隠れ家のお礼
ほのぼのとした短編が書きたくなりました。
楽しんでもらえたら嬉しいです。
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誰も分け入ることができないような鬱蒼とした雑木林の中に蔦に覆われた今にも崩れそうな誰も住んでいない家がある。
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「殿下!大変です!クーデターです!早くお逃げください!」
静かな東宮に衛兵の緊急を知らせる声が響いた。
遠くで、尋常じゃない騒がしい音や声がしている。
寝室で休んでいた王太子レオンは飛び起きた。
ベッドから飛び降り、すぐに身支度を始めながら「いったい何が起こっている!」
飛び込んできた衛兵に焦って聞いた。
「クーデターです!王弟殿下がクーデターを起こされました!既に国王陛下と皇后陛下は敵の手により…」
その先のことを衛兵は口にはできなく、唇を悔しそうに噛んでいる。
「叔父上が?!くそっ…信じられない…いつから企んでいたんだ…」
「まもなく反乱軍がこちらに押し入ってきます!殿下だけでも早くお逃げください。生きていれば反撃も望めましょう!」
「シャルロッテは?シャルロッテは無事か?」
シャルロッテとは王太子レオンの妻のことだ。
美しいシルバーの髪、可愛らしい顔立ちにエメラルドグリーンの瞳が、彼女の人々を見る慈愛のこもった眼差しがレオンを魅了して止まない。
しかし、レオンの妻はレオンがそんな事を思っているなんてまったく知らない。
「妃殿下にはまだ…」衛兵が言い終わる前に、レオンは続き部屋への扉を勢いよく開けて夫婦の寝室を抜けて妻の私寝室に飛び込んだ。
「シャルロッテ!シャルロッテ!起きろ!早く起きろ!」
ぐっすり眠っていた王太子妃のシャルロッテはゆっくり起き上がった。
「いかがされましたか?」
「クーデターだ!叔父上が!両陛下は既に…くそっ」
シャルロッテもさすがに危機が迫ってきていると理解した。目の前の夫は必死の形相でシャルロッテに告げる。
「すぐに支度しろ!逃げるぞ!」
「はいっ!」シャルロッテは急いで動き易いドレスに着替え、マントを羽織り、逃亡資金用に幾つかの宝飾品を掴んでマントのポケットに詰め込んだ。
「行くぞ!」
「はいっ!」
レオンはシャルロッテの手を掴んで階下に走り降りた。そしてあまり使われていないリネン室に飛び込んだ。
そんな事をしている間にも、反乱軍兵士達が東宮に乱入してくる騒がしい音がする。恐らく衛兵が迎え撃っているのだろう…剣戟の音が遠くで聞こえる。
その音がだんだん近づいてきている。
レオンは棚の物をすべて落としてひとつの棚をずらす。秘密の通路がそこにはあった。
「この先をとにかく進むんだ。城外の雑木林に出る。そこまでは反乱軍も追っては来ないだろう…」
レオンはそう言って、シャルロッテを押し込む。
「絶対逃げきるんだ!いいな!何がなんでも生きるんだ!」
「殿下?」
「ベルセ侯爵家には戻るな!恐らくそこも既に征圧されているはずだ…!」
「殿下は?一緒に逃げるんでしょ?」
レオンはいきなりシャルロッテに口づけた。
「シャルロッテ…私は君を愛していた…こんな時にしかちゃんと告げられなくてごめん。だから生きてくれ!」そう言ってシャルロッテをさらに奥に押してずらした棚を戻した。「愛していたよ、シャルロッテ」という言葉を残して…
「嫌!殿下!殿下!ダメ!」閉まった壁を叩き、叫びながらレオンを呼んだ。
「早く逃げるんだ!」
それが、シャルロッテが聞いたレオンの最後の言葉だった。
シャルロッテは暗い通路を走った。とにかく走った。心臓が壊れるのではないかと思うくらい、人生でこんなに走った事がないくらい走った。
やっと隠し通路の出口にたどり着いた。まもなく夜明けだ。一晩中走った事になる。
雑木林に分け入り、ふりかえる。
王城の尖塔が見える。黒や白の煙が至る所から上がっている。
(とにかく逃げなくては…)シャルロッテは雑木林の中を進んで行った。
シャルロッテ・ベルセ侯爵令嬢は表向き政略でフィルフォード王国の王太子レオンに嫁いだ。
ベルセ侯爵家は代々宰相を務めている国王派の中心人物だが、タイミングよく王家に嫁がせられる女児には恵まれなかった。
そんな中、王太子が5歳の時シャルロッテは生まれた。
5歳年上のレオンとは16歳の時に婚約した。
顔合わせの時、少しはにかみながら「よろしく頼む」と言ったレオンにときめいた。絵本の中の王子様のようではないが、サラサラのブラウンの髪、少し垂れ目の茶色い瞳に太い眉、普段から鍛えているのがわかるガッチリした体格の王太子は華やかさはないが、とても誠実そうに見えた。今思えばシャルロッテはその時にレオンに一目惚れしたのかもしれない。
3年の婚約期間、レオンは定期的な茶会や夜会のエスコート、誕生日プレゼントなど婚約者として完璧に振る舞ってくれた。
しかし、レオンはシャルロッテが笑顔を向けても目を合わせてくれようとはしなかった。
シャルロッテは(これは政略結婚だから仕方ない)と自分を納得させていた。
19歳の時にシャルロッテは王家に嫁いできた。
結婚式の時ですら、レオンはシャルロッテとは目を合わせてくれなかった。
(政略結婚だから)この時もシャルロッテは自分を納得させた。
夫婦になって1年。弾むような会話もなく。日々淡々と過ごしていた。まだ子には恵まれていなかった。
公務で大勢の前にふたりで姿を現すときは完璧なエスコートを受けるので、周りには仲の良い夫婦に見えているのかもしれなかったが、シャルロッテがいろいろ話しかけても、レオンは「ああ」「そうだな」「わかった」などそっけない返事を繰り返していた。
笑顔を見せてくれることなどなかったように思う。
