敬虔なる黒獅子の王~彼が悪魔の助言を聞き入れいかにして国を滅ぼしたか~
「死を! 死を!!」
「悪魔の皮をかぶった統治者め!!」
地上では怒りに燃えた群衆が松明を掲げ城壁につめかけていた。
怨嗟の声は大地を震わせ、地下へと下る石壁をも震わせる。
「悪魔を殺せ!! 悪魔を殺せ!!」
それは彼が愛した民たち。命に変えても守り抜こうとした者たち。
今や彼らは、怒りに震え彼の処刑を求めて叫んでいる。
群衆が叫び、大地が揺れる。パラパラと音をたて、小さな石の破片が落ちて来る。
もはや一刻の猶予もない。民衆の怒りは、頂点に達していた。
オズワルド・フォン・ベルシュタイン。
齢四十にしてますます鍛え抜かれた肉体は岩のように硬く、鋭い眼光は一睨みで敵を跪かせる。
この国の主であり、かつては『黒獅子』と称えられた男は、今や石を投げつけられる罪人へとなり果てていた。
焦燥、悔恨、……そして、絶望。
オズワルドは最後の一段を下り終えると、光の届かぬ闇へと向かい合う。
松明を反射しわずかに見える鉄格子から、白く艶めかしく、だが骨ばった男の手が伸びてきた。
「やぁ、憐れな子羊。随分と傷心のようだ。可哀そうにね」
暗闇から浮かびあがるのは、神に愛された彫刻家が魂を捧げて彫ったような麗しい面相。
整いすぎた面立ちは、性別の概念すら打ち消している。
だがオズワルドが感じるのは異質なものへの怖気と、吐き気にも近い嫌悪感だ。
「貴様に、聞きたいことがある。……分かっていたのか。こうなる事をッ」
オズワルドの声が地下牢に響く。
「答えろ、リグリス!! すべて貴様の企みかッ!
何故だ、何故、どうして、私は全てを賭けた。すべて民のために費やした!
彼らのため、死すら畏れずに突き進んだ! だが、……なぜだ、なぜ、彼らは――ッ!!」
悲痛の声に、リグリスは今まででもっとも慈悲深い微笑みを浮かべて見せる。
その琥珀色の瞳はどこまでも穏やかに、憐れな男を見つめていた。
港町シザヤに奇妙な船が流れ着いたと、最初の一報はそれであった。
船は隣国の商船でそれまでも幾度もシザヤとの間を行き来していた。だがその日の商船は風に流され、シザヤの港から少しはなれた小さな漁村へと漂着した。
漁村の住民曰く、その時点で商船は一人の乗組員もいなかったそうだ。
シザヤの商人たちは不気味に思いながらも、船倉を開いた。そこには、何百何千というおぞましい数のネズミが巣食っていたという。
確かに不気味な話ではあったが、それだけだった。
海は広い。それまでも商船の事故は数えればきりがないほどだ。
誰もさして気にも止めなかった。
だが一か月もしないうちに奇妙なことが起こり始めた。
シザヤの街で、次々と死人が出始めたのだ。
そしてそれは、枯れ野に落とされた火種のように、あっという間に国中へと燃え広がった。
気付いた時には、街のあちこちに、いたるところに”死”が当たり前の顔をして蔓延っていた。
「港町シザヤが壊滅いたしました」
謁見の間にて諸侯の報告を受け、オズワルドはしばし言葉を失った。
「何があった」
「分かりません、斥候の話によれば町はいたるところに死体が溢れ、足の踏み場もない状態であったと」
「襲撃ではないのか?」
「はい。遺体は皮膚が爛れ、悍ましい有様であったと聞いております。しかし、襲撃の痕跡は見当たらなかったそうです」
そこで恐る恐る手をあげたのは老年の僧侶であった。
「申し上げます。こたびの悲劇は『黒這病』と呼ばれる錬金術師たちによる呪いでございます」
「呪い? これが呪いだと申すか」
「左様でございます。我が国と隣接するチェカテリア、ならびにルビディア、そして海向こうのセガティ、すべての国においてこの悍ましい呪いが進行しているのでございます」
「何を根拠に呪いとする」
