46. 薄氷を踏んだ。
イーラの手首をパッと離した。
ついでに二歩、後退く。
薄氷を踏んだ気がした。
そういえば、こちらに来てから挨拶と相手方からのアクション以外の接触はない。差し出された手を取った時ですら非常事態だったから、幽霊のやることだと大目にみられていたのかも知れない。
危うい氷が、まだ割れていない事を祈った。
「ーーごめんなさい。変な風に捲り上げると痣が出来て、数日は痛いんです。もう触りません」
謝った。
ここでは何がタブーか解らない。これ以上失敗したくない。緊張が、拍動と共に自分の中を廻って暴れた。
はくはくと息を継いだイーラは、自分から目を逸らして俯いた。そして、取り戻した手首を反対の手で撫でて「気にしないで」と小さく呟いた。
胡散臭そうな顔をしていた二神が相好を崩した。
『……イーラは……子供の頃から不器用だったからなぁ』
『……ぶきっちょなのは昔からだから、まぁ仕方ないの』
火の神から、納得したような、呆れたような感情がしみじみと出て、水の神は苦笑している。二神はイーラの呟きでスルーすることにしたようだ。
「すみません。気をつけます。……お茶の支度に入ります」
かなりのフォローに、自分は目を閉じてそっと息を吐いた。この事は、後で忘れずにイリイチに伝えておこう。
手袋をはずして、スラックスのポケットに挟み込んだ。
こういうときは、身体を動かしていた方が良い。
すぐ側の流しで手を洗い、ついでに大鍋もざっと洗う。水瓶から水を汲んで竈に据えた。
台所の竈は、大きめの焚付も使えるタイプだった。積み上げられた薪も、火消し壺もすぐに見つけた。手早く焚口に小枝と薪を仕込んで、台什能と火バサミを掴む。暖炉へ火種を取りに行こうと振り返ったら、袖捲り中のイーラと二神が愕然としていた。
「……ナナシノ慣れているのね」
『ナナシノ早ぇ。……何者だよ』
『……手際が良いの、ナナシノ』
呆然とした顔で面々から言われた。
発言がほぼ同時だった為、音声が重なっていたが、何を言われたのかは良く解った。ただ、内容が家事力なだけにビミョーな気分になる。
自分は曖昧に笑った。
「……火種を取って来ます。お茶はどう淹れますか?」
ハッと気付いたようだ。
イーラは水屋のような棚を開けて缶を取り出し、次に幾つか並んだ茶器をそっと手に取っては台に置く。二神は台の上に置かれた缶の蓋を開けて、中身を矯めつ眇めつし始めた。
什能と火挟みを持ってダイニングの暖炉へ近づく。パチパチと炎が爆ぜて、杉のような薪を使っているのがわかった。
真っ赤な炭を二つ三つ取り上げたところで手ぶらのハルトマンが戻ってきた。台所へ入って行き、一言二言遣り取りして出て行く。
火種を持って台所へ戻ると、瀟洒な模様の入った棚をイーラが開けているところだった。