…なのに…「私は君を愛していた」最期の最期に伝えてきた。
「なんなのよ…もっと早く言ってよ…」シャルロッテは嬉しいのに悲しかった。涙が止まらない。
どこをどう歩いたのか…突然木々に囲まれた広い空間に出た。太陽は真上から草地になった地面を照らしている。
シャルロッテはふと立ち止まり前を見た。
壊れているが、木の囲いがある。
その囲いの中に、これも今にも崩れそうな家が建っていた。家は蔦が軒下まで伝い窓すら覆い隠している。
シャルロッテは少しの休息を取りたくて、木の囲いに取り付けてある門を開けて家に近づいた。
絡まる蔦を剥がしながら扉を探し、ノブを掴んだ。
「カチッ」と音がしたような気がする。
ノブを回してゆっくり扉を開けて中に入った。薄暗い家の中は、見事に蜘蛛の巣だらけだった。埃なのか煤なのかわからないが、家具に何か積もっている。
明らかに誰も住んでいない。
侯爵令嬢のシャルロッテは当然こんな家に入った事がない。
いつも誰かが掃除して、清潔にしてくれた部屋で過ごしていた。
しかし、今はそんな贅沢な事を言っている場合ではない。勇気を出して家の奥に入り、窓を開けようとしたが、蔦が邪魔をして開けられない。
シャルロッテは外に出てすべての蔦を剥がし始めた。
植木の世話すらしたことのないシャルロッテが悪戦苦闘しながら時間をかけてすべての蔦を剥がし終わった時にはすっかり日が暮れていた。
「ふぅ!続きは明日ね…」ひとり呟くと家に入りすべての窓を開けて空気を入れ替えた。
そこで、今自分はひとりぼっちで、ここは雑木林の中、どんな動物がいるかもわからない…もしかしたら追手がくるかもしれない…と我にかえり恐怖を覚えた。
空気が入れ替わったのを感じたシャルロッテはすべての窓を閉じ、家の中に灯りになる物はないかと物色し始めた。
燭台と蝋燭はすぐに見つかった。火を起こす道具も竈のそばに埃まみれで転がっていた。
カチッカチッと竈に脇に置いてあった藁を入れて火をつけようとするが、うまくいかない。やっと竈の中に赤い火種ができた時は空に星が瞬いていた。
蝋燭を灯し、とりあえず寝床を探す。扉は4つ。今入ってきた扉と、ふたつの個室に繋がるふたつの扉、あとひとつは洗面室に繋がる扉、その奥に浴室があるようだった。
ふたつの個室にはそれぞれ、ベッドがあった。
幸いな事にカバーがしてあり、カバーを取ればすぐに使えそうだった。
シャルロッテはくたくたに疲れた体をベッドに投げ出し、すぐに寝入ってしまった。
今までのシャルロッテからは到底想像できない行動だった。
シャルロッテは夢を見た。夢の中で箒と雑巾を持って何かに追われて雑木林の中を走っている夢だった。
『生き返らせて…生き返らせて…』と誰かが雑木林の中を走るシャルロッテに訴えかけてくる夢だった。
シャルロッテが目覚めた時、雨戸の隙間から陽が差し込んでいた。
窓を開けて陽の光を部屋の中に入れた。埃が舞ってキラキラしている。
突然空腹を感じた。昨日は1日何も口にしていなかった事を思い出した。
「まずは何か食べなきゃ…」
家の中を探したが、何も見当たらない。外に出てあたりを歩き回った。
家の裏手に木苺やブルーベリーが実った木があった。
シャルロッテは「こんなところに…ありがたいわ…」
早速、貪るように口に入れた。
甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。「美味しい!」思わず口にする。
他には何かないか…と周りを見回していると、水の音が聞こえてきた。
「川があるの?」家から少し離れたところに小川が流れていた。シャルロッテは小川に手をつけた。
少し上流には小さな段差があり、ちょっとした滝になっている。
「あー、気持ちいい!」シャルロッテは顔を洗って、手ですくった水を飲んだ…「美味しい…」
少し早い川の流れを見ながらレオンの事を思い出していた。
「あんな顔して〈君を愛していた〉なんて…バカ…」気がついたらシャルロッテは泣いていた。
後から後から流れる涙を拭くこともせず。川の流れを見ながらしばらく声もあげずに泣いていた。
〈何がなんでも生きるんだ!〉レオンの声が頭の中に響いた。
「ええ、あなたが望んだから私は生きるわ…何がなんでも…」そう言って左手に光る細い金の指輪を左手ごと抱きしめ、目を閉じた。
再び目を開けたシャルロッテは立ち上がり、もときた道を、崩れそうな家に向かって歩いて行った。
「まずは、掃除…ね、道具は…」いろいろ探し回って部屋の隅にある細長い戸棚に箒と塵取り数枚の雑巾と木桶が入っていた。
侍女達がどういう風にしていたのか思い出しながら、箒をはたき代わりにして、天井の埃落としから始めた。全部の窓を開けているのに家の中は落ちてくる埃でもうもうとしていた。
天井、壁、窓、家具そして床すべての埃を落としかき集め、外に掃き出してなんとか住める空間にした頃には昼も過ぎて、そろそろ陽が傾くのではないかと思われる時間だった。
「1日が終わっちゃうわね、続きは明日ね…」と額の汗を腕で拭った…埃のついた腕で拭ったのでザラッとした。
「ふふふ…」意味もなく笑い、台所に置いてあった…恐らく水汲み用の木桶を持って川に向かった。
途中、思いついて、2枚のベッドカバーも小脇に抱えて川に向かう。
注意深く川に入り、小さな滝に行って頭から服を着たまま川の水を被った。
体中に被った埃を洗い流し、ベッドカバーも洗い、最後に木桶に水を汲んで、家に戻ってきた。
今度は、かごを持って木の実を取りに行って、帰ってきた頃には日が暮れていた。
何か使える物はないかと燭台片手に家の中の棚という棚、引き出しという引き出しを物色した。
女性が住んでいたのか、木綿の衣類などが出てきた。
洗面室の引き出しからはタオルが出てきた。
「あー、助かるわ…」
