梅雨戦線 ―雨と戦う少女。僕の傘。そしてその共同戦線について―
いつもの脇道から、空き地に出る。
あの子は、レインコートにランドセルを背負ったまま、無骨な大きい傘をさし、真っ黒な雨雲を睨んでいた。
ぼくが近づいたのに気付くと、彼女は「ん」、と相槌をうって傘を畳む。
始めるか、と声をかけると、彼女は無言で空に向き直って、その傘を構えた。
*
雨は憂鬱だ。
教材で重い鞄を濡らさないよう骨を折りながら、そう思った。
時間は正午過ぎ。定期テストを終えた生徒たちは、校舎から出ると、まばらに傘をさして大通りへと向かう。ぼくもその例に漏れず、革靴たちが形作る濁流に流されていく中の一人だった。
自前の灰色の折り畳み傘を開き、雨中を歩く。
そしてそのうち、人通りから外れ、通学路である細い近道に逸れる。水溜まりに広がる波紋の中央を闊歩する。曇天から落とされた水滴たちが裾に飛びついてくる。
と、傘先が、歩道のフェンスにつっかかった。軽い音とともに、その持ち手に付けていた丸っこいお守りが外れる。このお守りは、心配性の母親が、雨害の多いこの地域に越してきたときに買ったものだった。豪雨に効くらしいそれに慌てて手を伸ばすが、横に伸びる脇道に転がっていってしまう。
都合悪く下り坂になっていたそこを早歩きで駆け下り、湿ってしまったお守りを拾い上げると、傘を持っていない方の手でポケットに突っ込んだ。
ふと顔を上げて、16本骨の傘先の隙間から道の奥を望む。そういえば、この脇道には入ったことはない。
気の迷いだった。ぼくはなんとなく民家の間を縫って脇道を進んだ。
それは高校受験を控えたストレスを散歩で発散しようとしたのか、あるいは雨中、初めての景色に絆されていたのか。
今となっては分からないけれど、ともあれ、それがぼくをあの光景に導いた。
*
放置されている、少し開けた空地。そこにあの子は一人で立っていた。
年は——たぶん小学生だ。水色のランドセルを背負って、黄色いレインコートに、学校指定だろう白い靴。そして異様だったのは、彼女の身長くらいある無骨で大きな真っ黒い傘。小学生が持つにはどう見ても似つかわしくないソレに、ぼくの目は引き付けられた。
気付けばぼくは物陰からその様子を伺っていた。はたから見れば不気味な場面だっただろうけれど、ぼくはその子から目が離せなかった。
何故か彼女は、その傘をさしていなかった。ぱたぱたと頬を叩く雨を意にも介さず、彼女は黒傘を両手で握り、大剣のように、地面につき刺し、空を睨みつけていた。
と、彼女は突然、傘を空にむかって振りかぶった。ぼくは最初、その様子に度肝を抜かれたが、すぐに彼女の真剣な様に息を吞んだ。
傘を振り降ろす。先から水滴が飛び散る。彼女の白い靴は、ふんだんに水を含んですぐに泥茶色に染まっていった。無骨な傘は彼女には重すぎるらしく、時折よろけて手を地に突く。細い腕が、地面に突っ込んで泥で汚れた。フードから覗く上気した赤い頬に、冷たい雨が一筋流れる。それを気にもせずに、彼女は再び宙空を睨んで傘を振りかぶる。
その黒髪が、彼女のうなじに一筋貼り付いていた。
ぼくは息をとめてその光景を眺めていた。彼女が何をしているのかは分からなかったが、その光景はぼくをその場に留め続けた。
気が付くと数十分経っていて、雨もまばらになっていた。彼女が小さなくしゃみをひとつした頃、奥から母親らしき女性が歩いてきたのが見え、彼女は、二言三言を交わしてすぐ、共に空地をあとにした。彼女の小さな靴跡が、かさぶたのように地面に残っていた。
ぼくは彼女が去っても、しばらく閑散とした空地を前に突っ立っていた。
*
翌週の水曜日。中学校から外に出ると、湿度の高い曇りだった。ふと天気予報を見ると、あと30分で雨が降るらしい。
いつも通りの帰り道。なんともなしに以前彼女を見つけた脇道で足を止めた。ぽつりぽつりと降り出した雨に傘をさす。あの子は何だったんだろうか——そう思いながら、引き寄せられるように、足が空き地へと向かう。
果たして、彼女はそこにいた。
