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女が絵を描くなんて生意気だ!と言われ婚約破棄された伯爵令嬢アルマダは、隣国で人気画家になり、婚約者にざまあする!

作者: 山田 バルス
掲載日:2026/03/13

  

 ポルトナ王国。

 春の訪れを祝う王城の舞踏会。


 それは、春の夜会の最中だった。


 金色の燭台がきらめき、弦楽器の音色が広間を満たしている。


 伯爵令嬢アルマダ=リスボンは、淡い蒼のドレスをまとい、静かに立っていた。

 波打つ銀髪を後ろで結い、澄んだ瞳は凛と前を見据えている。


「アルマダ」


 名を呼んだのは、婚約者である侯爵家令息フンシャル=ボルドだった。


 彼は周囲の視線を集めるように一歩前へ出る。

 だが――その腕には、ひとりの女性が絡みついていた。


 淡い桃色のドレスをまとい、栗色の巻き髪を揺らす可憐な令嬢。

 大きな瞳でフンシャルを見上げ、甘えるように身体を預けている。


「……クリスティーナ?」


 ざわめきが広がる。


 クリスティーナ=モンテーロ。

 最近、社交界で噂になっている子爵令嬢だ。


 彼女はくすりと笑い、フンシャルの胸に頬を寄せた。


「フンシャル様ぁ……早くお話を」


「ああ、そうだな」


 フンシャルは満足げに頷き、アルマダへ冷たい視線を向けた。


「私はここに、君との婚約を破棄することを宣言する」


 広間がどよめく。


 アルマダは、静かに瞬きをした。


「……理由を、お聞きしても?」


「理由? 簡単だ」


 彼はクリスティーナの肩を抱き寄せる。


「君は絵を描いているだろう」


 再びざわめきが起きる。


「我が国では、絵画は男の仕事だ。女が筆を持つなど、はしたない。

 しかも街の工房に出入りしているとか。侯爵家の名に泥を塗る行為だ」


 アルマダは唇を結ぶ。


 フンシャルは続けた。


「その点、クリスティーナは違う」


 クリスティーナは、わざとらしく首をかしげる。


「私は、難しいことはわかりませんわ。でも、フンシャル様をお支えしたいだけ……」


「そうだ。彼女は仕事などしない。男を立て、男を喜ばせる。それこそが女のあるべき姿だ」


 冷たい視線が、アルマダを貫く。


「お前のように一日中、絵を描いたりなどしないでな」


 広間の一部から、失笑が漏れた。


「……絵を描くことが、そんなにも罪なのですか?」


「当然だ。女に芸術の何がわかる? 女は家にいて、男のためだけに生きればいい」


 その言葉は、刃のように胸を裂いた。


 けれど――アルマダは泣かない。


「承知いたしました」


 まっすぐに顔を上げる。


「婚約破棄、お受けいたします」


 予想外の反応だったのだろう。ざわめきが別の色を帯びる。


 アルマダは一礼し、背を向けた。


 ――わたしは、絵をやめません。


 心の奥で、静かに誓いながら。


    ◆


 三か月後。


 王宮では大きな問題が持ち上がっていた。


 国王陛下の肖像画が完成しないのだ。


「似てないぞ。こんな絵は、わしではない」


 苛立ちを隠さぬ声に、宮廷画家たちは震える。


 焦る廷臣たちの前に、街で評判の画家が呼ばれた。


 深い紺のローブにヴェール。


 その正体は――アルマダだった。


「陛下のお姿を、拝見してもよろしいでしょうか」


 静かな声。


 数時間後、筆は止まる。


「完成いたしました」


 布が外される。


 そこには、威厳と孤独、民を想う優しさを宿した王の姿。


 一瞬、場が静まり返った。


「……これは素晴らしい。これこそ、わしに相応しい絵だ」


 国王は立ち上がる。


 しかし次の瞬間、老大臣が震える声で告げた。


「陛下……その画家は……女性にございます」


 空気が凍る。


 国王の表情が一変した。


「女だと?」


 低い怒声が響く。


「女に何がわかる。王の重責がわかるか。政治がわかるか。

 女は家に閉じこもっていればよいのだ!」


 廷臣たちが頭を垂れる。


 アルマダはヴェールを外した。


「……恐れながら、陛下。わたしは、ただ見えたものを描いただけでございます」


「黙れ!」


 王の拳が玉座の肘掛けを打つ。


「余は、女に描かれた絵など望んでおらぬ! この肖像は破棄せよ!」


 心臓が、強く脈打つ。


 それでも彼女は、深く一礼した。


「……失礼いたしました」


 ◇


 帰宅したその夜。


 リスボン伯爵家の応接室には、重苦しい沈黙が満ちていた。


「王宮で騒ぎを起こしたそうだな」


 父の声は冷たい。


「申し訳ございません」


「女がしゃしゃり出るからだ!」


 机を叩く音。


「我が家の名に泥を塗った。婚約も破棄され、王にも逆らうとは」


 アルマダは震える手を握りしめる。


「わたしは、ただ絵を――」


「女に絵など不要だ!」


 父は吐き捨てた。


「女は家の中で、夫に尽くしていればいいのだ。

 男のためだけに生きる。それが女の務めだ」


 その言葉は、夜会で聞いたものと同じだった。


「……ならば」


 アルマダは顔を上げる。


「わたしは、その務めを果たせぬ娘ということになります」


 父は冷酷に告げた。


「その通りだ。出て行け」


 時間が止まる。


「リスボン家の名を名乗ることも許さぬ。今この時をもって、お前を追放する」


 胸が、ひどく静かだった。


 涙は出ない。


「承知いたしました」


 荷物は少しだけ。


 筆と、絵具と、数枚のキャンバス。


 夜の街に出た瞬間、冷たい風が頬を打った。


 家も、婚約も、地位も失った。


 けれど――。


 アルマダは空を見上げる。


 星が瞬いている。


 ――それでも、わたしは描く。


 誰に禁じられても。


 女だからと嘲られても。


 絵は、わたしの生きる意味だから。


 絵に性別は関係ない。絵は心で描くもの。


 追放された伯爵令嬢アルマダ。


 彼女の物語は、ここから始まる。


 全てを失ったその手で、やがて世界を描き変えるとは、

 この時は誰も予想できなかった。


 ◇


――追放された夜。


 石畳は冷たく、春とはいえ夜気は骨身に染みた。


 アルマダは小さな鞄を抱え、街外れの橋の上で足を止める。


 背後には、もう戻れないリスボン伯爵家の屋敷。

 前には、灯りのまばらな街並み。


 家も、地位も、家名も失った。


 だが、不思議と絶望はなかった。


 胸の奥で、何かが静かに燃えている。


 ――あのときも、春だった。


   ◇


 それは、彼女が五歳の頃。


 庭園でひとり遊んでいた幼いアルマダは、噴水の水面を覗き込んでいた。


 揺れる水に映る自分の顔。


 その奥に、突然、見知らぬ景色が重なった。


 高い建物。

 石ではない黒い道。

 赤や青に光る奇妙な灯り。


 そして――轟音。


 ――危ない!