シャルロッテは昨日剥がした蔦を何本か持って入り、葉を取って、捻り撚って、梁と梁の間に渡し、そこに濡れたものをかけた。
夕飯は木の実と水。簡素な食事だったがシャルロッテは今まで食べた何よりも美味しいと感じた。
次の日も、また次の日も、シャルロッテは家と家の周りの掃除に明け暮れた。
夏になる頃には埃だらけだった家も、住みやすい空間に変わり、シャルロッテもなんとか食材を調達できるようになり、簡単な料理ならば作れるようになった。
1日が終わり、キノコのスープと川で捕まえた貴重な魚と雑木林に自生していたズッキーニのようなものを焼いて夕飯を済ませた。
ふと、家の中を見回す。初めて足を踏み入れた時とはまったく違う空間がそこにあった。塵ひとつ落ちていない床。毎日拭かれてくもりひとつない窓、雨戸。天井には蜘蛛の巣ひとつない。台所も洗面も浴室もちゃんと使えている。
家の周りの雑草は取り払われ、すぐにでも小さな畑くらいはできそうである。
家の周りの柵も、とりあえずは蔦のロープでなんとか形を保っている。「ふふ、天井に穴が開いてなくてよかったわ…」シャルロッテは独り言を言って笑う。そして自分の手に目をやる。
手は荒れたが、そんなことはまったく気にならなかった。相変わらず、左手薬指には細い金の指輪が光っている。
「レオン様…会いたい…」叶わぬ願いを口にしてしまった。恐らく彼は既に命を落としているだろう…
私もちゃんと気持ちを伝えればよかった…王弟殿下の裏切りに気付けるように周りを見ていればよかった…それくらいできたのに…。後悔が押し寄せてきた。
その頃の王都は、クーデターを起こした王弟が国王に即位し、旧国王派はことごとく粛清され、軍部をさらに強化させるために、国民に増税を強いる王命を発布していた。
新しい国王誕生に沸いていた国民は早くも後悔していた。しかし、それを口にする事はできなかった。
うっかり国王を批判する言葉を発すると、すぐに捕まり、処罰された。独裁政治の始まりだった。
そんな事が起きているとは、この家にいるシャルロッテには知る由もなかった。
〈何がなんでも生きるんだ〉またレオンの声が頭の中に響く。
「ええ、私は生きますよ。できることならあなたと生きたかった…」頬に涙が伝う。
シャルロッテの頭の中に誰かが話しかけてきた。
『レオンと共に生きたかったの?』
「ええ、生きたかったわ、ちゃんと気持ちも伝えたかった…」シャルロッテはその声に答える。
「私も、あなたを愛していたわ…レオン」
シャルロッテはしばらくダイニングテーブルでひとり静かに泣いていた。
その夜また不思議な夢を見た。
眩い光の中にシャルロッテは座っていた。白いドレスを着ている。あたりには何も見えない。ただ光の粒が舞っていた。
『あなたをレオンに返してあげるわ…ちょっとしたお礼よ…もう会わない事を祈ってるわ。頑張ってね』シャルロッテのいる空間に声が響く。シャルロッテは声のした方を探そうとするが、どこを見ても白い世界でそれ以外は何もない…
そして光の粒はシャルロッテの周りに集まってシャルロッテを包んだ。
……………………
「…ロッテ、シャルロッテ?」懐かしい声が聞こえた。
「はっ」として前を見る。
司祭が困った顔をしてシャルロッテを見ている。
「?」キョトンとしていると、隣からまた声が聞こえた。
「シャルロッテ?」
隣を見ると会いたかった顔がそこにあった。
「殿下」会えた嬉しさにシャルロッテはふわっと微笑んで、一筋涙を流した。
レオンは驚いたように目を見開いてシャルロッテを見つめた。
「んんっ…シャルロッテ様…誓いますか?」
ふたりの前に立つ司祭が小さな声でシャルロッテに話しかけた。
(あ、結婚式の夢?…それなら遠慮はいらないわね)と思い「はい!誓います!」と元気よく答えた。
後ろから、ザワザワと声がするが、振り返る余裕はなかった。
司祭が微笑みながら(もしかしたら笑いを堪えていたのかもしれないが)「では指輪の交換を」と促した。
シャルロッテの指にはまったのは、いつも寝る前に撫でていたあの細い金の指輪だった。
レオンが指輪をはめてくれる。それだけで幸せで、微笑みながらまた涙を流した。
シャルロッテもレオンに指輪をはめた。そして愛おしそうにレオンの指輪をひと撫でした。
「シャルロッテ…」レオンがシャルロッテの名前を呼ぶ。(ああ、幸せだ)シャルロッテは綺麗な涙を流しながら微笑んでレオンを見上げた。
確か誓いのキスは手の甲にしてもらった記憶がある。
しかし今回は違った。レオンを見上げるシャルロッテにレオンの顔が近づいてきた。シャルロッテの唇にレオンの唇が重なった。
秘密の通路で別れる時にしてもらったレオンの唇が今再びシャルロッテの唇に重なっている。
幸せでどうにかなりそうだった。
すっとレオンが離れていった時は寂しさを感じた。
見上げるとレオンも笑っていた。
(笑ってる!生きて笑っている!)シャルロッテは微笑みながら泣いた。
教会の鐘が鳴り、皆の祝福を受けて夫婦の誓いを立てたふたりは今、王宮、宮殿のバルコニーにいた。
目の前には新婚の王太子夫妻を祝福する民衆が広場から溢れるほど、数えきれないくらい集まってきていた。
シャルロッテはレオンと一緒にバルコニーから手を振る。民衆の歓声は最高潮を迎えた。
「ああ、そうだった…例え政略結婚だったとしても、私は国のために頑張ろう、皆の笑顔のために頑張ろうと思ったんだった…あのクーデターの後、皆はどうなったのかしら…」そう思いながらシャルロッテは手を振り続けた。隣でレオンが眩しそうにシャルロッテを見ていたことなど気づかないまま。
結婚披露の晩餐会と舞踏会が続けて開かれた。
舞踏会用に着替えた新郎新婦のふたりは揃いの生地で作った煌びやかな衣装でファーストダンスを披露した。
「夢なら醒めないで…」シャルロッテはレオンと踊りながら呟いた。