以前と同じように空を睨んで、傘を振る。それは何かの儀式のようで、暗い雨の中、傘を振るう彼女だけがこの世界に祝福されているようだった。それでも驟雨は続いて、彼女が途中でくしゃみをする。ずぶぬれたレインコートがやけに重そうで、見ていられなかった。
ぼくは無意識のうちに、ふらりと彼女に近寄った。彼女は少し驚いたようにこちらを見やる。彼女のくるりとした丸い黒瞳と目が合って、少しばかり、雨音だけが時を刻む静寂が流れた。そこでぼくは、自分が身をさらしてしまったことに気付くとはっと我に帰り、そそくさと空き地を後にしようとする。
しかし少女はぼくの逃避を許さなかった。
「ねえ」
その声はあどけなく、幼かった。
「……………」
彼女はぼくに声をかけてはみたものの、なんと言うかまでは考えていなかったらしい。
首をかしげながら、少しの沈黙。
そうしていると、彼女はただのかわいらしい小学生の女の子で。
ぼくは、思わず口を開く。
「君は、なにを」
「…………?」
「ここで何を、してるんだ?」
零れたのは疑問だった。これは何なんだ。君は——どうして、雨の日に、必ず傘を振っているんだ。聞きたいことはいくつもあった。
しかし、その問いに彼女は答えてはくれなかった。
つ、とぼくから興味が外れる音が、雨音の中、わずかに聴こえた気がした。
「——分かんないのなら、別にいいや」
彼女は一言そう呟くと、再び空に向き直って、傘を振り出した。
失敗した、と心中で思う。そりゃあ、こんなことを本当に続けているなら、「これは何だ」なんて、確かに聞かれ慣れているだろう。
ぼくはしばらくその動きをぼうっと見ていた。初めて近くで見た彼女は、思っていたよりも普通の女の子で、眺めていたよりもか弱く見えた。
彼女の頬を直に叩く雨粒がはっきりと目に映り、それが彼女を射抜く光線のように見えて、ぼくは思わず、持っていた傘を彼女にさしかけた。彼女は今度こそ、本気で驚いたようにぼくの目を見た。
途端に気まずくなり、何かを言わなければならないと言葉を探す。
「そうだ……傘」
不審そうに見上げられたぼくは慌てて言葉を繋げる。
「きみのは振ってるから、ほら、さす方の傘がいるだろ?」
しばしの静寂の後、小さな少女は、ぼくの傘の下で白い息をひとつ吐くと、目を雨雲に戻し、降ろしかけていた黒傘をまた空に振り上げた。
彼女はそのまま、ぼくの傘の下で、雨に向かって黒傘を振るその謎の作業に戻った。彼女の無骨な傘先から飛び散った雨滴が、ぼくの服に飛びついて染みを作る。なんなら、彼女にむかって傘先を傾けているおかげで背中はびしょぬれになっていたが、そんなことは気にならないくらいに、ぼくは彼女のその戦いに魅せられていた。
『戦い』。どうしてそう思ったのかは分からない。
ただ——空に向かって無骨な傘を振り続ける彼女の姿は。
無謀にも、天空の神に挑んだ英雄を思わせた。
*
家に帰ると、びしょ濡れの制服を脱ぐ。現実に引き戻された背中を寒気が駆け上がり、急いで風呂への足を速める。
「累、悪いけど忙しかったから今日の晩御飯は出前で——」
リビングから出てきた母親と、目が合った。すぐにその目が丸くなる。
「なにやってんのそんなに制服濡らして」
「ごめん、突然雨、降ってきて」
なんとなく、適当に誤魔化した。あそこであったことを、そのまま伝えるのは憚られた。
「まったく、洗濯するのも大変なんだから気を付けて——」
母親に謝りながら、風呂に向かう。
昔から波風を起こさないように生きている自覚はあった。
変なことを言わずに、奇妙なことをせずに。
どこから、その生き方を心がけるようになったのかは覚えていない。物心つく前に、というほかない。もしかすると、生まれつきぼくに父親がいなかったことが要因なのかもしれないが、それでも母は、看護師を続けながら一人でぼくを十分よく育てたと思うから、それはきっとぼくの悪い気質なんだろう。
そんな自分が雨の中、あの子に駆け寄ってしまったのはどうしてだったのだろうか。あの瞳に吸い込まれるような気がしたからだろうか。それとも……誰かが傘にならなければ、あの子は雨に負けてしまいそうだと。そう思ったのかもしれない。