 小さな子犬が道路へ飛び出す。


 駆け出す自分。

 抱き上げた瞬間、眩しい光。


 強烈な衝撃。


 身体が宙に浮く感覚。


 そこで、記憶は途切れた。


「いや……っ!」


 幼いアルマダは悲鳴を上げ、噴水の縁から転げ落ちた。


 駆け寄ったのは、母レオノールだった。


「アルマダ!」


 優しく抱き起こされながら、頭の中に洪水のように流れ込む記憶。


 キャンバス。

 油絵具の匂い。

 石膏像。

 デッサン。


 美術大学のアトリエ。


 ――わたし、美大生だった。


 日本という国で、美術を学んでいた二十歳の学生。


 光と影。

 遠近法。

 人体構造。レオナルド=ダヴィンチ。


 それらが、理屈ではなく感覚として蘇る。


「おかあさま……」


 震える声で呟いた。


「どうして、この国の絵は……平らなの?」


 レオノールは驚いたように目を見開いた。


  ◇


 数日後。


 アルマダは木炭を手に、庭の白百合を描いた。


 花弁に落ちる光。

 裏側の影。

 奥にぼやける葉。


 空気の層。


 立体。


 それを無意識に描いていた。


 そこへ現れたのは、父リスボン伯爵だった。


「……これは何だ」


「百合です、おとうさま」


 伯爵は絵を凝視する。


 百合がそこにある。


 この国の絵とは明らかに違う。


「誰に教わった?」


「……わかりません。でも、知っているのです」


 父の表情が険しくなる。


「やめろ」


「え?」


「女が本気で絵など描くな」


 低く、冷たい声だった。


「これは遊びでよい。趣味で少し嗜む程度なら許そう。だが本気になるな」


「どうしてですか?」


 幼い問い。


 伯爵は眉をひそめる。


「男よりも優秀な女は嫌われる。妬まれる。敵を作る」


 静かながら、現実を知る声だった。


「この国はそういう国だ。女は家を守るもの。男の前に出るものではない」


 アルマダは絵を見つめる。


 光と影が、確かにそこにある。


 ――描きたい。


 その衝動は消えなかった。


   ◇


 その夜。


 母レオノールがそっと娘の部屋を訪れた。


「泣いているの?」


 優しい声。


 アルマダは首を振る。


「……おとうさま、怒っていました」


 レオノールはベッドに腰を下ろす。


「お父さまは、あなたを守ろうとしているの」


「守る?」


「ええ。この国は、女性にとても閉鎖的なのよ」


 レオノールは窓の外を見つめる。


「わたくしの祖国、スペイラ帝国では違ったわ」


 隣国の名を口にする声は、どこか懐かしげだった。


「帝国では、女性でも学問を修め、芸術を極める者がいる。宮廷画家に女性もいるわよ」


「ほんとうに?」


「ええ。だからね、アルマダ」


 母は娘の頬に触れる。


「あなたが絵を描くこと、わたくしは賛成よ」


 胸が熱くなる。


「でも、お父さまは……」


「この国では、慎重に進まなければならないの。みんなの前ではお遊び。心の中では本気」


 レオノールは微笑んだ。


「秘密のアトリエを作りましょう」


   ◇


 それからの日々。


 屋敷の使われていない一室。


 そこがアルマダの小さな世界になった。


 母がそっと画材を用意する。


 父は見て見ぬふりをする。


 ただし条件があった。


「決して目立つな。ほかの者には、見せるな」


 伯爵の言葉は厳しかったが、そこには確かな不安があった。


「才能は武器になる。同時に、刃にもなる」


 幼いアルマダには難しい言葉だった。


 だが、理解していた。


 この国では、女が前に出れば叩かれる。


 それでも。


 筆を握ると、世界が広がる。


 前世で学んだ遠近法を応用し、

 陰影を重ね、

 空気を描く。


 母はそっと見守る。


「あなたの才能を恐れないで」


 その言葉は、絵にも人生にも向けられていた。


   ◇


 やがて成長し、婚約が決まった。


 父は言った。


「これで安心だ。お前は侯爵家の夫人となる。絵は、思い出にしまえ」


 そのとき、アルマダは気づいた。


 父は最初から、絵をアルマダの未来に含めていなかったのだと。


 あれは猶予。


 少女時代だけの許し。


   ◇


 橋の上で、アルマダは目を閉じる。


 父の怒声。

 母の優しい手。

 前世のアトリエ。


 すべてが重なり合う。


 父は恐れていた。

 この国の価値観を。


 母は信じていた。

 隣国の自由を。


 そして自分は――知っている。


 日本で学んだ芸術の美しさを、素晴らしさを。


 閉ざされた世界にも、必ず光はある。


 アルマダはゆっくりと歩き出した。


 追放は終わりではない。

 むしろ、始まりである。


 あの春の日、前世を思い出した瞬間から、

 彼女の人生は二度目のものだったのだから。


 アルマダの心は、もう迷わない。


 ◇


 アルマダは、橋を渡りきったその足で、街外れの馬車乗り場へ向かった。


 夜明け前の待合室は薄暗く、石壁の隙間から冷たい風が吹き込んでいる。

 粗末な木椅子に腰を下ろし、アルマダは小さな鞄を抱えた。


 中には、筆と絵具、キャンバス数枚。


 そして――母レオノールから託された封書と、革袋。


 革袋の中身は金貨が入っていた。伯爵家の令嬢が一人旅をするには十分すぎる額。


 封書の宛名には、整った文字でこう書かれている。


 《ソシエナ伯爵閣下へ》


 母の父。


 すなわち、アルマダの祖父。