シャルロッテの呟きはレオンに届いたようで「ふふ、夢じゃない…シャルロッテ…綺麗だ」レオンは眩しそうにシャルロッテを見てしっかりシャルロッテに聞こえるように伝えてきた。
「殿下!」シャルロッテは真っ赤になってレオンを呼んだ。
レオンは嬉しそうに声を出して「ははは!」と笑った。
そんな仲睦まじいふたりを周りは温かい目で見守った。ふたりを除いて。
シャルロッテは、ふいに鋭い視線を感じて、そちらに目をやるとペニシュア侯爵令嬢のバーバラがふたりを見ていた。扇で顔の半分を隠しているので、表情は見えないが、刺すような視線を送られているのは分かった。
「どうした?」レオンがシャルロッテの視線を追う。
レオンがそちらの方を向いた時にはバーバラは背中を向けて人混みに消えていた。
「ふふ、なんでもありません…殿下、改めて今日からよろしくお願いします」とシャルロッテはレオンに微笑んだ。
レオンは頬を染め目を泳がせて「あ、ああこちらこそよろしく頼む」とシャルロッテの方を見たいが、見られない…そんな表情をして返事をした。
シャルロッテは(ああ、もしかして…殿下は私と目を合わせたくない訳ではなかったのかもしれない…とんでもない誤解をしていたのかもしれない)と悟った。
ファーストダンスの披露を終えたふたりは上座に戻り、他の人々が曲に合わせて踊っているのを寄り添って見ていた。(ああ、なんて幸せな夢を見ているのだろう…)そんな事を思っていると
「王太子殿下、妃殿下。ご結婚おめでとうございます」と声をかけてくる人がいた。アルフレッド王弟殿下である。
「叔父上!ありがとうございます」とレオンは笑って祝いの言葉に答えた。
シャルロッテも「アルフレッド王弟殿下。ありがとう存じます」と笑顔でかえす。
「いや、おふたりの仲睦まじい様子を拝見して、我が国は安泰だと確信しました。どうぞ末長くお幸せに」
アルフレッド王弟は先代国王の側妃の息子で、国王の歳の離れた異母弟だった。
側妃によく似て、金髪でオリーブ色の瞳の整った顔立ちでスラリとした長身の、まるで絵本から抜け出た王子様のような風貌だった。
ふたりに対して「どうぞ末長くお幸せに」と言った後に上品に「ははは」と笑った。その笑い声を聞いただけで、頬をぽっと染めるご令嬢があちこちに出現する有様だった。年齢はまもなく30歳になろうとしていた。婚約者すらいないのは、レオンに子どもができるまではあらぬ疑いをかけられないようにするためだと言われていた。
シャルロッテは(この方が1年後にクーデターを起こすなんて…誰も想像していないわよね…)と思いながら、レオンとアルフレッドが談笑する様子を顔に笑顔を貼り付けて見ていた。
ふと、アルフレッドと目が合った。きっとアルフレッドは愛想笑いをしただけ…しかし、シャルロッテはアルフレッドの瞳の奥にただならぬ物を感じて背筋が凍る思いをした。
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シャルロッテは幸せな夢を見ていた。
レオンが生きて、共に夫婦の誓いを立て、国民にお披露目し、ダンスをして、見つめ合い夫婦になった。
だんだん覚醒してきているのがわかる。心の底から(夢よ、まだ醒めないで…まだ醒めないで)と願った。
縋るように自分を包む温かい掛布にしがみついた。
「ふふ」と頭の上から声がした。
シャルロッテがしがみついている掛布が異常に硬い。
何か温かいものが自分の体に纏わりついている。
懐かしいレオンの匂いがする…
そこでシャルロッテは完全に覚醒した。
「え?」目覚めた先には優しくシャルロッテを見下ろす茶色い瞳があった。
「おはようシャルロッテ」愛しいレオンの声がした。
今、ふたりは東宮の夫婦の寝室で抱き合って寝ていた。
「え?え?夢の続き?」混乱したシャルロッテはレオンから離れようとするが、レオンにガッチリ抱かれて動けない。
「ふふふふ、君は昨日から不思議な事を言う…もう一度言うよ。これは、夢なんかじゃない。現実だ。もう一度証明しよう」そう言ったレオンはシャルロッテに覆い被さっていった。
数刻後、さすがにこれは現実だと実感したシャルロッテはレオンの腕枕でレオンに沿うように横になっていた。
きっと、あの時、あの光が過去に戻してくれたのね…不思議な力で…。ありがとう。シャルロッテの頭の中で〈頑張ってね〉と誰かもわからない声が木霊した。
雑木林の家で沢山後悔した事を思い出した。それに、ここから逃げ出す時レオンは〈愛していた〉と告げてくれた。もう後悔したくない。
「殿下…お慕いしています。多分初めて会った時から…」自然とシャルロッテの口から言葉が紡がれていた。
その言葉に驚いたようにレオンはシャルロッテを覗き込む「本当に?本当に?私のことを?」
その驚いた顔が愛おしくて「はい、本当に…あなたが好きです」気持ちを込めた笑顔をレオンに見せた。
「ああ、シャルロッテ…嘘みたいだ。君は政略結婚だから私に付き合っているだけだと…だから必要以上に近づいてはいけないと…きっとそのうちに信頼関係を築けるからそれまでは我慢だと思っていた」と言いながらレオンはシャルロッテをきつく抱きしめた。
「なぜ、そんな事を?」シャルロッテはレオンの胸に顔を埋めたまま聞いた。
「まぁ、いろいろ忠告してくる者はいるのでね…」
「まぁ、なんですかそれ?…私はあなたの妻になりました。だからどんな事があってもあなたと共にいます。ひとりで逃げ出したりしません。させません」
シャルロッテは自分の決意をレオンの目を見て告げた。
「嬉しい、シャルロッテ…こんな嬉しい事はない…愛しているよシャルロッテ」
「殿下…私も愛しています」シャルロッテの目からまた幸せの涙が流れた。
「シャルロッテ…」レオンも嬉しそうにシャルロッテを見る。
「殿下…私のことは是非〈シャル〉と…」