「はい、チェカテリアでは錬金術師どもが黄金で作った仮面を被り村々を渡り歩いていたと聞き及んでおります。その後、その村では呪詛が蔓延し、すべての村人が死に絶えた、と。
セガティでは錬金術師どもを焚殺することにより、呪詛の拡大を抑えていると聞き及んでおります」
謁見の間に集まった諸侯、騎士、そして貴族たちは恐怖に息を飲んだ。
「オズワルド様、その話が信実であるならば、我が国も一刻も早く錬金術師たちを処刑すべきです。いえ、処刑と行かぬまでも、国外へ追放すべきではないでしょうか」
そうだ、そうだ、とあちこちから賛同の声があがる。
錬金術師を殺せ、と息をまく諸侯に、オズワルドは深いため息を吐き出した。
「話にならん」
諸侯たちが去った謁見の間でオズワルドは頭を抱えていた。
「教会の連中はかねてより錬金術師を目の仇にしていた。貴族どもも同じだ。昨今、錬金術師たちが利益を得るようになってからは事あるごとに奴らを追い出せと言ってくる。
そもそも錬金術師に国を滅ぼす呪詛を使う術があるならば、とっくに事を成しているであろうよ」
「左様で御座いますね、オズワルド様」
「そもそも、我らが慈悲深き神がそのような犠牲を望んでいるなどあり得まい」
オズワルドの傍らに侍るのは異国の血を引く褐色の肌の妃ロベルティナだった。
彼女もまたその肌の色から古いしきたりにとらわれた諸侯に冷ややかな目で見られている。
だがオズワルドは彼女の目の中にある理性の光を、その琥珀色の瞳を愛していた。
「彼らは恐れているのでしょう。このまま被害が拡大すれば、民は暴動をおこします。その時に”あやつらの仕業”だと指させる相手が必要なので御座いましょう」
「自分たちが生き残るためにスケープゴートをたてるというのか。愚かな。真の原因を見つけ出さねば民は死に続ける。民なしで国は成り立たんと言うのに」
「皆、オズワルド様ほど清廉ではないのです。彼らにとって大事なのは明日の自分の命、あるいは懐の財産。でも貴方様は民の未来を案じておられる」
「その通りだ。だが、……どうすればいい」
低く呻くオズワルドの声にロベルティナはしばしの沈黙を置いたあとに口を開いた。
「噂に聞いたことがございます。この城の地下には、人知を越えた智慧が封じられている、と」
その言葉にオズワルドの顔に深い皺が刻まれる。
「あれは、……智慧などではない。もっと恐ろしく、忌むべきものだ」
「ですが、今は国を飲み込まんとするほどに恐ろしい呪詛が蔓延っております。それは明日にでも城下に来るやもしれません」
「手段を選んでいる猶予はない、と」
「いいえ、オズワルド様。そうではありません。貴方様であれば、封じられた智慧を手段として使いこなすことが出来ると、そう信じているのでございます」
「随分と買いかぶられたものだ。だが、そうだな。知識とは使うもの次第だ」
頷くオズワルドに、ロベルティナの琥珀色の目が密やかに昏く煌めいた。
城の地下へと続く扉の場所は王族のみにしか知らされていない。
百年近く閉ざされていた重厚な鉄の扉は大地を軋ませるような音をたてて開くと、長く停滞していたかび臭い空気がどっと溢れ出してきた。
石作りの暗い回廊、その壁に松明が青く魔導の光を宿していく。
オズワルドは一人の配下すら伴わず階下へと降りて行った。一段下がるごとに温度が下がっていくのを感じ取る。
半分を降りた頃合いには吐く息が薄く濁るほど空気は冴え冴えと凍えていた。
――果たしてこのような場所に、本当に智慧を持つ者がいるのだろうか。
オズワルドが聞き及んだそれは”悪魔”あるいは”魔王”の名で語られていた。
悍ましきもの。人に仇なすもの。決して解き放ってはならぬ、と。
だが、その智慧は人の及ばぬ真理をも知り尽くし、天の理すら知るという。
全ての石段を降り切ると、その先に朧げに浮かびあがるのは鉄格子だった。
