53. ぷりぷりしながら。
ヘコんだ自分に笑ってから、イリイチはイーラを見た。琥珀色の瞳は穏やかだ。
「ところでイーラ、毛布の予備はありませんか?」
「毛布?」
「ええ。親子三人では足りなくて。今はナナシノのコートを代わりに掛けています」
一瞬、遠い目になった。
ハルトマンに視線を向けたら、コートを預かった気まずさからか、すかさず目を逸らされた。
……まだ何も言ってねーよ。
それで思い出した。そういえば、ハルトマンには風と土の神の言付けを伝えていない。
イーラと二神を見た。
イリイチと話しているイーラは気付かなかったが、水の神と火の神は「あ」という顔をして、チョイチョイと手招く。台を迂回して近寄ってきたハルトマンが膝を折るのを見た。
自分の眉が上がる。
たわやかな仕草を意外に思ったからだ。
「初めまして。水の様、火の様。どうぞ、ハルと呼んで下さい。伯母から聞いていました。ココには貴方達が立ち寄る井戸があり、幼い頃は遊んでもらっていたと」
静かに話す声は芯があるのに穏やかで、多分こちらが素なのだろうと思った。どうでもいいが、イリイチと自分の時とは大違いな。
水の神はちょっと笑って、手をもにょもにょと動かした。
『随分と昔の話だがの。イーラは子供の頃と、ちっとも変わらない』
頭の後ろで手を組んだ火の神は、ハルトマンに笑みを向けた。
『そうだな。イーラは変わンねーけど、俺らは嬉しかったぞ。今回の騒動がなけりゃ再会する事ぁなかっただろうが』
一つため息を吐いて、火の神は太刀の柄に手を置いた。
『俺らの仲間が、森人と幻、岳人と世捨て人を連れて<神降ろし>の詳細を聞きに来ンだ。幻には驚かないでやって欲しいし、岳人と世捨て人に酒を準備してくれると有難い。もう既にイーラにはナナシノから伝えて貰ってンだが……。ハル、お前はどうだ?』
さらさらと述べられた言葉に、ハルトマンは一瞬考える素振りを見せる。
誰も片付けないので、自分は全員のカップを回収して流しに置いた。
「わかりました。守備を残して隊員全員で対策を練るつもりでしたが、そういうことなら耐性のある班長と俺だけにしましょう」
話を聞きながら、さっと洗った盥に竈の湯を汲み、流しのカップをそっと中につける。
幽霊になった今、五感を切り替えさえすれば熱湯も気にする事なく作業できる。一度目の死で散々痛い目にあって得た感覚だが、ムダで無かったようだ。手早く洗い、湯をきった後、両手持ちの盆の上に広げた布巾の上にヒョイヒョイ伏せて置いていく。
「幻については隊員には伝えておけば混乱もありませんし。酒は……伯母でないとわかりませんが」
竈の鍋に水を足して、自分は備え付けの台拭きを濡らして搾った。
台をざっと拭いて、ダイニングへ移る。大きなテーブルを手際よく拭きあげてから、暖炉に薪を足して火掻き棒で微調整した。パチリと炎が爆ぜて、木の燃える匂いが立つ。
台所に戻ったら、イーラとイリイチ、ハルトマンと水の神は何やら話していたが、頬を膨らませた火の神は真っ直ぐ自分を見ていた。
腕を組み片方の足先でタシタシと台を叩く姿は子供のような仕草だが、その苛烈な気性を知った今では戸惑いしかない。
ぴょんと自分の肩に飛び乗った火の神は、いきなり耳を引っ張った。
フツーに驚いた。
地味に痛いし、うあ。ちょ。その、耳たぶを両手で掴んで引っ張るやり方はキケンな気がする。主に自分が。
案の定、ビキビキと首から下の筋肉が引き攣り、体が硬直し始めた。
ハルトマンとイリイチが、自分の様子に気付いて表情を一変させる。だが、それに気付いていない火の神は、ぷりぷりしながら耳元で言った。
『お前、ナナシノ。話の途中で何やってンだよ』
カップ洗ってテーブル拭いていました。
と、
言えないまま。
耳に息を吹きかけられた自分は、べしゃりと崩れ落ちた。