少し目を見開いた後、「シャル」と嬉しそうにレオンはシャルロッテの愛称を口にした。
「はい、殿下」
「私のことも…〈レオ〉と…呼んでくれ」
「ふふ、はい、レオ様」
「〈様〉はいらないんだけどな…慣れたら外して」
「はい、頑張ります…ふふ」
その日から1週間。公休だったふたりはたくさん語らい合った。
お互い初恋だったことを知った。
レオンはシャルロッテに恋してしまい、恥ずかしくて直視できなくなってしまっていたことを知った。
妃候補は他にもいたが、レオンが望んでシャルロッテを妃に指名したことを知った。
レオンは、これは政略結婚だからシャルロッテは断れずにきっと困っているのだろうと思っていた。ということを知った。
その余計な忠告をしたのは国務大臣を務めるペニシュア侯爵だと言うことも知った。
もちろん、話題はふたりだけの事ばかりではなく、レオンが目標とする国の将来像のことも語らいあった。
そして、お互い気になったことはちゃんとふたりで話し合い解決しようと誓い合った。
「それで、早速ですがレオ様。妃候補にはペニシュア侯爵令嬢もいたのでしょうか?」
「ああ、確か…いたよ」
「確か?」
「ああ、他の候補にはあまり興味もなくて…」と頬を掻くレオン。
「まぁ!」と頬を染めるシャルロッテ。非常に初々しいふたりだった。
「王弟殿下は何も仰らなかったのですか?」
「うーん、特には…でも昔からよく言われていたのは〈王族の結婚なんて、後ろ盾を確保するための政略結婚だ…愛だの恋だのは側室に求めるべきだ〉と言っていたな」
「え?でも両陛下は…」
「ふふ、仲良いだろう?政略と言うのは表向きらしい…」
「まぁ!」
「俺たちもだけどね」
結婚して想いを告げ合ってすぐにレオンはシャルロッテと話す時だけ自分のことを〈私〉から〈俺〉呼びに変わった。
シャルロッテはレオンの以前の態度との違いに驚いたし、きちんと告げてよかったと安堵もした。
そして大きく変わった事といえば、私寝室を使わなくなったことだろう。ふたりは毎日夫婦の寝室で休んだ。
「シャルは叔父上の事をよく気にするね…」レオンに言われてドキリとした。
まさか、1年後にクーデターを起こす…とは言えない。証拠もない。未来は変わったかもしれない。だから…
「結婚式の時の視線が気になって…」とだけ伝えた。
「結婚式?」
「ええ、王弟殿下とバーバラ様の視線が気になって…きっと思い過ごしなんでしょうけど…」
「そうか…叔父上とペニシュア侯爵か…」レオンは何かを考えている。
シャルロッテは思考中のレオンを邪魔しないようにお茶を飲んで静かにしていた。
「シャル…叔父上とペニシュア侯爵の話はふたりだけの時以外は口にしないでおこう」
真剣な目をしてレオンが言う。
〈ふたりだけの時〉即ちそれは夫婦の寝室での会話の時のみを指していた。
シャルロッテは「はい、勿論ですレオ様」と答えるにとどめた。(レオ様の足は絶対に引っ張れない)シャルロッテは密かに思っていた。
1週間の公休があけて、公務が始まった。
シャルロッテは与えられた公務を前回以上に細部にまで目をやるように気をつけた。
書類の数字、人の動き、経費。公の場に出る時は、その場にいる人の動きも目の端にとめた。会話も真に何を言っているのか、裏を読めるように注意した。
もちろん、気になったことはすぐにレオンに報告しようと決めていた。
時々、実家の両親にも手紙を送った。季節の挨拶など、他愛のない手紙だったが、疎遠になるのが怖かった。両親からも「元気にしているか?」と返信がかえってきていた。
今日もシャルロッテは書類に目を通す。
東宮に勤務している者の賃金台帳を確認し、承認印の押印をしようと思った時、
「うん?」シャルロッテは違和感を感じ、過去の東宮の雇用者名簿も確認した。
「彼女、このタイミングで東宮に配属されたのね…」
(通常、間者の侵入を危惧して王族に何かイベントがある時は人事異動はしない…おかしい)シャルロッテは思った。
その夜、シャルロッテはレオンにこの違和感を報告した。
……………………………………
時は遡って、レオンとシャルロッテの結婚式の3日前。
街の富裕層向けの宿。
王弟アルフレッドと侯爵令嬢バーバラは密かに会っていた。
ソファに並んで腰掛け、アルフレッドはバーバラの肩を抱き、バーバラはアルフレッドにもたれかかっていた。
「それで…メイドは送りこめたのか?」
「ええ、なんとか給仕メイドとして、今日から東宮に…」
「薬は?」
「持たせました」
「そうか…よくやったな…。今孕まれては困るからな…」
「別に良いのではないのですか?」
「よくないさ、王族の子を最初に産むのはバーバラ…君だからな。それにレオンの子が生まれて、もし男なら継承権第2位になり、私は第3位になってしまう。バーバラを皇后にできなくなってしまうだろう?」
「アルフレッド様…」バーバラは頬を染めてアルフレッドを見上げた。
「ふふ、そんな顔をして…バーバラは可愛いな…」
アルフレッドは魅惑的な微笑みでバーバラを見つめ抱き寄せ、バーバラの髪を撫でていた。
…………………
バーバラがその部屋を後にして、代わりにアルフレッドの側近が入ってきた。
「殿下、失礼致します。バーバラ嬢はおかえりになったのですか?」
「ああ、やっと帰ってくれた」
「成功の暁には、皇后に?」
「ああ、そのつもりだ…後ろ盾が必要だからな…」
「ならば、シャルロッテ妃には消えていただいた方が良いのでは?」
「バカな事を言うな…彼女の目の前で政権を覆す。現国王派は全員粛清だ、命の保証と引き換えに側妃にしてやる。レオンの子を産むなんて許さない」
アルフレッドはシャルロッテにどうしようもなく惹かれていた。シャルロッテがデビュタントを迎えた舞踏会の日アルフレッドもその場にいた。デビュタント用の白いドレスを着た彼女から目が離せなかった。
