19. 澱みが瘴気になった。
微妙な距離は、お互いを観察するのに不都合がなかった。むしろ、相手が楽しそうなのが何か不本意だ。つか、笑うな。膝カックンするぞ。
イラっとしたので、半笑いで返した。
「こちらこそ、初めまして。……次に見かけたなら止めていただきたい。自分の事はナナシノと」
そこまで言って、ふと気付いた。
ここは、浄化換気ができていない地下室だ。この高濃度の澱みが、もうすぐ瘴気に変わる。
ゾッとした。
「そうしよう。俺は部隊長を任さ――」
「――部隊長この建物にいる生きてる人間全部避難だ」
途中でぶった切った。
一息に言いながら、もう自分は脚を引いて構えていた。部位が蠢く部屋の中心に向かって。
すぐに生身の人間にもわかるだろう。だが、わかってからでは遅い。瘴気を吸えば、人は熱発をおこし下手をすると動けなくなる。
それに、――微かに地鳴りがした。
慣れていない人間には解らないだろうが、ソレが目に見えて動き出した時、禍害はあっという間に広がる。
唐突にザワリと霊圧が上がった。
驚きに目を見開いた部隊長に、自分の眉があがった。良かった。コイツは鈍くない。
部隊長の気迫が飛んだ。
「総員退避! 速やかに神殿から脱出しろ!」
号令を聞いた部隊の男達は、次の瞬間には混乱もなく階段を駆け上がっていく。殿の男に「先に行け」と指示を出し振り返った部隊長を――自分は問答無用でブン投げた。
一瞬の不意を衝いて繰り出したポルターガイスト現象だが、ヤバい。めっちゃ便利だ。フツーに行動するより早ぇ。
そして一喝する。
『全部、って言ったろーが! お前もだ!!』
部隊長は受身を取って跳ね起きた。一瞬何か言いたげな目をしたが、自分の憤懣を感じ取ったのか一瞥するだけで階段を駆け上がって行く。
――間に合った。
安堵した、その直後。
澱みが瘴気になった。
瘴気が充満した壁の隙間から、ジワリと熱が染み出た。
熱は色を持っていた。
濁流で練り上げられたソレは雲の代わりに沸き立っていた闇の色に染まっていた。瘴気と混ざり合い、溶け合う。零れた墨汁が広がるように地下室に浸みていく。
蠢く部位を巻き込み、死体を覆い、床に描かれた陣や壁のタペストリーに触れるとブルリと大きくたゆたった。
墨の溜りから、死んだ男達の幽霊がうっそりと立ち上がる。ズルリと闇の重さに絡め取られ、茫洋とした顔つきから、苦悶の表情に変わっていく。
そんな幽霊が、ひのふの……、九人。ぞっとする光景だ。
そして彼らは、自分に気付いた。
粘着質の闇を滴らせ、迷いなく伸べられる十八本の腕。黒い手を振り払う事もせず、額に、首に、腕に、心臓に、奴らの指が絡まり固定されるのを待つ。
べたり。
ーーか か っ た。
ひっそりと口角が上がった。
自分を捕らえた連中は、自分を解放しないかぎり、イリイチや避難した人間を追う事は出来ない。そして自分に触れた連中を、自分は逃がす気はない。
見据えた目を静かに閉じた。
闇に全身を縛られ墨の溜りに沈められたのが、地下室での最後の記憶だった。