母親が入れてくれた湯舟に、頭まで沈めてぼこぼこと気泡を吐く。温かい水。馴染み深い温度。今日の雨は、身体を打つあの冷たい弾丸は、ぼくたちを射抜くために空が撃ち散らしているものなのだろうか。だからあの子は、雨と戦ってるんだろうか。
*
ぼくが彼女に初めて傘をさしてから数か月が経った。今日も雨が降るらしい。
学校からの帰り道に、空き地に向かった——雨の日にここに向かうのは既に習慣になっていた。今日も彼女は、先にいた。
「やあ」
僕が声をかけると、彼女はむすりとした顔のまま、雨雲から視線を外さず声を発した。
「おそい」
「たはは……」
待ち合わせしてるわけじゃないんだから、そんなこと言われても。
「今日は小一時間降るらしいけど大丈夫?」
「最近、きんにくついてきた」
少女はぶんと、大傘を振って見せた。それはたしかに力強く、ぼくは、やっぱり剣みたいだな、なんてぼんやりと思った。
そうしていると、ちょうどぱらりぱらりと雨が降り出す。
傘を広げたぼくは、彼女に近づきひとつ頷くと、傘を彼女にさしかけた。
彼女は、わき目も降らずに、一直線に傘を振り出した。
幼い横顔を見つめる。雨の日にここで逢うことを何度か繰り返し、もう見慣れた、何を考えているか分からない黒い目。それは常に空を見上げていた。きっと、ずっと曇り空を。
雨がまばらになったころ、いつも通り彼女の母親が歩いてくる。ぼくが軽く会釈をすると、その人もおれに会釈を返した。最初は母親もぼくの姿に驚いていたけど、少女が慣れた様子なのを見て、しばらく経ったころには、ぼくはなんとも言えない温度の中受け入れられていた。
なぜお母さんが横についていないのかは分からなかった。彼女が一人で戦うことを選んだのかもしれない。なぜぼくが、居てもいいことになっているのかは分からなかった。これは本当に分からない。
知っているのは、背中を見送る、あの子の傘があまりにも大きいことだけだ。
彼女が母に連れられて歩いていく。父親の姿は、見たことがなかった。
*
ある休日。ぼくたちは空き地で雨を待ち伏せていた。
しかし、天気予報は雨を示していたのに空を見上げると晴れ切っている。
彼女も傘を地面に突き刺し、空が落ちてくるのを待っていたが、しばらく経っても雨の気配もない。
珍しく予報が外れたね、とぼくが言うと、あの子は突然傘を畳んで歩き出した。まだ母親の姿もないのに、と慌てると、彼女は、「ほら」と振り向いて何かを訴える。困惑しながらも、ぼくは堂々と歩いていく彼女に流されその後を追った。
快晴の下で彼女を見るのは初めてだった。いつも雨に濡れた姿ばかり見ていたぼくには、晴れ空の下、レインコートを揺らす彼女が妙に眩しい。
「ねえ」
突然声をかけられたぼくは、自分に向けられたものだと気付いて慌てて答える。
「なに……どうしたの」
「私に何してるのって、もう聞かないの?」
言葉に詰まる。聞くべきか否か考えたけれど、思ったままの言葉を発することにした。
「戦ってるんだよね、雨と」
そう言うと、彼女は突然驚いたように振り返ってこっちを見た。立ち止まった彼女に、自然とぼくの足も止まる。うろたえていると、
「……うん。正解。はなまる」
それだけを言うと、彼女はまた歩き出した。
彼女は近くの廃ビルに踏み込むと、躊躇なくその階段を上がって屋上へ向かう。狭い階段を八階分抜けて重苦しい箱から出ると、快晴の真下に出た。
「ここは……」
目に入るのは遠いマンションに、それよりもまた遠い山々。眼下に広がる街並みと、そして視界いっぱいの青色だった。
「ここに何しに来たのさ」
何を聞いても、彼女は、仁王立ちのまま、目を閉じて、傘をついたまま答えない。
手持無沙汰になったぼくは傍の貯水槽の残骸に腰掛けて、しばらく静寂が流れる。と、突然彼女が口を開いた。
「ここからは——お父さんが見えるの」
「お父さん……?」
その言葉に、フェンス越しにあたりを見渡す。人の姿は見当たらなかった。
「……いない、よな?」