艶のある美しいシルバーの髪、可愛らしい顔立ちにエメラルドグリーンの煌めく瞳…どうしようもなく欲しかった。
その後、彼女がレオンの婚約者に決定したことを知った。
レオンがいなくて俺が王太子だったなら…と何度も思った。レオンを消そうと思ったが、ガードが固くできなかった。
だから、シャルロッテの目の前で絶対的な力を見せて、頼れるのはアルフレッドだけだと思い知らせようと思った。
どうせ、彼女も政略結婚で嫁いだ身…どうしようもなくシャルロッテに惹かれていると告白すれば、すぐに絆されてくれるだろうと思っていた。
「母が良く言っていた。〈王族の結婚なんて、後ろ盾を確保するための政略結婚だ…愛だの恋だのは側室に求めるべきだ〉と。確かにその通りかもな…」
父王が亡くなり、今は離宮でひっそり暮らしている母を思い、遠い目で呟いた。
………………………………………………
「おはようございます。王太子殿下、妃殿下」
「おはよう、シエラ。職場にはもう慣れた?」シャルロッテは、朝の挨拶をした新しく配属された給仕メイドに話しかけた。
「はい!お陰様で、皆さんに良くしていただいています」
「そう、よかったわ…今日は?」
「今日は、少し寒くなってきましたので、ロイヤルミルクティーにしてみました。少し濃いめに淹れました」
「まぁ、いいわね…」
「お口に合うと良いのですが…どうぞ」とティーカップをレオンとシャルロッテの前に順に出した。
その時、男性給仕がレオンとシャルロッテのそばにやってきて「殿下、失礼致します」と言ってレオンとシャルロッテの前に置かれたティーカップを下げる。
レオンとシャルロッテは静かに事の成り行きを見守っていた。
いつの間にかシエラの後ろにも屈強な男性給仕が立っていた。
シエラは異変を感じたが、抵抗する暇もなく拘束された。そしてシエラは速やかに連行されて行った。
しかし、このことは公表されることはなく、表面上はシエラは変わらず勤務していることにされた。
………………………………
シャルロッテが王室に嫁いで初めての社交期がやってきた。
今年、社交界にデビューする若者のデビュタントを皮切りに、王宮や貴族の屋敷で頻繁に夜会が催される。
大きな商談や大金が動くのを加速させる期間でもある。
皆笑顔の裏に思惑を隠して夜会に挑んでいた。
王宮でも主催者を変えて何度か舞踏会を催す。
国王主催、皇后主催そして王太子主催の舞踏会が開かれた。
王族はそのすべての舞踏会に出席するのが慣例だった。
シエラとシエラの持っていた薬しか証拠がないレオンとシャルロッテはいかにも〈政略結婚で夫婦になったふたり〉を装い王弟やペニシュア侯爵の動向を目の端におさめていた。
注意して見ていると、不審な動きが浮き彫りになってくる。以前は全く気づかなかったことを今更ながら後悔する。
コソコソと国王の側近のひとりとアルフレッド王弟が話していた。
数人の貴族と部屋のホールの隅でワイン談笑をしていたかと思えば、ひとり、またひとりとホールから姿を消していた。
レオンの側近を散らして王宮内をそれとなく監視させていたら、全員ひとつの部屋に入って行ったことが明らかになった。
その貴族家から上がってくる、執務報告書を内密に入手し、読み解き違和感を探した。そして資金の流れを掴んだ。
もちろん拘束しているシエラの自供の裏も取った。
そこから情報を手繰り寄せ関与している者を確定した。
人の流れも掌握した。
着々と情報を集め、証拠を固めている時、レオンはアルフレッドのシャルロッテを見る瞳の異常さに気づいた。
夜、ふたりきりになった時、シャルロッテは〈アルフレッド王弟の視線が気になる〉と言っていた。
〈背筋が寒くなるような…蛇に睨まれたような気持ちになる〉とも言っていたことを思い出した。
(なるほど…そう言う事か…)レオンの中に静かに怒りの炎が灯った。
そして、その夜がやってきた。
王宮、宮殿の最奥。国王の居住区、国王の寝室に国王の側近の誘導で武装したアルフレッドが踏み込んだ。
踏み込んだ先には…
衛兵に守られた国王と皇后が立っていた。
あっと言う間にアルフレッド達はたくさんの衛兵に取り囲まれ、身動きが取れなくなった。そして、そのまま呆気なく拘束された。
東宮に踏み込んだ反乱軍も同じだった。
武装したペニシュア侯爵を先頭に王太子寝室に乱入した反乱軍は、同じく武装し、待ち構えていたレオンと衛兵により囲まれて剣を振るうことなく全員衛兵に取り押さえられた。
その時シャルロッテは武装したレオンの後ろに隠されていた。
同時に、アルフレッドに味方して蜂起している反乱軍もすべて残らず国王軍により征圧されていた。
王都は戦火を浴びる事なくアルフレッドのクーデターは失敗した。
その頃、ペニシュア侯爵家に火急の知らせが舞い込んだ。
「大変です!クーデターが失敗しましたっ!旦那様とアルフレッド王弟殿下が拘束されました!まもなく国王軍がこちらにきます!早くお逃げください!」
反乱軍の伝令が屋敷に飛び込んできた。
バーバラは急いで、動き易いドレスに着替え、逃亡資金用にいくつかの宝飾品を掴み、羽織ったマントのポケットに捻り込んだ。
因みにペニシュア侯爵夫人は既に故人であった。
侍従が用意した馬車に飛び乗り、ここから1番近い隣国を目指し馬車を走らせた。
しかし国王軍は既にその行動を予測していたのか、逃亡を図るバーバラの馬車の後ろに姿を現し追ってきた。
捕まるわけにはいかない…。御者は雑木林の中を突っ切る事にした。しかし、バーバラが乗る馬車は軍用馬車ではない、上手く前に進めない。
御者はバーバラに「私はこのまま国王軍を引き付けます!お嬢様はこの小径の先を真っ直ぐに行って逃げきってください!雑木林を抜けていくつかの村を越えれば隣国です!」
そう言って、迫り来る国王軍を引き付けるために、バーバラを置いて走り去った。