 レオノールはかつて隣国――スペイラ帝国の名門、ソシエナ伯爵家の令嬢だったのだ。


 しかしポルトナ王国では、貴族女性が国外へ出るには王宮の許可が必要だった。

 結婚後、レオノールは一度も祖国の土を踏めなかった。


 だからこそ、この手紙は長年の想いが込められたものだった。


「……おかあさま」


 胸に当てると、ぬくもりが残っている気がした。


 やがて、東の空が白み始める。


 御者の声が響いた。


「スペイラ帝国行き、まもなく出立する!」


 アルマダは立ち上がった。


 もう振り返らない。


 彼女は馬車へ乗り込んだ。


   ◇


 馬車の中は意外に広く、十人ほどが向かい合わせに座れる造りになっていた。


 商人らしき男、旅装の夫婦、修道女風の女性。


 その中でひときわ目立つのは、黒髪の青年だった。


 二十代後半ほどだろうか。整った顔立ちに、よく通る琥珀色の瞳。軽装ながら質の良い上着を着ている。


 彼はにこやかに会釈した。


「お嬢さんも帝国へ?」


「はい」


「奇遇ですね。私も帝都へ戻るところです」


 軽やかな口調だが、どこか落ち着きがある。


「私はアントニオ。帝都で店を営んでいます」


「……アルマダと申します」


 家名は告げなかった。


 もう、名乗ることは許されていないのだから。


 馬車が軋みを上げ、ゆっくりと動き出す。


 ポルトナ王国の街並みが遠ざかる。


 アルマダは窓の外を見つめた。


「帝国は……どのような国なのですか?」


 思わず尋ねる。


 アントニオは楽しげに笑った。


「活気がありますよ。特に帝都はね。女性も普通に店を持ち、商売をしている」


「女性が……店を?」


「ええ。職人も、学者も、画家もいます」


 アルマダの胸が跳ねた。


「画家も……?」


「もちろん。宮廷画家に女性もおりますよ」


 母の言葉は本当だった。


 アントニオは続ける。


「それに今は、皇女殿下自ら帝都で働いておられる」


「皇女様が……?」


「ええ。エマのパワーストーン商会というお店で」


 アルマダは目を丸くした。


「皇女様が、お店で働いている?」


「はい、帝都の人気店の一つですね。皇族であろうと、自ら働く。

 それが帝国の強さかな」


 胸の奥が、わくわくと震えた。


 女性が前に立ち、堂々と働く世界。


 嘲笑されない世界。


「……素敵ですね」


「一度、帝都へ来たら訪ねてみるといい。面白い店ですよ」


 アルマダは小さく頷いた。


 ――エマ、パワーストーン商会。


 いつか、必ず。


   ◇


 旅は七日間に及んだ。


 峠を越え、川を渡り、宿場町に泊まりながら東へ進む。


 道中、アントニオはさまざまな話を聞かせてくれた。


「最近は大陸も騒がしくてね。フランセ王国が帝国に併合されたりしてね」


「併合……?」


「王国の王女が悪政を敷く父王を、帝国の皇子と手を組んで倒したのさ。現在は、帝国の一部となり、フランセ公爵家になってる。今やスペイラ帝国は大陸最強の国の一つだ」


 馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。


 建物は高く、道は広く、人々の服装も色鮮やかになる。


 女性たちが堂々と商売をし、工房で汗を流している姿も見えた。


 アルマダは目を奪われる。


 誰も、彼女たちを咎めない。


 笑い声が、自由に響いている。


 胸の奥で、何かがほどけていく。


「……ここなら」


 小さく呟く。


「ここなら、わたくしも描ける」


 アントニオは柔らかく微笑んだ。


「描くといい。帝国は、腕のある者を歓迎する国ですから」


   ◇


 七日目の夕刻。


 馬車はついに、ソシエナ伯爵領へと入った。


 豊かな葡萄畑が広がり、石造りの屋敷が丘の上に佇んでいる。


 アルマダは息を呑んだ。


 母が育った場所。


 自分の血の半分が流れる土地。


 門前で馬車を降りると、使用人が目を見開いた。


「……レオノール様に、よく似ておられる」


 震える声だった。


 応接間へ通される。


 やがて、白髪交じりの老紳士と、優雅な老婦人が現れた。


 ソシエナ伯爵と伯爵夫人。


 アルマダは深く一礼する。


「初めまして……アルマダと申します」


 祖父は、しばらく言葉を失っていた。


 やがて、ゆっくりと近づく。


「……レオノールの娘か」


「はい」


 封書を差し出す。


「母より、お預かりしました」


 祖父は震える手で封を切った。


 静かな室内に、紙をめくる音だけが響く。


 読み進めるうちに、祖父の目が潤んでいく。


「……息災であったか」


 掠れた声。


 隣で祖母がハンカチを握りしめる。


「ポルトナ王国では、女性が国外へ出ることが叶わず……

 母は一度も帰省できませんでした」


「知っておる」


 祖父は深く頷く。


「だからこそ、手紙だけが頼りであった」


 視線が、アルマダへ向けられる。


「お前を、よく来させてくれた」


「……追放されたのです」


 正直に告げる。


 しかし祖父は眉をひそめただけだった。


「ならば好都合だ」


「え?」


「我が家は、お前を歓迎する」


 そして、もう一枚の紙を取り出した。


「手紙には、こうも書いてある」


 祖父は微笑む。


「娘アルマダを、帝都の画商へ紹介してほしいとな」


 胸が強く打つ。


 母は、すべてを見越していたのだ。


「帝都には、信頼できる画商がいる。腕さえあれば、性別は問わぬ」


