95. 指揮は部隊長。
頬を紅潮させたイリイチは、唇を開いた。
「今の分身の術は、どうやったら出来るようになるんだ?」
言葉はフツーだったが、抑えきれていない興奮に声が弾んでいる。
物っ凄いヤる気だ。
自分は、ちょっと遠い目になった。
……あー。
うん。こうなる予想はついてた。親子の状態や仕立て物、談話室の事など優先すべき事が差し迫っているが、話す事にする。情報を出し渋ってジャパニーズ・ホラーに関する苦手意識を思い出されても面倒だ。
「少しコツが要るんだ。……夢で視点が二つになる事あるだろ? アレと似てる」
琥珀色の瞳の主は、パッと笑んで直ぐに思案気な表情になった。
今の内だ。空いていた棚に、服を置く。ハルトマンが近付いてきた。
「……ナナシノ殿」
声を潜めているのは、黙考しているイリイチに気を遣っているからか。
それとも。
「指揮は部隊長だから、殿はいい」
同じように音量を落として、親指と薬指で眼鏡を押し上げた自分は応えた。イーラに似た青い瞳を、今は見ることができなかった。
「確認したい。どれだけ分霊に割けらる?」
「……さっきのは二手に分かれただけだ。一弾指で四手が最大。それ以上は出来ない」
正直に告げた。
そもそも、神殿で棍を構えたプロを武装解除できたのは、一瞬の隙を複数体で衝いたからだ。
対象が、ポルターガイスト現象に馴染みが無かったのも大きい。
でなきゃ戦闘訓練を受けた集団相手に、幽霊が先手を打てるはずが無い。成功したのは本当に偶々だった。
「それに、分裂しても碌な事が無いんだ。物を運んだり、誰かの腕を引くような単純な動作や、見聞きした情報に対して発言ができても、……仕立物をする等の細かな作業はできない。著しく効率が落ちる上に、複数になった分だけ弱る。フツーはしない。危険だから」
「……そうか」
指揮官の顔をしたハルトマンは、顎に指をやった。武人というよりは学者のような手を、自分は意外に思った。
ふと、誰かが廊下を歩いて来る気配に気付いた。
ほぼ同時にイリイチも気付き、遅れてハルトマンもドアに視線をやる。
ホトホトとノックされた。間を置いて、そっとノブが回された。
「ハル様」
ドアの隙間から、茶色い瞳を覗かせたのはオリーと呼ばれた女性だった。
そわそわと落ち着きの無かった台所の様子とは打って変わって、確りと立っている。彼女は、片腕に重そうな袋を抱えていた。
「イリーナ様が、皆で来るようにと仰せです。イーシャ様より、わたしは塩を書庫に置いたらエアさんと子供たちを看るように言われました。既にお二人とも談話室に入られています。どうか、」
隣の部屋から、母親が咳き込む音が聞こえた。ハッとした女性は話を中断し、袋をすぐ側の丸椅子の上に置いた。少し広がった結び口から、塩の湿度を感じた。
袋の中身は、岩塩だったのか。
彼女は、ハルトマンに黙礼して入室すると、イリイチを透り抜けて枕元に移動する。水差しの水をグラスに注ぎ、手馴れた様子で母親を抱き起こすと、少しずつ飲ませた。
ハルトマンが目顔で部屋の外を指した。
幽霊二人で顔を見合わせて、指揮官が開けたドアの外に出た。