馬群の地響きがしたので、木立の影に身を隠すと、すぐに軍馬が塊になって馬車を追いかけて行った。
バーバラはひたすら雑木林の中の小径を走った。言われた通りに真っ直ぐ走った。振り返りながら方向を間違えないように走った。
突然、木々に囲まれた広い空間に出た。
月の光に照らされた、広い空間には、壊れかけ、蔦のロープで修繕された木の柵があり、その柵に囲まれて、今にも崩れそうな家が建っていた。
その家全体に蔦が軒の下まで絡まり、どこが扉なのかすらわからない。
バーバラは一晩の宿を求めて蔦の絡まる家に近寄った。
人の気配はない…バーバラは蔦を剥がしながら扉を探した。…あった…
ドアノブを握る。「カチッ」と音がした気がした。
そっと家の中をうかがう。やはり人の気配はない。
思い切って中に入った。部屋の中は見事に蜘蛛の巣だらけだった。床や家具の上には埃とも煤とも思えるものが積もっている。とにかく酷い状態だった。
侯爵令嬢であるバーバラはこんな部屋に入ったことがない。いつも誰かが掃除をして、清潔にしてくれている部屋にしか入ったことがなかった。
しかし、贅沢を言っている場合ではない。
バーバラは窓を開けて空気を入れ替えようとした。しかし蔦が絡まっているせいで窓が開かない。
バーバラは外に回り窓のあたりの蔦を剥がし始めた。
植木の世話をしたことすらないバーバラには重労働だ。綺麗にしている爪もあっと言う間にガタガタになった。
「あー!もうっ!なんなのよ!なんでこんな目に遭わなきゃいけないの?!」文句を言うが誰も答えてくれない。
とりあえず、窓ひとつ分の蔦は取り除いた。
今は深夜、今夜はこれで我慢する事にした。
バーバラは窓の下に膝を抱えて座り込み、壁にもたれて一夜を明かした。
朝日が開け放たれた窓から家の中に差し込む。
舞った埃に太陽の光があたりキラキラしている。
「あー、埃っぽい!」バーバラはとりあえず全部の窓を開けるために、家の周りの蔦を全部剥がした。
もう既に爪はボロボロ。「あんなに綺麗にしていたのに…」バーバラは泣きたくなった。
家中の窓を全部開ける。家の中の様子がわかった。
「埃だらけ!」バーバラは途方に暮れた。しかし、安易にこの場所から離れられない。
仕方ないので、しばらくここで潜伏する事にした。
まずは家の中を確認する。
扉は4つ、外からの扉と2つの部屋に続く2つの扉、もうひとつは洗面所への扉で奥には浴室がある。
2つの部屋にはそれぞれベッドがあり、カバーがかかっていたので、カバーを外せばすぐにでも使えることはわかった。
バーバラは汗と泥で汚れた顔を洗いたかった。
洗面所へ行くが、水がない。
「水はどこから汲んでくるのかしら?」
あたりをキョロキョロする。
台所に水汲み用と思われる桶が置いてあった。
バーバラは桶を持ち外に出た。
家の裏手に回りあたりを見回す。
目の前に、木苺やブルーベリーが実った木があった。
バーバラは空腹を感じ、木苺やブルーベリーを次々と口に運んだ。爽やかな酸味が口いっぱいに広がる。
「あー、甘酸っぱくて美味しい!」
ふと、水の音が聞こえてきた。
「川があるのかしら?」
水音のした方に向かうと、小川が流れていた。少し上流には段差ができて、小さな滝になっていた。よく見ると魚も泳いでいる。
バーバラは小川に手を浸した「あー、気持ちいいわ」
そして、顔を洗い、手で掬った水を飲んだ。
「うーん、美味しい!」しばらく小川のほとりで少し早い川の流れを見ていた。
「お父様や殿下はどうなったのかしら?」
〈バーバラを皇后にしてやろう〉
〈お前が皇后になるのだ〉アルフレッドや父から言われていた…しかし、クーデターは失敗した。国王に反旗を翻したのだ。恐らく命はないだろう。
そう思うバーバラの心は意外と凪いでいた。そして「皇后にはなれなかったわね…」そう呟いていた。
まずは、バーバラ自身のことを考えなければならないだろう…「仕方ないわね…」バーバラは呟いて立ち上がり、崩れそうな家に向かって歩いて行った。
家の中に入り「これはいったいどこから手をつければいいのかしら?」と呟く。
もう陽は傾きかけている。
「明日、考えることにしましょう」とバーバラは独り言を言った後、部屋のひとつに入り、ベッドに潜り込んだ。
バーバラは夢を見た、箒と雑巾を持って雑木林を誰かに追われて走っている。走るバーバラの頭上から『生き返らせて…私を生き返らせて!』と声が聞こえてくる。声の主はわからなかった。
次の日目覚めたバーバラは、川の水で顔を洗い、木苺とブルーベリーで朝食を済ませ、家に戻りとりあえず掃除をすることにした。
バーバラが使う部屋と台所脇のテーブルの回りを部屋の隅にある棚から見つけた箒で掃除した。「まぁ、こんなものでいいかな…」と納得する。
それより自分の着ているものの汚れが気になった。
「何か使える物はないかしら?」バーバラは家中の棚という棚、引き出しという引き出しを物色した。
引き出しからは女性物の木綿の衣類が見つかった。
「ないよりはマシね…」バーバラはそれを拝借することにした。
洗面所の引き出しからはタオルが見つかった。
「これは助かるわね」これも拝借した。
そして、汲んできた水と木の実で夕飯にしてその日を終えた。
バーバラはまた夢を見た。
箒と雑巾を持ち、月明かりに照らされた草地に立っている。目の前には蔦の絡まる家。
『ちゃんと生き返らせて!頑張って!』
夢の中の声は、昨日の夢の中の声より大きく、バーバラの記憶に残った。
朝日が雨戸の隙間から差し込んできている。バーバラは目を覚まして、不思議な夢を思い出していた。
「なんだったの?何を頑張るの?」
その日以後もバーバラの生活はあまり変化がなかった。
朝起きて、木の実と水で朝食を済ませ、川の水で顔を洗う。雑木林の中を散策して食べられそうな植物を採取して家に戻り、寝る。そして夢を見る