ただの鉄格子ではない。その上に封印の鎖を何重にも重ね、床には魔法陣が描かれている。
そこにあるのは漆黒だった。
「……暗闇に問う。誰ぞ、私の声に応えるものはあるか?」
オズワルドの声は湖畔を揺らすさざ波のように暗い石壁を震わせた。
やがて微かな気配がする。
そして、ぬばたまの奥からするりっと白い手が現われた。
そこに現われたのは、あまりにも美しすぎる造形をもった男。いや、性別を問うのは無意味だろう。
なぜならそれは、悪意が形を持っているに過ぎないからだ。
「やぁ、憐れな子羊。百年ぶりだ。少々退屈してしまったよ」
「貴様が、かつて王家をたぶらかしたというリグリスか」
「ああ、確かに、それは俺を象る名の一つでもある。さて君はそんな極悪人にどうして会いにきたのかな?」
「……黒這病を知っているか。あれが我が国を貪っている。諸侯どもはそれを錬金術師の呪いだと言っている」
オズワルドの声に、人を象った悪意は哄笑を転がした。
「百年が経っても人はこうも変わらないか。あれは病だ。書いて字のごとく、呪いではなくネズミを媒介し人を犯す病魔だよ」
「ならばネズミを殺せばおさまるのか?」
「ネズミはただの仲介人だが一定の効果はあるだろう。だが、それだけでは手ぬるい。病魔が蔓延った場所は村ごと封鎖し何人たりとも外に出すな。死体はすべて焼き払え」
「死体を焼けと? それはあまりにも苛烈すぎる」
「まずは試してみるといい。俺が言った方法で効果が得られないというならば、慰みとして錬金術師どもを焼けばいい」
重い沈黙が地下牢に落ちる。
「分かった、ならば試してみよう。だが、悪魔よ。それが正しき道ならば、なぜ私に差し出した」
「百年ぶりの客人をもてなすのは当然さ。それに俺はお前たちが思う存在とはありかたが違うのさ」
「どういう意味だ?」
オズワルドの剣呑な声に、リグリスは艶やかに笑う。
「我らは、人の祈りの中にこそ存在する。故に我らは、人を愛してやまないのさ」
言葉の意味を、黒獅子の国主は計りかねた。
『黒這病』が出た村を封鎖し、いっさいの出入りを禁止せよ。
死者はその死因に関わらずすべて燃やせ。
オズワルドの出した命令により『黒這病』の勢力を削ぐことに成功した。
病は王都に迫る一歩手前で食い止められ、最悪の事態は免れたのだ。
「だというのに、何故だ……」
オズワルドの元にあげられる報告は怨嗟に満ちたものばかりだった。
村ごと封鎖されれば、中の人々はそのほとんどが死に絶える。
その上、遺体を燃やすことは国教により異端とされる行為であり、死者に鞭打つ悪逆だと誹られた。
「ご報告いたします。辺境伯テオドア卿の領地にて、錬金術師たち100余名の焚殺が行われたそうです」
「なんだと!」
使者がもたらした情報にオズワルドは王座から立ち上がる。
「なぜ、そのような非道な真似を! 錬金術師は関係ないと説明した筈だ!」
「しかし、……テオドア卿の領内では、これにより暴動が沈静化したとのことです」
「馬鹿な。死体を焼くことは異端と誹られ、生者を焼くことは称えられるというのか?」
「それは、炎は卑しきものを浄化するためのものだからでございます。無辜の民は穢れなきもの、しかし錬金術師どもは穢らわしきもの。故に、それを焼くのは正当であると、巷ではそう言われております」
「なんという妄言だ……」
吐き捨てるオズワルドに使者は恐る恐る口を開く。
「これを受けて国内の錬金術師たちが王都に集まってきております」
「分かった。彼らを保護できるよう城の一部を解放する」
「なりません!」
声をあげたのは老齢の僧侶だ。
「城内に錬金術師を匿うなど、あってはならない事です!
そのようなことをなさっては国民は王が自ら悪魔を囲いこんでいると、そう判断いたしますぞ!
