57. それとなく頭を抱える。
貫頭衣の前身頃をぎゅっと握って、震える唇をイーラは動かす。
「……あの時、魔法のない異界に<降臨>を送るとおっしゃいました。永遠を生きる精霊に、時間を把握する事はできない。だから有限を生きる人間の時間軸が必要と言われ、わたくしはお手伝いしました」
彼女の目は水の神を見ている。
「大気に魔力も無く、ここから数千年前なら文字も無いだろうと。そこなら<降臨>を送っても、朽ち果てるだろうから安全だと。……それなのに」
自分は、そっと目を伏せた。
こちらの歴史を知らないし何千年前を設定したか分らないが、見込みが甘かったとしか言いようが無い。
確かに魔法は無かった。
けれど、約五千年前にヒエログリフは存在したし、壁画に至っては約三万二千年前に描かれたといわれている文化遺産がある。
<降臨>には文字の他にも陣の図解があった。それも精緻な。
不謹慎だったが、描かれたソレを見たとき自分は美しいと思った。現代人でさえ感心した物を、昔の人々が粗雑に扱うはずが無い。
唇から空気が出た。
「……イーラ」
小さな自分の声にイーラはビクリと肩を震わせた。
台に突っ伏した幽霊を、どんな気持ちで見ているかなんて想像も出来ない。特に何も考えていなかったから、どう言葉をかけて良いか分らず自分は少し笑った。
「自分は確かに<降臨>で死にかけたけれど、生き延びたんだ。何年か経って思いがけず交通事故で死んだだけから……。イーラのせいじゃない」
我ながら呆れた。「死んだだけ」って。
他に言いようがあるだろうと思ったが、出た言葉は引っ込められない。
イーラは赤い目元を指で拭った。
「こ。交通事故?」
琥珀色の瞳の主の声が聞こえた。
「……ナナシノの場合は、乗り物に撥ねられた事になります」
イリイチ。お前、その補足説明は……、マズイ気がする。
主に自分が。
そんな予感がしたのは庭で見た納屋の規模から、おそらく奥か裏に厩舎があると思ったからだ。台所の様子からも、こちらの物流は鉄道導入以前の感じがした。
ぽかんとしたイーラが問う。
「ナナシノは……馬車か牛車に轢かれて死んでしまったの?」
「……そう断言されると違うのですが、似た状況であるかと」
思わず瞑目した。
……そうだった。
イリイチも現代人だ。加えて、古い井戸を見たことない町っ子だ。
多分フィクション映像で、激走している場面のチャリオットや馬車を見ている。
ひっそりと落ち込んだ自分に気付いたイリイチは、心配そうに覗き込んだ。
「ナナシノ? ……だいじょうぶか?」
自分は半笑いで彼を見た。
それ以外、どんな表情をしていいか分らなかったからだ。
「イリイチ……お前、御者の経験、ないだろう?」
「ないよ。フツーに。……それがどうかしたか?」
ため息が出そうになって、一度、唇を引き結んだ。
琥珀色の瞳の主に、こっそりと告げる。
「馬車や牛車はスピードを出さない。大体、徐行(時速十キロ以下)より遅いか同じか。急いでいても多少速いくらいだ」
彼はキョトンとした。
だからどうしたと言わんばかりに眉をひそめたイリイチへ、呟くように話す。
「……お前の説明だと、自分は自転車かヘタすると幼児用三輪車の速度で事故られて死んだことになる」
イリイチはさっと顔を上げたが、既に遅い。
幽霊以外の全員が集まって何やら沈痛な表情で話し込んでいる。偶にこちらをそっと窺う様子から、気遣われているのがわかった。
彼らの中で、自分はマッタリ移動する馬車もしくは牛車を避けそこなって事故死した幽霊になっている。
迂闊だった。
幽霊になってから「言葉の壁」はなかった。
だが双子の風呂の約束で感じた「文化の壁」はこちらに来て初めての事で、タブーや諸々の状況についてイリイチと話すどころか、……文化的衝撃で成仏しそうだ。恥ずか死ぬって、こんな簡単か。
ゴツイ美人の、呆然とした声が降ってきた。
「……すまん。ナナシノ」
謝罪の言葉がヘコんでいる時ほど落ち込ませる事を自分は初めて知った。
だいぶ動くようになった腕で、それとなく頭を抱える。
悪い。イリイチ。ほっといてくれ。
今ちょっと泣きそうなんだ。