 祖母が優しく手を握る。


「ここはあなたの家よ」


 アルマダの喉が熱くなる。


 追放されたはずの自分に、帰る場所があった。


 窓の外には、帝国の夕日が広がっている。


 黄金色の光が、葡萄畑を染める。


 アルマダはそっと拳を握った。


 ここから始める。


 この国で、描く。


 女性が生き生きと働き、皇女さえ店に立つ帝国で。


 自分の絵で、世界を切り開く。


 銀髪を風に揺らしながら、アルマダは静かに誓った。


 ――次は、帝都だ。


 彼女の筆が、大陸の運命をも描き変える日が来るとも知らずに。


 ◇


 ソシエナ伯爵領での一か月は、アルマダにとって今までに体験したことがない穏やかな時間だった。


 朝は葡萄畑を散策し、昼は祖母と刺繍をし、夜は祖父の書斎で帝国の歴史や情勢を聞く。

 誰も、彼女が筆を握ることを咎めなかった。


「帝都へ行くなら、紹介状を書いておこう」


 出立の三日前、祖父は重厚な机に向かい、羽根ペンを走らせた。


「帝都には、我が息子ヘルナンドがいる。お前の叔父だ。伯爵家の帝都屋敷に滞在するとよい」


「ありがとうございます、お祖父様」


「それと――」


 祖母が微笑む。


「あなたの従姉、メアリーがいるのよ。エマストーン商会で働いているの」


「エマストーン商会……」


 あの馬車で聞いた名が、胸を打つ。


「皇女殿下がいる店だ。帝都でも指折りの人気商会だよ」


 祖父は封筒を差し出した。


「メアリー宛の紹介状だ。困ったら訪ねなさい」


 アルマダは両手で受け取った。


 帝都。エマストーン商会。従姉メアリー。


 未来へ伸びる道が、少しずつ形を持ちはじめていた。


   ◇


 それから辻馬車を乗り継いで二週間。


 石畳はさらに広くなり、城壁は空を切り裂くように高い。


 やがて馬車は、スペイラ帝国の帝都へと入った。


 巨大な門。活気あふれる市場。色鮮やかな看板。


 女性たちが堂々と店を切り盛りし、魔術師らしき者が光る道具を扱っている。


「……すごい」


 思わず呟く。


 ポルトナ王国とはまるで違う。


 馬車はやがて、石造りの壮麗な屋敷の前で止まった。


 ソシエナ伯爵帝都屋敷。


 扉が開く。


 最初に現れたのは、銀髪の壮年の紳士だった。

 鋭い目だが、口元には穏やかな線がある。


「ようこそ、アルマダ。私はあなたの伯父のヘルナンドだ」


 四十五歳。祖父に似た威厳をまとっている。


 その後ろから、赤髪の美しい女性が現れた。


「ヘルナンドの妻のマリーラよ」


 四十二歳とは思えぬ華やかさだ。


 さらに、階段を駆け下りてきたのは若い男女。


「はじめまして! マラガです」


 赤髪の青年。二十歳。快活な笑みを浮かべている。


「イザベラです」


 同じく赤髪の少女。十八歳。

 大きな瞳が好奇心に輝いている。


 そして――アルマダも十八歳。


 視線が合った瞬間、イザベラがぱっと笑った。


「同い年ね!」


 同い年の従妹。その一言で、距離は一気に縮まった。


   ◇


 帝都屋敷での生活は賑やかだった。


 イザベラはおしゃべりで、街の流行や魔術学院の話を次々と教えてくれる。


「帝都はね、今すごいのよ! 魔法技術がどんどん進んでいて……」


 ある午後、二人は庭の東屋に座っていた。


「アルマダは絵を描くのよね?」


「ええ」


「見たい!」


 きらきらした瞳。


 アルマダは少し迷ったが、頷いた。


「では……モデルになってくださる?」


「わたしが?」


 イザベラは嬉しそうに頷く。


   ◇


 数時間後。


 キャンバスの上に、赤髪が揺れる。


 光が頬に落ち、影が首筋をなぞる。


 瞳の奥に宿る、明るさと少しの繊細さ。


 前世で学んだ遠近法と陰影。


 空気を描く感覚。


 筆は迷いなく動いた。


「……できました」


 布を外す。


 そこには――まるで今にも瞬きしそうなイザベラがいた。


 赤髪の艶。唇の柔らかな曲線。


 庭の風まで感じられる。


「……すごい」


 マリーラが息を呑む。


「本当にイザベラだ」


 ヘルナンドも目を細める。


「生きているようだ」


 使用人たちもざわめく。


 イザベラ本人は、頬を赤らめた。


「わたし、こんなに綺麗?」


 その時。


「……写真みたいだな」


 ぽつりと呟いたのは、マラガだった。


「しゃしん?」


 王国では聞き慣れぬ言葉に、アルマダは振り向く。


 マラガは肩をすくめた。


「知らない? 最近、帝国で開発された魔道具さ。

 人物をそのまま映し取るんだ」


「そのまま……?」


「うん。光を封じ込めるとか何とか。ほら、これ」


 彼は机から小さな板状の道具を持ってきた。


 金属と水晶が組み合わされた、不思議な構造。


「写真機っていうんだ」


 水晶面に触れると、淡い光が走る。


 数秒後――。


 そこには、今この場に立つイザベラの姿が、寸分違わず映し出されていた。


「……!」


 息が止まる。


 影も、光も、髪の流れも。


 まるで鏡を切り取ったかのよう。


「すごいだろ? 貴族の間で流行り始めてるんだ。肖像画より安くて早い」


 胸が強く脈打つ。


 ――写真。


 日本で見慣れた技術。


 カメラ。


 それと同じではないか。


 前世の記憶がざわめく。


 これは偶然?


 それとも――。


 もしかして。


 この帝国にも、転生者がいる?


 前世の知識を持つ者が、魔法と結びつけて作ったのでは?