下手をすれば、暴動になりかねません!」
その悲痛な叫びは謁見の間の空気を凍り付かせた。
暴動の言葉に諸侯たちに動揺が走る。
オズワルドもまた、心臓を冷たい手で握られたかのようだった。
心がわずかに揺れる。だがその時、傍らにいたロベルティナがオズワルドの背を優しく撫でた。
それは柔らかな激励。厚い布地ごしに感じるロベルティナの手が、オズワルドの挫けそうな心を包み込む。
「王が悪魔を、か」
オズワルドは不敵に笑う。
「この私が悪と罵られようとも構うものか。いずれ何が正しかったか、皆も分かるときがくる。
……それまでは喜んで汚名を受け入れよう。それが私の王としての覚悟だ」
オズワルドは再び地下牢を訪れていた。
「リグリス、そこにいるのだろう」
ぬばたまへと声を投げれば、ぬらりっと白い手が伸びてくる。
ついで現われた顔は相変わらず欠点の一つすら見当たらない。だがオズワルドはふとその琥珀色の瞳に既視感を覚えた。
この国で、黄金の目を持つものは珍しい。
オズワルドが知る限り、それを持っているのはロベルティナと目の前の悪魔だけだ。
だが今のオズワルドにとってそれは唯一の”知性”の光にも見えた。
「どうしたんだい? 憐れな仔羊、前よりも疲れた顔をしている。俺のアドバイスは効果がなかったのかな?」
「……効果は、あった。だが民衆は錬金術師どもを焼くことばかりに執心だ」
「病を拡げない、などという地味な功績は誰の目にも留まらない。だが『敵』を焼く炎は、誰の目にも鮮やかだ。……娯楽だよ、オズワルド。死が日常になった場所では、他者の悲鳴こそが甘露となる」
「それでは、流れる血が増えるだけだ」
「だが、そのやり方も一理ある。人間の心とは複雑な形をしているからね。残虐な行為で不幸を慰め、嵐が過ぎるのを耐えるのも必要な犠牲とも言えるだろうさ」
「お前が人の残虐を語るのか?」
「酷い誤解だ。いつだって事を成すのは人であるのさ。言っただろう、我らは、人の祈りの中にこそ存在する、と」
オズワルドは以前は聞き流したその言葉にざらついた違和感を覚える。
「それは、どういう意味だ?」
リグリスは肩を揺らして浅く笑う。
「人が天に祈るとき、そこにこそ我らの居場所がある」
「全て満ち足りているならば、悪魔の居場所も存在しないという訳か」
「だが君はそんな話をしに来た訳ではないだろう? 俺に何を聞きたいんだ?」
「……逃げのびてきた錬金術師たちを匿いたい。だがそれをすれば暴動が起きると示唆された」
「そうだろうね。病の根源は目にみえない。民衆が欲しているのは目に見える犠牲だ。保護すると言って錬金術師たちをひとところに集め、彼らを一斉に焼き払って見せたならば民衆は君を名君と称えるだろう。
それもまた”国の主”としては正しいやり方だ。暴動は人の流れを作る。人が集まり流れれば病が広がる。ならば僅かな犠牲でそれを収める事を厭わないのも君主としての責務でもある」
その言葉はオズワルドの心の脆い箇所を擽った。それはオズワルドの中にも存在した答えでもあったのだ。
「――殺してしまえ」
悪魔は優しく囁いた。
「それが最善の方法だ。錬金術師たちを殺し、民衆の怒りを抑えこむ。その上で、錬金術師たちが溜め込んでいた資金を回収し、国家の維持費に変えればいい。それで全てがうまくおさまる」
「ふざけるな!」
黒獅子は吠えた。
「貴様に相談したのが間違いだった。そのような非道な世迷言で私を惑わせられるとは思うなよ!」
オズワルドはマントを翻し、暗黒の牢を後にする。
彼は悪意を振り払ったつもりだった。だが何故か心は深く沈み、酷い鈍痛を呼び起こす。
胸に湧き上がるのは焦燥感だ。悪魔の口車に乗るものか。
それこそが自身を縛り付ける鎖となった事を、黒獅子は気付いていなかった。
かくして、民衆の怒りは燃え上がった。
ついに王都にも『黒這病』が蔓延しはじめたことをきっかけに、錬金術師たちを匿っているオズワルドに怒りの矛先が向いたのだ。
皮肉にも『黒這病』を持ち込んだのは、難を逃れてきた錬金術師たちだった。
彼らは保護を名目に城門を通ることが許されたため、他の民たちより優先的に城下町へと入り込んだ。
もちろん、病の侵入経路は他にも複数あっただろう。
だが城内のひとところに集められた錬金術師たちが次々と病を発症していったのは、致命的な失敗となった。
『錬金術師たちが呪詛をもちこんだ』
それを民衆に知らしめることとなったのだ。
「死を! 死を!!」
「悪魔の皮をかぶった統治者め!!」
「悪魔を殺せ!! 悪魔を殺せ!!」
暴徒と化した民衆は城の周囲を埋め尽くし、松明を掲げて叫んでいる。
オズワルドはその声に押されるようにして、闇の地下牢へと逃げ込んでいた。
「貴様に、聞きたいことがある。……分かっていたのか。こうなる事をッ」
オズワルドの声が地下牢に響く。
「答えろ、リグリス!! すべて貴様の企みかッ!
何故だ、何故、どうして、私は全てを賭けた。すべて民のために費やした!