ぼくが一応そう言うと、君は子供ながらに呆れたように首を振った。
「そういう意味じゃないよ。言われなくてもわかるでしょ」
仰々しいしぐさに少しむっとすると、彼女はぼくの方を振り向いた。
風が吹いて、髪が揺れる。そして彼女は笑みを浮かべた。——何といえばいいんだろうか。儚げな笑み、と言ってしまうのは簡単なんだろう。それでも妙に生々しく、哀しそうな情緒を含んで、あの子は笑っていた。
これが彼女の初めて見る笑顔なんだな、と思うと、少し寂しかった。
「なんで雨と戦うのか、って思ってるんでしょ?」
「……うん」
「ちがうよ。雨が、わたしの敵なの」
その言葉に質問を重ねるべきか、一瞬逡巡する。その隙に、彼女はぼくの手のひらから零れ落ちる雨粒のように歩き出してしまった。
「……今日はもう帰る」
そう呟いて、階下に降りる彼女を見つめる。
光の下、廃ビルに踏み込む彼女。黒く大きな傘だけを、大事そうに抱えて。さっき気付いた当たり前のことだったけれど、その一歩はぼくよりも幾分も小さかった。
*
その日も僕たちはいつも通り、雨に対して無謀な戦いを仕掛けていた。
予報が当たれば、この空き地で待ち合わせ。終われば、ぼくか、少女が持ってきたおやつをつまむ。そしてすぐに少女は帰り、ぼくは散歩がてらあたりをぶらつきながら家に帰る。
そんなことを繰り返していた。今日もまた、雨がまばらになると、彼女の母親が空き地に彼女を迎えに来るのも同じだった。
しかし——空き地に入ってきた母親は、初めて、静かにぼくに話をもちかけてきた。
「こんにちは。――この後、お時間いただけませんか」
あの子が帰った後、ぼくとあの子の母親は晴れた空き地に残る。
「——いつもすみません」
「ああ、いや、自分は何も」
しどろもどろに答えを返す。初めてまともに聞いたあの子の母の声は、確かに彼女に少し似ていた。
「雨宮と申します。いつも名乗りもせず——」
「そんなことは」
雨宮。それがあの子の苗字か。
「梅は——ああ、あの子の名前です——いつもひとりであそこにいたので。傘をさそうとしても拒否するばかりで心配していました」
いつも会っている彼女の名前を、初めて知った。雨宮 梅。それがいつも空を強く睨みつけていたあの子の名前だと、すぐにはあまり繋がらなかった。
母親はすっと俺の目を見る。あの子と同じ……梅と同じ、深い黒瞳に居心地が悪い。
「聞いていただけますか」
「え?」
「あの子が、あんなことをしている理由です」
ぼくが、ゆっくりと頷くと、彼女は静かに語りだした。
「発端はわたしなんです——わたしが、彼は「雨と戦った」なんて言ってしまったから」
雨宮 雲はレスキュー隊員だった。ある大雨の日、彼は土砂流を前にして、瓦礫の中、家族と近隣住民の救助に回り続け、そして一人だけその命を落としてしまった。世間は彼を英雄と称え持て囃した挙句、結局のところすぐに忘れてしまったが——彼は、人知れずひとりの娘を遺していた。
「あの子に聞かれたんです。幼いあの子に、お父さん、なんでいなくなっちゃったのって」
その光景を想像する。幼い彼女はテレビで見たのだろうか。自らの父親が、自分たちを救った話を。自分の前からいなくなった父親のことを。そして母親に尋ねたのだ。どうして父親は、自分の前からいなくなったのかを。
「わたしはあのとき、答えてしまったんです—————」
お父さんは、まだ雨と戦ってるのよ。
それを聞いたあの子は——梅は、雨の日に家を抜け出しては、空を睨むようになった。
父親の少ない遺品の、黒い傘を持ちだして、空を討つ。
あの子が空と戦う理由だった。
ぼくは口を噤んだ。何を言うべきか分からなかった。
あの子の姿を思い出す。たった一人で空と戦う彼女。無骨な黒傘はきっと、剣なんだろう。世界を押し流すための濁流を地に導く雨雲。水滴は焼夷弾で、雨雲は戦闘機。剣一本でそれらに挑むあの子は、何を思っていたのだろうか。
*
凄まじい勢いの雨が、窓を撃つ。ぼくがここに越してきてから最大の豪雨だ。雨で川は増水して龍のようにうねっていて、雲はその中に得体の知れない何かを隠しているかのように蠢いていた。