 背筋が冷える。


 自分だけが異質だと思っていた。


 だが違うのかもしれない。


 イザベラが絵と写真機を見比べる。


「でも、違うわ」


「何が?」とマラガ。


「写真はそのままだけど……アルマダの絵は、なんだか温かい」


 マリーラも頷く。


「ええ。光が柔らかいわ」


 ヘルナンドは静かに言った。


「写真は記録だ。だが絵は解釈だ。そこにぬくもりが残る」


 アルマダは、自分の手を見る。


 震えている。


 焦りか、不安か。


 それとも――挑戦心か。


 もし写真機が普及すれば、肖像画の需要は減るだろう。


 写実だけでは勝てない。


 だが。


 前世の芸術は、写実だけではない。

 芸術は写真機を越えていた。


 印象。感情。抽象。


 光そのものを描く。


 夢の中の無意識を描く。


 アルマダはゆっくりと息を吐いた。


「……負けません」


 小さな声。


 イザベラが目を輝かせる。


「何に?」


「時代に」


 写真機があるなら、それを超える。


 転生者がいるなら、会ってみたい。


 敵か味方か、わからない。


 けれど。


 絵は、ただ写すだけのものではない。


 魂を映すもの。


 アルマダは再びキャンバスを見る。


 そこにいるイザベラは、写真よりも少しだけ優しく、少しだけ強い。


 それは、彼女が見たイザベラだからだ。


 帝都の空は高い。


 新しい時代の風が吹いている。


 銀髪を揺らしながら、アルマダは静かに決意した。


 ――写真機があろうと。


 ――転生者がいようと。


 わたしは、わたしの絵を描く。


 その筆先が、やがて帝都を、そして大陸を揺るがすことになるとは、まだ誰も知らなかった。


 ◇


 翌日。


 アルマダは従妹イザベラと連れ立って、帝都でもひときわ賑わう通りへ向かった。


 石畳の両脇には色とりどりの店が並び、魔道具の光がきらめいている。

 女性商人の声、子どもたちの笑い声、香辛料の匂い。活気が渦を巻いていた。


「あそこよ」


 イザベラが指差す。


 赤いレンガの外壁に大きな水晶の看板。優雅な文字で《エマパワーストーン商会》と記されている。


 扉を開けた瞬間、澄んだ鈴の音が鳴った。


「ようこそ、いらっしゃいませ。エマパワーストーン商会に、ですわ」


 柔らかな声。


 振り向いたアルマダは、息を呑んだ。


 そこに立っていたのは、流れるような銀髪を持つ美しい女性。

 上品なドレスを身にまとい、凛とした微笑みを浮かべている。


 イザベラが小声で囁く。


「……皇女ペネロペ様よ」


 アルマダは思わず目を見開いた。


 目の前にいるのは、スペイラ帝国の皇女――

 ペネロペ。


 皇族自らが店頭に立っている。


 それだけで、この帝国の在り方が伝わってきた。


「ごゆっくりご覧くださいませ」


 ペネロペは優雅に一礼し、別の客の対応へ向かう。


 店内には大小さまざまな水晶や宝石が整然と並んでいた。

 淡紫のアメジスト、深紅のガーネット、透明な水晶。


 それぞれの横には札が添えられている。


 《集中力向上》《安眠効果》《魔力安定》


 付与魔法が施されているらしい。


「綺麗……」


 アルマダは一つのアメジストに目を留めた。


 紫の奥に閉じ込められた光。


 前世のアトリエで、石膏像の傍らに置いていた原石を思い出す。


 懐かしさが胸を満たした。


 その時、奥から声が掛けられた。


「イザベラ?」


 振り向くと、栗色の髪を後ろで束ねた女性が立っていた。

 落ち着いた瞳の大人びた女性だ。


「メアリー姉さま!」


 母の姉ララリーの娘――メアリーである。


「アルマダと申します」


 深く一礼すると、メアリーは柔らかく微笑んだ。


「聞いているわ。ようこそ帝都へ。でも今は少し立て込んでいて……」


「でしたら、お仕事が終わってからで構いません」


 そう言いかけた時、奥から軽やかな足音が響いた。


「絵を描く方がいらしたの?」


 現れたのは、桃色の髪を揺らす二十六歳ほどの女性。

 明るい瞳に商人らしい鋭さが宿っている。


 この商会の長――

 エマ。


「少し見せていただいても?」


 突然の申し出に、アルマダは戸惑いながらも鞄を開いた。


 数枚のキャンバスを取り出す。


 女性を主題にした作品。

 写実ではないが、前世で人気な技法だ。

 流れる髪、曲線を強調した装飾的な背景、花々が絡み合う構図。


 エマは一枚を手に取り、じっと見つめた。


「……これって、もしかして」


 小さく呟く。


「アールヌーボーじゃないの?」


 鼓動が跳ね上がる。


 アルマダは静かに答えた。


「ゴッホより、アールヌーボーが好っきぃ」


 エマの口元が、わずかに上がった。


 その笑みは理解の笑みだった。


「なるほどね」


 視線が交差する。


 言葉にせずとも、確信が芽生える。


 この人も――転生者。


 前世の記憶を持つ者。


 エマは小さく肩をすくめた。


「帝都で売り出すなら、面白いかもしれないわね」


「売り出す……?」


「ええ。商会で扱ってもいいわよ」


 胸が熱くなる。


「ありがとうございます」


「シルクスクリーンにする?」


 思わぬ提案に目を瞬く。


「はい。その方が多くの方が目にできます」


 エマは満足そうに頷いた。


「そうね。まずは流行を作るのが先よね」


 商人の目だった。


 新しい芸術を、商品として世に広める目。


 こうしてアルマダのアールヌーボー様式の女性画は、エマパワーストーン商会の新商品として展開されることになった。


    ◇


「まずは、エマ様を描きたいのです」


 アルマダはエマを見つめた。


「え、わたし?」


「はい。商会長として、時代を切り開き、今を輝く女性として」


 エマは一瞬赤くなり、咳払いをした。


「……仕方ないわね」


 了承。


 そのやり取りを見ていたペネロペ皇女が、目を輝かせた。


「エマお姉さまの次は、わたくしを描いてほしいですわ!」


 店内がどよめく。


 皇女直々の依頼。


「もちろんです」


 アルマダは深く頭を下げた。


 銀髪の皇女を、アールヌーボーの曲線の背景と共に描く。

 想像しただけで胸が高鳴る。

 アルフォンス=ミュシャのような女性画風に仕上げる。


 その噂は瞬く間に広がった。


 数日後、爽やかな金髪の青年が商会を訪れる。


 大陸に名高い剣聖――

 フエルテ公爵令息。二十一歳の若き天才。


「ペネロペ様の絵を描いた方は、あなたか?」


「はい」


「ならば私も頼みたい」


 さらに、その背後から現れたのは、黒髪で鋭い眼差しを持つ三十一歳の男。


 ドラゴンスレイヤーと称される英雄――

 ロドリゲス侯爵。


「弟子のついでだ。俺も頼む」


 豪快に笑う。


 店内は歓声に包まれた。


    ◇


 やがて、エマを描いた最初の作品が完成する。


 流れる桃色の髪。水晶を掲げる指先。

 背景には花と曲線が絡み合い、未来へ伸びる光を象徴する金の装飾。


 それは新時代の女性像だった。


 エマが考案したシルクスクリーンで複製され、帝都中の店に飾られる。


 貴族令嬢たちはこぞって、帝国一の美男子の剣聖フエルテの絵を、

 男性たちは可愛いペネロペ皇女や綺麗な店主エマの絵を購入していた。

 また、冒険者たちに人気だったのが、ドラゴンスレイヤーロドリゲス侯爵の絵だった。


 アールヌーボーは、帝都の新たな流行となる。


 アルマダの名は静かに広まり始めた。


 写真機では写せないもの。


 アールヌーボーと曲線美。


 転生者同士の出会いが生んだ、新しい芸術の波。


 銀髪の画家は、帝都の中心で筆を握る。


 その線は優雅に、しかし確実に――


 大陸の価値観を描き変えはじめていた。


  ◇


  ――ポルトナ王国、王城。


 磨き上げられた大理石の床に、色鮮やかな布が広げられている。


 それは一枚のシルクスクリーン。