彼らのため、死すら畏れずに突き進んだ! だが、……なぜだ、なぜ、彼らは――ッ!!」
その言葉に悪魔は慈悲深く微笑んだ。
「君は何一つ間違ってはいない。君は真に清廉潔白な国主だった。だが民は、君が思う以上に邪悪だった」
「違う、彼らは、……無知なだけだ。何も分からず、ただ怯えているだけなのだ」
「無知ならば人に石を投げても許されると? それは違う。彼らは思考することを放棄し、より低い方へと流されるままになっている。それは人のあるべき姿には程遠い。そうだろう?」
「私は、……」
言葉に詰まったオズワルドの身体に、ふと背後から細く艶めかしい腕が絡まった。
鼻孔を擽る甘いジャスミンの香り。それはロベルティナのものだった。
オズワルドは呆然と振り返る。そこには確かに、愛しき琥珀の目があった。
ロベルティナは慈愛を籠めてオズワルドを抱きしめる。
「お可哀そうに、オズワルド様。あなたは何一つ間違っていなかった」
「ロベルティナ、……お前、は……」
「何一つ間違ってなどいなかったのです。あなたの、治世も、慈愛も、献身も。ただの一つも間違ってなどいなかった」
「だが、……」
言葉を引き継いだのはリグリスだった。
「――神は君を見放した」
その言葉は巨大な鉄槌のようにオズワルドを打ち据えた。
「違うッ!!!!」
叫ぶ声はまるで悲鳴のようだった。
震えるオズワルドをロベルティナは優しく抱きしめる。
「ならば祈りましょう。貴方は正しきを成した。ただ一心に民のことだけを考えた。どうか、どうか、愛しき我らに救済を……」
オズワルドは膝を折り、いつの間にか固く手を握って祈っていた。
絶望の縁にこそ、無垢なる祈りだけが救いとなる。
オズワルドは神に誓う。僅かにも二心はなかったと。すべて民のために成したのだと。
「…………ほら、ご覧、ここに神などいなかった」
リグリスの声が無慈悲に響く。
オズワルドは瞼を開く。
そこにあるのは、――闇よりも深い暗闇だった。
「ああ、そんな、何故だ、……なぜ、神は私を見捨てたのだ、……」
祈る先には僅かばかりの光もない。
群衆の行進は地下牢を震わせ、今にも崩れ落ちそうに軋む音が響いている。
やがて彼らはここにたどり着き、オズワルドを引き立て、石を投げ、その身を焼くだろう。
「ここに、……神など、いなかった……」
絞り出すようなその言葉にオズワルドの影が深くなる。
力なく崩れ落ちるその身体をロベルティナはどこまでも慈悲深く包み込んだ。
オズワルドの影はより深く、昏く、彼自身とロベルティナをも飲み込み、一つの闇へと沈んでいく。
……やがて、その闇から、白く艶めかしい腕が浮かびあがった。
リグリスは深淵から這い出すと、恍惚の息を吐きだした。
「言っただろう? 私を封じることは不可能だ。なぜならば、私は人の祈りの中にある。
人が天に祈るとき、そこにこそ私の居場所がある。そしてその祈りが潰えた時、私はただの影にあらず。
人の子らは言うだろう。”絶望”だと。……ああ、そうだとも。絶望とは希望に縋った時にこそ現われる」
形を成した絶望は、地上へ向かって歩き出す。
一歩、一歩、冷え切った石段を登っていく。
それはまるで地に眠っていた虫たちが一斉に目覚める啓蟄だ。
絶望は芽吹き、花となって地上を覆い尽くすことだろう。数多の死体を苗床に、その花は何よりも美しく咲くだろう。
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聖エピタフ大聖堂・附属図書館所蔵『旧王都瓦解異聞録』より抜粋
当該王国がわずか数節の間に歴史の表舞台から消失した経緯について、現今に至るも正鵠を射る定説は存在しない。
散発的に遺された周辺諸国の公文書によれば、ある日を境に王都全域が「集団的狂気」に侵されたとされている。
記録は凄惨を極める。
人々は隣人を、恋人を、己が腹を痛めた我が子をさえ躊躇なく手にかけ、街は慈悲なき流血に染まった。
辛うじて狂奔を免れた者たちは家を堅牢に閉ざしたが、彼らもまた『黒這病』によって、沈黙のうちに死に絶えたものと推察される。
何が彼らを狂わせ、何が彼らを根絶やしにしたのか。
真実を知る者は一人としておらず、風化した屍の山が今もなお恐怖の有り様を伝えている。
ただ、後世の調査団が廃墟と化した城壁にて、奇妙な痕跡を確認している。
それは無数の、しかしあまりにも深く鋭い「爪」のようなもので刻まれた、絶叫に近い文字の群れである。
――我々は、悪魔とまみえたのだ。




