレが何か、お前らにしたか!?
そんな苛立ちも、言葉に出来なければ伝わらない。
いや、伝わるけれども“言葉”でない以上、曖昧で正確ではなく、しかも概ね勘違いされて解釈されるから、元の意味が本人ですら解らないという、伝言ゲームも真っ青な状況だ。
頭を抱えたくなる。
疲労困憊で、言葉の練習をしつつ一歩後退った途端、衝撃が身体を貫いた。静電気を放電した指のように、ほぼ反射で身体が跳ね上がる。全身痛のために受身を取りそこなって、転がり、石造りの床に這い蹲った。何とか呼吸をして、振り返る。
地下室の真ん中には九人分の死体があったが、その下にはマジックサークルのような線が描かれていた。自分の足がソレに触れたが故の現象であったのが、理屈ではなく本能で解った。
魔法だ。
見知らぬ事象も、ココに来てから何度も食らえば嫌でも理解する。
双子の一人に触れられないのは知っていたが、こうもあからさまに「お前には無理だ」と突きつけられると怒りが湧く。
拳で床を打った。
「……クソッタレ」
思わず罵った言葉に、オレは目を見開いた。
聞き慣れた、オレ自身の声。
ゴクリと唾を飲み込んでもう一度、唇を開こうとしたら、岩壁から人間の指が出てきた。
ハッとした。
頑丈そうな爪、見慣れない肌色の掌は硬そうだ。何かの訓練を受けたか、武道を嗜んでいるように思えた。迷わずその手を掴んだ。
手の持ち主はズルリと引き摺り出された途端、オレの手を振り払った。だが、逃げられて堪るか。すかさず反対側の、今度は前腕をガッシと握り締めた。細ッ。
感触に驚いたオレは、掴んだ人物を改めて観察した。
第一印象は、「ヒョロイ」だ。
黒髪黒目の眼鏡をかけたアジア人の男だが、掌から想像した体格より細い。オフィスの端っこに居そうな男だ。中性的な顔立ちで、言っちゃなんだが、服が男物でなかったら女だと通じるくらいだ。撫肩だし。
っていうか、ちゃんと食ってんのか?
ソイツはコレまでの幽霊とは違って、逃げようとも感情をぶつけようともしなかった。
オレを真っ直ぐに見て目を逸らさない。
眼鏡のレンズ越しに見る黒い瞳は、何を考えているのかよく解らない。次に目の下に皺を寄せて、捕まれた腕を見た。その拒否感にオレはハッとした。
無関心に消えていったヤツらと違い、頼めば協力を得られそうな感じがした。
オレはどう話せば良いか、考える為に目を伏せる。
慎重に唇を開いた。
「……逃げないでいてくれるか?」
喋った途端に、ピリッとした空気が霧散した。
視線を上げるとヒョロイ男は驚いた顔をしていた。思った以上に無防備な表情で、オレの方が内心で狼狽える。
コトバを話すだけで、こんなにアッサリ警戒を解くなんて。
……え? コイツ大丈夫か?
下手すると詐欺師とかにカモられそう。
だが、オレの動揺をそっちのけに、男は顎を引くように頷いた。
マ ジ か。
思わず脱力して、手の力が緩んだ。放しはしなかったけれど。
助けを呼ぶが上手くいかない。
日本に来た事のある外国の人なら、話しかけただけで一目散に逃げる地元住人に覚えがあるかも知れない。
会って数秒の猿人と思わしき人型の幽霊から、イリイチが襲われた理由。
『目が合ったイリイチが反射的に笑顔で挨拶したから』
人間には爽やかな笑顔でも、牙(歯)を見せる仕草は、概ね威嚇もしくは敵対行為と見なされ、状況によっては戦闘開始となります。
だから動物園でライオンにイーってするのと、人に慣れていない野生の猿に笑顔を見せるのとでは、檻があるかないかの違いだけで実は同じくらい危険。