 描かれているのは、柔らかな銀髪を揺らし、静かに微笑むひとりの女性。


 スペイラ帝国ペネロペ皇女である。


 玉座に腰かける五十二歳のポルトナ国王は、頬を緩ませていた。


「……なんと可憐だ」


 うっとりとした声が、だだ広い謁見の間に響く。


 絵の中の皇女は、気高く、そしてどこか憂いを帯びている。

 その佇まいは、ただ美しいだけではない。凛とした矜持がにじみ出ていた。


「このような女性は見たことがない」


 国王は満足げに頷く。


「たしか……以前、フランセ王国の皇子に婚約破棄されたと聞いたな」


 側近の一人が小声で答えた。


「はい。傷物令嬢と噂されております」


 その言葉に、国王はにやりと笑う。


「ならば好都合だ」


 王は立ち上がり、絵の前へ歩み寄る。


「このわしが、救ってやろうではないか。十二番目の側妃として迎えてやる」


 周囲の貴族たちは、当然のように頷いた。


 ここはポルトナ王国。


 女性は飾りであり、家の装飾品。政治も軍も、すべては男のもの。

 そう信じて疑わぬ国である。


「宰相を呼べ」


 やがて現れたのは、痩身の壮年、ジョアン=シウバ。


「陛下」


「帝国へ書簡を出せ。ペネロペ皇女を我が側妃に迎えてやる、と」


「……迎えてやる、でございますか」


「そうだ。婚姻してやるのだ。光栄に思うだろう」


 ジョアンは一瞬だけ目を伏せた。


 スペイラ帝国は軍事力・経済力ともに大陸随一。

 対してポルトナは中規模国家に過ぎない。


 だが王は、自国の価値を過大評価していた。


「ただちに」


 宰相は恭しく一礼する。


 しかし胸の内では、かすかな不安が芽生えていた。


 ――これは、火種になる。


 その予感は、やがて現実となる。


 だが、この時点では誰も知らない。


 この上から目線の婚姻打診が、大陸を揺るがす外交騒動の発端になることを。


  ◇


 一方その頃。


 ポルトナ王国の名門侯爵家ボルド家の屋敷では、別の勘違いが芽生えていた。


「なんだと……?」


 豪奢な椅子から立ち上がったのは、侯爵令息フンシャル=ボルド。


 手には王国新聞の海外ニュース欄。


 そこには大きくこう記されている。


 ――曲線美を描く画家アルマダ、帝都社交界で絶賛。


「アルマダが……有名?」


 かつて婚約していた少女の名。


 自分が「芸術など無価値」と言い放ち、切り捨てた相手。


「ばかな……あんな女が?」


 記事には、皇女や有力貴族からの依頼が殺到しているとある。


 フンシャルの胸に、奇妙な焦りが広がった。


 隣では新妻クリスティーナが微笑む。


「まあ、珍しいわね」


 彼は取り繕うように咳払いした。


「ふん。多少話題になっただけだろう」


 だが脳裏には、婚約破棄の夜の彼女の表情がよぎる。


 あの静かな目。


 今思えば、妙に落ち着いていた。


「……惜しいことをしたかもしれん」


「え?」


「いや、何でもない」


 そして、愚かな結論に至る。

 アルマダと婚約破棄したのは早計だったかもしれない。

 

 だが、まだ間に合うだろう。

 絵など描いている女を好きになる変わり者はいないはずだ。

 ――正室はクリスティーナ。側室にアルマダを迎えてやればいい。


 そうすれば、彼女は泣いて喜ぶに違いない。

 大好きだった俺様がよりを戻してやると言っているのだ。


 名誉ある侯爵家に戻してやるのだ。


「そうだ、帝都へ行こう」


「まあ、旅行?」


「新婚旅行を兼ねてな」


 行き先は、スペイラ帝国の帝都マドリーヌ。


 アルマダが活躍する街。


 自分が慈悲深く迎えに行くのだ。


 フンシャルは満足げに笑った。


 その笑みが、どれほど滑稽であるかも知らずに。


 ◇


 数日後。


 帝都マドリーヌでは、ポルトナからの書簡が宮廷へ届けられていた。


 筋肉に覆われた皇帝カルロスは、封蝋を切ってゆっくりと文面を読む。


 隣には、静かに佇むペネロペ皇女。


 やがて皇帝の口元が引きつった。


「……側妃に迎えてやる、だと?」


 室内の空気が凍る。


 側近たちの眉がぴくりと動いた。


 ペネロペは一瞬、目を細め――そして穏やかに微笑んだ。


「まあ。お相手は五十二歳な上に、十二番目の側妃ですわ」


 その声音は柔らかい。


 だが瞳の奥には、氷の光が宿る。


「お父様、わたくしこのような方に嫁ぐのは嫌ですわ」


 皇帝カルロスの分厚い筋肉の腕がゆっくりと書簡を畳んだ。


「これは丁重に対応せねばな」


 宰相が頷く。


「どのように?」


 皇帝は低く告げた。


「最愛のペネロペを侮辱した代償を、外交という形で教えてやれ」


 その言葉に、外務卿が不気味に笑う。


 こうして、火種は確実に広がり始めた。


 ◇


 同じ頃、帝都の画房。


 アルマダは新たな依頼に向き合っていた。


 知らない。


 自分を巡って、愚かな男がこちらへ向かっていることを。


 知らない。


 皇女を巡る傲慢な申し出が、国を揺るがそうとしていることを。


 だが、運命の歯車は確実に回り始めている。


 芸術と誇り。


 傲慢と無知。


 そして、女を所有物としか見ない者たちへの、静かな反撃。


 やがて帝都マドリーヌで、二つの愚行は交差する。


 そのとき彼らは知ることになる。


 侮った相手が、どれほど高みに立っているのかを。


 ◇


 帝都での肖像画が評判を呼び、アルマダの名はいつしか社交界にまで届いていた。

 皇女の肖像を描いた新進気鋭の画家――その噂が、ついにスペイラ帝国屈指の名門にも届く。


 依頼主は剣聖と称えられる男、フエルテ。

 そして肖像の主は、バレンシア公爵家の長男、ベニチオ=バレンシアだった。


 ◇


 バレンシア公爵邸は、白亜の外壁と広大な庭園を備えた壮麗な館だった。

 だが、アルマダが通された離れの一室を見上げた瞬間、彼女はわずかに息を止める。


 鮮烈な緑。


 まるで宝石を砕いて塗り込めたかのような、目の覚める色彩。


(……この色)


 前世の記憶が疼く。

 パリスグリーン。鮮やかだが、扱いを誤れば毒となる顔料。


「気になりますか?」


 振り向けば、淡い金髪の青年が立っていた。

 細身で儚げな面差し。しかし瞳は澄み、芯の強さを宿している。


「はじめまして。僕がベニチオです」


「アルマダと申します。本日は肖像の件で」


 微笑み合った直後、彼は小さく咳き込んだ。侍従が慌てて支える。


 胸の奥がざわめく。


 ◇


 依頼の理由は明確だった。


「ベニチオ様は幼少よりお身体が弱い。最近は特に体調を崩しやすいのだ」


 そう語るのは剣聖フエルテ。


「万が一のことがあれば、公爵家にとっても痛手だ。

 だがそれ以上に――私は、彼の今を残したい」


 写真機ではなく、絵で。


 心の奥まで表現するような肖像を。


 アルマダは深く頷いた。


 ◇


 制作は数日にわたった。


 流麗な曲線、植物を思わせる装飾、金の縁取り。

 アールヌーボー風の意匠で、青年の儚さと気品を昇華していく。


 金髪は光を抱き、背景には百合のモチーフ。

 細い指には書物を――知性と優しさの象徴。


「僕は……そんな立派な人間ではありませんよ」


「いいえ」


 筆を止めずに答える。


「弱さも含めて、今のあなたは美しいのです」


 ベニチオは照れたように笑う。


 その笑顔を見るたび、胸が温かくなった。


 ◇


 だが体調は不安定だった。


「部屋いると、すぐ息が苦しくなるのです」


「原因は……?」


「分からないのです。医師も首を傾げるばかりで」


 そして彼はぽつりとこぼした。


「継母は、弟がいれば大丈夫だと」


 継母――バレンシア公爵夫人、フアナ。


 胸に小さな疑念が芽生える。


 ◇


 ある日、ベニチオは強い眩暈で倒れた。


 アルマダは再びあの壁を見つめる。鮮やかな緑。粉がわずかに剥離している。


(もしや……)