『ねぇ、もうちょっと綺麗にしてよ…そろそろ洗濯でもしたら?』誰かが夢の中で話しかけてきた。
「なんなのよ!いったい誰よ!洗濯?」
確かに木綿の衣類やタオルは使いっぱなしで洗わないので、在庫が尽きかけていた。
「確かにそろそろ着替えがなくなるわね…」バーバラは仕方なく、川へ洗濯に向かった。桶に水を汲み、タオルをザバザバ洗う。次に衣類もザバザバ洗う。バーバラには重労働だった。水を吸ったタオルと衣類は重く、洗った物を絞るのも一苦労だった。なんとか持ち帰っても干すところがない。
「あーもー!面倒くさい!」水が滴る洗濯物をダイニングの椅子にかけて、バーバラは自室にしているベッドに潜り込んだ。ダイニングの椅子の周りは水浸しになっていた。
ベッドに潜り込んだバーバラは気がついたら眠っていた。そしてまた夢を見た。
『もう、いいわ…あなたは要らない』と誰かがバーバラに話しかけた。
…………………………
失敗に終わったクーデターの日からまもなくひと月になる。
後処理に追われていた国王と王太子だが、少しずつ落ち着き始めていた。
首謀者のアルフレッド王弟は幽閉に、加担した貴族達は全員爵位剥奪の上、家は取り潰された。
クーデターは未遂で死者が出なかったので、表立って断罪は行われなかったが、謀反者には毒杯が待っている。そして薬を盛ったシエラは修道院送りになった。
問題はバーバラが逃亡して見つからない事だった。
…………………
東宮の夫婦の寝室でレオンとシャルロッテは休んでいた。
眠っているシャルロッテに聞いたことのある声が話しかけてきた。
『シャルロッテ、シャルロッテ!ねぇ、あの子は駄目ね…引き取ってくれる?門の前に置いておくから…よろしくね』
「うん?」その声にシャルロッテは目を覚ました。
「どうしたの?」レオンも目を覚ます。
起き上がり、回りを見回して…「あの家じゃない…のよね?」と呟いた。
レオンも起き上がり不思議そうな顔をしてシャルロッテを見ている。
「レオ、夢を見たの…夢の中の声が〈門の前にあの子を置いておく〉って…」
「え?」
「とりあえず、門の前を確認してくれるかしら?」
レオンは、使用人を呼んで、王宮の正門前を確認させた。
しばらくして衛兵がやってきて、
「殿下、ご指示通り正門前を確認したところ、行方不明だった、バーバラ•ペニシュア嬢が保護されました」
レオンが1番驚いた。
バーバラは薄汚れた木綿のドレスを着て、虚な瞳で呆然として城門前に座り込んでいたらしい。
門番も、突然現れたバーバラに驚きを隠せなかったようだ。
知らせにきた衛兵にバーバラを牢に収監することを指示し、シャルロッテに向き直った。
「シャル、どういうことか教えてくれる?」レオンの真摯な茶色い瞳を見て
「今から話すこと…信じてくれる?」とシャルロッテは前置きした。
「もちろんだとも…」
シャルロッテは、過去に一度〈クーデター〉を経験していることを告げた。
そして、東宮のあまり使われていないリネン室の秘密の通路からレオンに逃がしてもらったこと。
雑木林の中を逃げていて、蔦に覆われた家を見つけたこと。
そこでの生活のこと。
レオンと共に生きたかったと泣いたら〈レオンに返してあげる〉と夢の中で言われて、気がついたら結婚式の日に戻っていたことを話した。
シャルロッテはレオンに話しながら泣いていた。
驚きつつ聞いていたレオンはシャルロッテを優しく抱きしめ「シャルは俺と生きたいと泣いてくれたんだ…嬉しい」と抱きしめる腕の力を少し強めて何度も「嬉しい」「嬉しい」とシャルロッテの耳元で呟いた。
…………………………
数日後、夫婦の寝室のソファでレオンとシャルロッテは寄り添い座っていた。
「今日、バーバラの取り調べに立ち会ったよ。彼女もシャルがいた〈家〉にいたようだ。〈蔦が絡まる、崩れそうな家で、家の回りは柵で囲まれているそうだ、柵は壊れていたらしいが蔦のロープで修繕してあったらしい。家の裏手に木苺とブルーベリーが実っていて、その先に小川が流れて小さな滝もあるそうだ、魚も泳いでいるらしい」
「ふふ、そうだったんですね…あの声はあの家の声だったのかもしれませんね…お礼を言わなきゃ…私をレオの元に送ってくれてありがとう…って」
「行ってみる?」
「行けるんですか?」
「秘密の通路から行ったんだろう?」
「ああ、確かに…」
次の日、朝日が昇る前、レオンとシャルロッテは秘密の通路の出口にいた。
雑木林に入って、奥に進んだ。進んでも進んでも、雑木林が続き、開けた場所に出ない。
シャルロッテは空を見上げて、太陽の位置を確認する。「恐らく間違っていないと思うのですが…」不安そうに回りをみるシャルロッテに
「もう少し先は、民家のある農村地帯に出るなぁ」とレオンもあたりを見回しながら言う。
「今日は諦めよう…また少し方角を変えて探してみよう」
「ええ、そうですね…」
そう言ってふたりは元来た道を帰ろうとした。
その時シャルロッテの耳に『もう、会わないことを祈ってるわよ!幸せにね!』雑木林の奥から声が聞こえてきた。
振り返るシャルロッテ、それに気づいたレオンも振り返る。
「ありがとう」シャルロッテは雑木林の奥に話しかけた。
『どういたしまして!』今度はレオンにも聞こえたようだ。
「シャル!聞こえたか?」
「ええ!聞こえたわ!」
ふたりはもう一度雑木林に礼を言って、帰っていった。
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誰も分け入ることができないような鬱蒼とした雑木林の中に蔦に覆われた今にも崩れそうな誰も住んでいない家がある。
今日も、どこからか逃げてきた人がその家の前にたどり着いた。そして絡んだ蔦を剥がし扉のノブを掴む。
「カチッ」と音がして扉はゆっくり開かれた。