ぼくは自室で、居ても立ってもいられない想いにかられていた。テレビでは豪雨注意報が発令されていて、今にも警報に変わりそうだった。いつもの空き地を思い描いてみる。凄まじい雨の中、ただ一人佇むあの子——梅。
雨宮 梅は、今、一人で雨と戦おうとしているのかもしれない。
そんなわけがないと分かってはいる。いくらあの子でも、こんな大雨の日は家を出ないだろう。そう思っていても、目を瞑ると、いつもあの子がひとり、どんな雨の下でも傘を振っていた光景がありありと思い出される。
ぼくはずっと悩んでいたが、窓がひときわ強く音を立てたのを皮切りに、レインコートを掴むと部屋を飛び出した。
しかし折り悪く、リビングで母親と鉢合わせる。
「ちょっと累……? どこ行くの?」
「近くまで、出てくるだけ」
「雨ひどいって知ってるの!? 絶対駄目よ!」
言い合いになったのは初めてだった。母とこうして喋ったことは無かった気がする。
「……会いに行かなきゃならない人がいるんだ」
ぼくの言葉に、母親は動きを止める。
「最近ずっと、帰り遅いし、なんか変だったでしょ。そのこと?」
……いろいろ誤魔化してたつもりだったけど、やっぱりばれてたか。
「うん。どうしても——いま行きたいんだ」
母親は、まじまじとぼくの顔を見つめる。母のそんな目を見るのも、初めてだった。
「累がそこまで言うの初めてね」
「そうかも……ごめん、時間がないかもなんだ、もう行く」
無理やり、玄関に向かう。強情なぼくに、母親が大きくため息をついた後、車の鍵を取って靴を履いた。
「歩いて行かせられるわけないでしょ。……どこに行きたいの」
「――いいの?」
「思えば初めてのわがままだもの。でも、川の近辺に近づくとか、一人で行くとか、危ないことだけはしない。雨が警報になったら、すぐに引き返す。それだけ約束して」
「……ありがとう」
ぼくは靴を履くと、空き地の位置を思いだしながら扉から飛び出した。
*
いつもの脇道を、車で走る。携帯電話で天気予報を調べる。外が暗いせいで、バナー広告の放つ光がずきずきと眼孔を突き刺す。予報では、この先雨はより強くなるとあった。焦る気持ちを昂らせながら、空き地に着く。
急いであの子の姿を目で探すが、あのレインコートも、黒い傘も見当たらない。
流石に杞憂だった、と胸を撫でおろしたところで、空き地の逆側に人影が見えた。
喉がひゅっと鳴って、車を飛び出すとフードを手で押さえながらその人に近づく。それは梅の——母親だった。
雨宮さんは、雨に濡れた髪と青ざめた顔で、ぼくを見つけると、叫ぶように言う。
「あの子の——梅の姿が見えないんです! いつの間にか家から抜け出してて——!」
ぼくにそう言ったっきり、糸が切れたかのように倒れてしまった雨宮さんを、なんとか車に運び入れて寝かせる。
ぼくの母親は、協力してくれながらも、ずっとぼくの様子に驚いていたようだった。
「ねえ、この人、累の知り合い?」
「うん。なんだろ……友達、の……お母さん」
話しながらも、考え続ける。梅が、この空き地以外に居るなら。
あそこしかない。唯一ぼくが連れていかれた場所。
「母さん」
「何!?」
雨宮さんを手早く看護してくれている母に、一言、謝る。
「ごめん、行ってくる」
「累……!?」
その言葉を言い放ってぼくは走り出した。さっき見た天気予報。……そこでは、こう語られていた。五年前、この地に大被害を出した豪雨。今のこの雨は——梅の父親が亡くなった、そのときと同等の豪雨が予報されていると。
だったらあの子はどうするんだろう。あの時、あそこで言っていた……「ここからは、お父さんが見える」。あの日、あの廃ビルの屋上で確かに言っていた。
あの子は今日、亡くした父親に一目会おうとしているのかもしれなかった。
*
走っていった息子を、車から見やる。懸命に走る姿は、普段の何に対してもあまり反応しない、無気力な様子からは想像もできなかった。