 彼女はそっと壁の一部を削り取り、持ち帰った。


 簡易検査の結果――やはり砒素を含むパリスグリーン。


 密室で長時間過ごせば、慢性的な中毒症状が出る。


 ◇


 アルマダは剣聖フエルテ、そして銀髪の皇女――ペネロペに相談した。


 ペネロペは月光のような銀髪を揺らし、静かに微笑む。

 透き通る肌に大きな瞳。まさしく美少女と呼ぶに相応しい気品。


「まあ……それは恐ろしいことですわ」


 声音は柔らかいが、瞳は鋭い。


「証拠はお持ちでして?」


「はい、こちらに」


 粉末を示すと、フエルテの拳が震えた。


「改装を命じたのは誰だ」


 調べはすぐについた。改装を指示したのはフアナ。使用人への口止めも判明した。


 ◇


 断罪は公爵邸の広間で行われた。


 ペネロペは銀糸のような髪を背に流し、優雅に立つ。


「公爵夫人フアナ。ご説明いただけますかしら?」


「装飾の趣味ですわ!」


 取り乱すフアナ。


 だが証拠と証言は揃っていた。


 ベニチオの存在が継承の障害。ゆえに、静かに命を削る環境を整えた。


 静まり返る空間。


 ペネロペは凛と告げる。


「未遂とはいえ、これは明確な毒殺の企てですわ。

 皇族として見過ごすわけにはまいりませんわ」


 フアナは崩れ落ちた。


 ◇


 外壁は撤去され、部屋は清浄な空気に満たされた。


 数週間後。


「最近、呼吸が楽なのです」


 庭を歩くベニチオの顔色は明らかに良い。


「あなたが救ってくださったのです」


「私は気づいただけです」


「それでも」


 彼はそっと彼女の手を握る。


「あなたと出会って、生きたいと強く思えるようになりました」


 胸が高鳴る。


「……私も」


 アルマダは微笑んだ。


「あなたの未来を、これからも描きたいのです」


 完成した肖像画は、金の曲線と光に包まれていた。

 そこに描かれたのは、儚い青年ではない。再生と希望を宿した公爵家嫡男。


 フエルテは満足げに頷く。


「心がこもっているな」


 ペネロペは優雅に扇を閉じる。


「芸術は、ときに命を救うものですわ」


 ベニチオはアルマダを見つめる。


「これからは隣で、共に未来を描いてほしい」


 答えは決まっていた。


 毒に蝕まれかけた命は光を取り戻し、

 帝都に芽吹いた恋は、静かに根を張る。


 アルマダの筆はこれからも、写真機には映らぬ魂を描き続ける。


 愛する人の未来とともに。


 ◇


  外壁の毒が取り払われてからというもの、

 ベニチオ=バレンシアの体調は目に見えて快方へ向かっていた。


 朝の庭園を自らの足で歩き、陽光の下で読書を楽しむ。

 それだけのことが、奇跡のようだった。


「風が、こんなに心地よいとは思いませんでした」


 微笑む彼の横顔を、アルマダは何度もスケッチに収める。


 肖像画制作をきっかけに始まった二人の時間は、いまや自然に重なり合っていた。

 公爵家も剣聖フエルテも、その関係を温かく見守っている。


 そして銀髪の皇女、ペネロペもまた、にこやかに言った。


「まあ……お似合いですこと。婚約の報せを聞く日も近そうですわ」


 頬を染めるアルマダに、ペネロペは扇を口元に当てて笑う。


「幸せは、遠慮せず掴むものですわ」


 その言葉通り、バレンシア公爵家では近く正式な話し合いを、と水面下で進められていた。


 ◇


 そんな折だった。


 帝都中心部に店を構えるエマ・パワーストーン商会に、招かれざる客が現れる。


 店内に漂う清らかな魔力石の輝きとは対照的な、濁った空気。


 豪奢な衣装に身を包んだ女性――クリスティーナ。

 そしてその隣に、鼻持ちならない笑みを浮かべる侯爵家令息、フンシャル=ボルド。


 かつてアルマダの婚約者であり、彼女を一方的に断罪し、婚約を破棄した男である。


「まあ、随分と繁盛しているようだな」


 フンシャルは店内を見回し、あからさまに鼻で笑った。


「所詮は女が店主の店だな」


 応対していた従業員たちは眉をひそめる。


 ちょうどその時、会議を終えたアルマダが奥の部屋から姿を現した。


 彼女の隣には、穏やかな微笑みを浮かべるベニチオの姿。


 フンシャルの目が、ぎらりと光る。


「……ほう。久しいな、アルマダ」


 その声音には、妙な優越感が滲んでいた。


「本日はどのようなご用件でしょうか」


 アルマダは冷静に問い返す。


 フンシャルは顎を上げ、堂々と宣言した。


「寛大なる私が、お前を許してやると言いに来たのだ」


 店内の空気が凍る。


「側室として、我がボルド侯爵家に戻ることを許してやろう」


 上から目線。恩着せがましい口調。


 クリスティーナは横で満足げに微笑みながら、アルマダを見下す。


「女性が絵を描くなんて愚かなことをして反省しなさい」


 だが、その場にはベニチオがいた。


 彼は一歩前に出る。


「失礼ですが」


 穏やかな声。しかしその瞳は鋭い。


「彼女を侮辱する発言は控えていただけますか」


 フンシャルは鼻で笑う。


「貴様は?」


「バレンシア公爵家嫡男、ベニチオ=バレンシアです」


 店内がざわめく。


 フンシャルの顔色がわずかに変わる。

 だがすぐに取り繕った。


「ほう、公爵家の……。だが聞いているぞ? 身体が弱いとか。いつまで持つやら」


 次の瞬間。


 ベニチオは静かにアルマダの手を取った。


「彼女は私の大切な人です」


 その一言は、驚くほど力強い。


「過去にどのような事情があろうと、今の彼女を貶める権利は誰にもありません」


 凛とした立ち姿。

 かつて病弱と嘲られた青年とは思えぬ堂々たる態度。


 アルマダの胸が熱くなる。


 そして、彼女も一歩前に出た。


「フンシャル様の件は、はっきりとお断りいたしますわ」


 きっぱりと言い放つ。


 フンシャルが目を見開く。


「なに?」


「あなたのような、顔も良くなく、威張ってばかりの殿方と別れて、本当に良かったと心から思っております」


 店内に小さなどよめき。


