あいおん
1
もうすぐ梅雨が明けるという頃で、蒸し暑い真昼。さっき軽く昼食を済ませた伊津谷靜は、刑務所の廊下を歩いていた。
外とはまったく違う空気に、足音でさえ籠る。囚人たちの視線を感じながらも、靜は歩調を変えずに置奥へと進む。
目標の牢に着き、足を止める。檻越しには懐かしい茶髪。看守の者に少し離れていろと命令した後、靜は牢の扉に設置されたタッチパネルに慣れた手つきで番号を入力する。
すると扉が自動で開き、靜を迎え入れる。
と思えば中にもう一つ扉があり、静はもう一度さっきの動作を繰り返した。
囚人が隙を見て逃げ出さない為とは言え、これは面倒臭い。
静がそんなことを考えている間に、相手は立ち上がり、それ以上はなにもせずにただ靜を見ていた。
綺麗で、聡明で、純潔で。
憧れで、疎ましくて。
すべてを預けてもいいと思うほどで、すべてを支配したいと思うほどで。
誰にも触れさせたくないし、全てが壊れる瞬間を見てみたいし。
彼を振りかえった静は、すまない、と一言だけ言った。
「室前愛音。私にすべて預けてみないか」
愛音と呼ばれた彼は、言葉の意味を理解できずに固まった。
「それは、どーゆう」
愛音がそう問うと、静は当たり前であるかのように答える。
「そのままだ。私になにもかも預けてみないか」
そう、さっきよりも少し強調して。
愛音は少し考えた後、納得したように口を開いた。
「…ああ、それって、“まっちゃ”がやってるやつっスか?」
“まっちゃ”というニックネームをすぐ本名に変換した静は、その名に恋愛感情とはまた違った愛しさを感じながらも平然を装い、続けた。
「そう。…まあ、万里とお前は仕事内容が違うが、…元は同じようなもんだ」
『KeSKNer』の捜査。それに警視庁が導入したのは、「元『LeSKNer』の受刑者を『特別看守』である巡査の監視付きで捜査官として釈放する。」という内容のものだった。
そこで安全性の高い受刑者から釈放されていったのだ。
森野万里もその一人だった。
彼は『LeSKNer』の標的『レス君』のリストを作り、『LeSKNer』重役として参加していた。
『レス君』とは、組織名『レスクナー』と番号を『奪われる』つまり『失う』人という意味をかけているそうだ。ちなみに、これも万里が作った言葉らしい。
そんな万里は機械の扱いには長けるが、所謂ヒキニートだったため体力は無いに等しかった。そのため、居場所を割り出せばすぐ逮捕することが出来たのだ。
警視庁は万里の技術を捜査に活かそうと考えたが、そう簡単に了承するなどと思ってはならないことを皆知っていた。そんな中、一人の刑事が万里の特別看守に名乗り出た。
それが、万里の幼馴染、靜だったのだ。
案の定万里は掛け替えのない友からの頼みを受け入れたのだ。そのことはほぼ全ての囚人の耳に届いた。勿論、愛音にもだ。
そして今、愛音にもそのチャンスが訪れたのだ。本来ならば、来年には死刑が執行されるはずの、愛音にも。
「お好きなように。“あの時”から俺の全てはアンタが握ってる」
降参だとでも言うように両手をあげ、愛音は悪戯っぽく笑った。そして靜の無表情を見ながら「あの日」のことを思い出していたのだ。
愛音が靜に全てを囚われた「あの日」を。
その時、靜はこう言っていた。…彼女はもう、覚えていないのかもしれないけど。でも、愛音にとってそれは、ずっと誰かに言ってもらいたかったことだったのだ。
『愛音、帰ろう』