父親を生まれる前に亡くしていたことが影響したのかもしれない。時折そう思ったこともあった。何があっても感情を出さないあの子の態度を、少しだけ不気味に思ったことすらあった。
ずっと、息子の中は曇り空だったんだろう。それでも彼は今、傘を握って、一人の誰かのために雨の下をひた走っている。
「勝手に大人になってるものね——」
言葉が漏れた。帰ったら、結局一人で雨に飛び出したことを、生まれて初めて怒らなくちゃならない。
それでも、持たせた雨害対策のお守りに祈る。息子をどうか無事にと……そして誰かは知らないけれど、あの子がああまで頑張っている相手のことを。
*
いつもの脇道を逆走する。さした傘を、雨が打つ感触が、銃の反動のように手に響く。
うろ覚えの廃ビルの位置を思い返しながら道を曲がると、水たまりに足をとられて思い切り転んだ。湿ったアスファルトで膝を擦って、うめき声が漏れる。流れた血潮は、雨に紛れてすぐに見えなくなった。それでも、すぐに立ち上がってビルを目指す。痛みはそこまで感じなかった。
廃ビルに入る。ダッシュで階段を駆け上がって、屋上に出た。
果たして彼女は——そこにいた。
屋上の中央。雨で完全に水没した真ん中、彼女は長靴をその中に沈めながら立っていた。
今日は、傘を振ってはいなかった。ただ、あの黒い傘を——父親の遺した傘を、空に向かって、高く突き上げていた。それはまるで、勝ち鬨を上げているようにも、白旗を上げているようでもあった。
「……梅!」
叫ぶ。そうしないと、いますぐにも空が彼女を連れ去ってしまいそうだった。彼女をこの地に繋ぎ留めなくちゃならないと思った。
梅の目がぼくの方を向く。雨雲に覆われていて、うす暗い周りのせいで、その表情は読めない。
ぼくは彼女に近づくと、その手を取って、なんとか階段の入り口まで梅を引き戻す。ずぶ濡れの彼女の体温はもうほとんど失われていて、その冷たさに泣きそうになった。
なんとか屋内に連れ込んでも彼女は、ぼんやりとビルの奥に見える山々を見つめていた。
ぼくも、山を見つめる。
父親のことを知ってから、梅がここによく来ていたのは、ここがただ空に近い場所だと、雨が平地より早く落ちてくる高さだからだと思っていた。
後から調べて知った——ここから見える、あの山こそ、彼女の父親が土砂崩れにあった山だということ。そして、結局、お父さんは見つからないままだったということ。
きっと梅にとって父親の墓は、その名の刻まれた直方体の硬い石じゃなかったのだろう。あの日と同じ、激しい雨の中のここから望む、あの山こそがきっと彼女にとって父の——。
「梅」
声をかけるけれど、何を言っていいのか分からない。まるで、彼女と初めて会ったときのようだった。
――そうだ。あのとき梅は、ぼくに声をかけた。
「梅。あのとき、最初にぼくたちが会ったとき、どうしてぼくを呼び止めたんだ」
梅は、朦朧とした目をぼくに向けた。
「…………………お」
「———」
「お父さん」
彼女の小さな口から漏れ出た声に、歯を食いしばる。
なんとなく分かった。梅がぼくを気にかけた理由が。
きっとぼくは——どこか、似ていたんだろう。梅と。梅の父親と。
ぼくは人と軋轢を生むのが苦手な、ただの子供だけれど、誰かを助けて自分が死ぬなら、きっとぼくはそうする。レスキュー隊員だった雨宮さんのような、立派な理由じゃない。
それが一番、ぼくが楽な選択肢だからそうするだけだ。ぼくが誰かを傷つけることがないからそうするだけだ。
でも……過程が違っても、結果が同じなら。彼女の目には、ぼくの纏う雰囲気は、彼女の父親と似て映っていたんだろう。
「ねえ……」
梅が、雨音が煩く響く中、わずかに言葉を紡ぐ。
「お父さん……わたしは、どうしたらいいの……」
でも、ぼくは梅の父親の代わりにはなれない。
「梅……」
ぼくの声に、身体を震わせて梅は顔を上げる。
いつかと変わらない、くるりとした黒い瞳は濡れて、震えていた。
何を言うかは決まっていなかった。何を言えばいいのかはまだ分からなかった。
どうして梅は雨と戦っていたのか。この子は、決して何にもならなくとも、ただただ愚かな行為だったとしても、雨に戦いを挑んでいたんだろう。
梅は聡い子だ。きっと、母親の子供だましの話もすぐに理解しただろう。それでも……雨と戦っているときだけは、梅は父親と共に在れたんだから。
でも、そのすべてに意味があったと、ぼくは思う。
「梅は、雨と戦ってたんじゃなくて、ずっと、この世界と戦ってたんだよね」
考えて出た言葉ではなかった。ただ、ぽつりと漏れ出ていた。
梅の世界。父親が、自分ではない誰かのために命を投げうったこの世界。嫌なことばかり目についてしまう、ぼくたちの世界。
どれだけ拒んでも、幾万もの不幸が空から落ちてくるこの世界で、
生きていくには傘がいる。
「梅にとって、傘は戦うことだったんだよ……」
掠れた声で、必死に言葉を続ける。一人雨に吞まれていく彼女を止めるために、ぼくが取れる、かっこ悪くて冴えないやり方。
「でも、梅のお父さんはいなくなっちゃって、梅は一人になっちゃって、だから梅は、一人で世界と戦おうとしてたんだ」
梅は唇を噛んで俯く。
「……だって……」
梅は呻く。
「どうやって生きていけばいいのかわからない……お父さんのことだけじゃない……お母さんもずっと泣いてる……大きい雨が降るたびに、ニュースではお父さんが英雄だって、すごい人だってもてはやす、それでもお父さんは帰ってこないのに!」
「うん」
「そんなの聞きたくないから、雨の日は外に出るの。でも雨の日はこわくて、歩けない。でも……戦ってるときだけは、わたしでいられる」
「うん……」
「……ずっと雨なの……ずっと、ずっと降ったまま……」
彼女の顔はレインコートに隠れて見えないままだった。
そんな彼女を見続けながら、ぼくの口からは、一年前と、同じ言葉がこぼれた。
「……じゃあ、傘がいるだろ?」
梅はぼくを見上げる。ぼくは彼女に笑って欲しくて、ぎこちなく笑みを浮かべて続けた。
「雨なら傘がいるだろ……ぼくが、これからも梅の傘になるから」
どんな言葉を選んでいいか迷う。しどろもどろになって、なんとか伝えたいことを口にしようと四苦八苦するぼくに、梅は、少しの間ぽかんとしていたけれど、しばしの後、顔を緩ませた。
「…………そっか。そうだね。累はずっと、傘を貸してくれてたね。そうだね――」
「雨のときは、ずっと傘をさすよ。ずっと。だからさ……」
泣かないでほしい。そう思った。
*
今日も、いつもの脇道に入る。
うちを出るころには、すでに雨は止んでいて、晴れを示していたけれど、ぼくは傘を持ち出していた。
あの後、母親にこっぴどく怒られた後、手元のお守りは二つに増えていて、ころんころんと音を鳴らしていた。
いつもの空き地の手前まで来る。ふと、遥かに虹がかかっているのを見つけ、それを仰ぐ。
……ぼくにとっても、この世界は雨ばかりだと思っていたけれど、きっとそれだけじゃない。雨のあとの虹、雨雲の裏に隠れた太陽。ぼくらの世界には、それらはずっと存在していたのかもしれない。
歩みを再開して、空き地に踏み込む。
そこには一人の少女がいた。
水色のランドセルを背負って、黄色いレインコートに、学校指定の白い靴。
そして、水玉模様の、ぴかぴかの傘を持って。
梅はぼくに気付くと、はにかんでその傘を開いてみせる。
「買ったんだ。かわいいでしょ」
「うん。いいね」
そう言うと、彼女はでも、と続けた。
「あ、だけど今日は傘、いらなかったかも」
「晴れてるもんね」
「そうじゃなくて」
梅はぼくに、悪戯っぽく、二度目のとびきりの笑顔を見せて言った。
「わたしの傘になってくれるんでしょ、戦友?」
彼女がぼくを戦友と呼ぶ。
確かに雨と戦い生き残ったぼくと彼女には、そんな言葉が似合うのかもしれない。
彼女の心はきっと晴れた。それでも雨が降る日にはぼくがいる。
『ロストアンブレラ』を聴きながら3年前に書きました。
思うところはありますが、ほぼ元のまま載せています。
『狐面の少女』というノベルゲームを以前作って面白かったので、これもいずれ短編ノベルゲーム化したいですね。