「いま私は、素敵で誠実な方に想われておりますの。さらに申し上げれば、

 将来はスペイラ帝国のバレンシア公爵夫人になる身ですわ」


 微笑みながら、追撃する。


「誰が、あなたなどの側室になどなりましょうか」


 完膚なきまでの拒絶。


 フンシャルの顔はみるみる赤くなる。


「き、貴様……!」


 だが反論の言葉が出てこない。


 隣のクリスティーナは悔しさに顔を歪める。


「キーッ! なによそれ! どうせ病弱なんでしょう!? すぐ未亡人になるわよ!」


 その瞬間、店の奥から銀鈴のような声が響いた。


「まあ、随分と下品な物言いですわ」


 現れたのは、銀髪を輝かせる皇女ペネロペ。


「ここは帝都有数の商会ですわ。無礼はお控えなさい」


 皇族の威圧感に、クリスティーナは青ざめる。


 フンシャルも狼狽した。


「こ、皇女殿下……!」


「アルマダはわたくしが認めた芸術家ですわ」


 冷ややかな視線。


「それに、バレンシア公爵家への侮辱とも取れる発言。これは外交問題ですわ」


 完全なる形勢逆転。


 フンシャルは言葉を失い、クリスティーナは歯ぎしりする。


「くっ……覚えていろ!」


 捨て台詞を残し、二人は足早に店を去った。


 背中は惨めに震えている。


 扉が閉まった瞬間、店内に安堵の空気が広がった。


 ベニチオはアルマダを見つめる。


「怖くはありませんでしたか」


「少しだけ。でも」


 彼女は微笑む。


「あなたがいてくださったから」


 彼はそっと額に口づける仕草をし、囁く。


「必ず、正式にあなたを迎えます」


 その言葉に、胸が甘く満ちる。


 ペネロペは満足げに頷いた。


「若い恋は良いものですわ。次は婚約披露の準備ですわ?」


 アルマダとベニチオは顔を見合わせ、照れながらも笑う。


 かつて彼女を見捨てた男は、いまや遠い存在。


 愛と誇りを胸に、アルマダは新たな未来へ歩み出す。


 ざまあみろ――と心の奥で小さく呟きながら。


 ◇


  エマ・パワーストーン商会での一件の後、

  フンシャル=ボルドは顔を紅潮させたまま、ポルトナ王国へ帰国した。


 「覚えていろ」と吐き捨てはしたものの、胸の奥には拭いきれぬ焦りが残っていた。


 だが、その不安はすぐに現実となる。


 帰国からわずか三日後。


 王都は異様な緊張に包まれていた。


「帝国との貿易が……停止?」


 ボルド侯爵邸の執務室で、侯爵は報告書を握りしめた。


 スペイラ帝国――大陸随一の軍事力と経済力を誇る国家。

 その中心に立つのが、銀髪の皇女ペネロペである。


 今回、帝国側から通達されたのは「皇族への侮辱および公爵家への名誉毀損に対する抗議」。


 そして、報復措置としての交易停止。


 帝国産の魔石、織物、香辛料。

 それらが止まれば、国内経済は混乱必至だった。


「馬鹿な……たかが若造の口論で、ここまで……」


 侯爵は額を押さえる。


 そこへ、重い扉が開いた。


「お呼びでしょうか、父上」


 入ってきたのはフンシャル。


 その顔を見た瞬間、侯爵の表情が一変した。


「貴様……帝都で何をした?」


「何を、と申されましても。少々、元婚約者に情けをかけてやっただけで――」


 次の瞬間。


 乾いた音が室内に響いた。


 侯爵の手が、息子の頬を打ったのだ。


「愚か者!」


 怒号が飛ぶ。


「帝国から正式な抗議文が届いた! 皇女殿下の御前で暴言を吐き、公爵家嫡男を侮辱したとな!」


 フンシャルの顔色が変わる。


「こ、皇女が……そこにいたのですか?」


「報告書も読んでおらぬのか!」


 侯爵は机を叩いた。


「しかも貴様、側室として迎えるなどと公言したそうだな? 公爵家の婚約者候補に対して!」


「ですが、あの女は元は私の――」


「だから何だ!」


 怒鳴り声が響く。


「いまや彼女は帝国の有望な芸術家。しかもバレンシア公爵家との縁談が近いと噂されている!」


 バレンシア公爵家――帝国の中枢を担う名門。


 その嫡男、ベニチオ=バレンシア。


「その家に泥を塗ったのだぞ!」


 フンシャルは言葉を失う。


 ◇


 状況はさらに悪化した。


 王城からの急使。


「ボルド侯爵、ならびにご令息フンシャル、至急登城せよ」


 謁見の間。


 重苦しい空気の中、ポルトナ王が玉座に座していた。


「顔を上げよ」


 低く冷たい声。


 フンシャルは震えながら頭を上げる。


「そなたの軽率な言動が、国家にどれほどの損害を与えたか理解しておるか?」


「……恐れながら、私はただ――」


「黙れ」


 一喝。


「帝国は怒っておる。皇女ペネロペ殿下の名を汚されたこと、

 そして公爵家への侮辱。正式な謝罪と賠償を求めてきた」


 交易停止により、港は混乱。商人たちは悲鳴を上げ、物価は上昇。


 国内は大騒ぎだった。


「魔石の輸入が止まれば、我が国の魔導産業は立ち行かぬ」


 王の視線が突き刺さる。


「すべて、そなたの虚栄と慢心が招いた結果だ」


 フンシャルの喉がひくりと鳴る。


「ボルド侯爵」


「はっ」


「責任は重い。爵位返上も視野に入れよ」


 その言葉に、侯爵の顔が青ざめる。


「陛下、それだけは……!」


「では、どうする」


 静かな圧力。


 侯爵は苦渋に満ちた声で答えた。


「愚息を、謹慎処分といたします。帝国へ正式に謝罪の使者を送り、賠償金も支払う所存」


 王はしばし沈黙し、やがて頷いた。


「それで帝国の怒りが収まればよいがな」


 ◇


 城を出た瞬間、侯爵は再び息子を睨みつけた。


「愚か者め……お前一人の自尊心で、家も国も傾きかけたのだ」


 フンシャルは蒼白のまま震える。


「なぜだ……あの女は、かつて私に縋っていたではないか……」


「縋っていたのは、家同士の都合だ!」


 侯爵は吐き捨てる。


「見る目がなかったのはお前だ。宝石を石ころと見誤った」


 その言葉が、胸に刺さる。


 アルマダの凛とした笑み。

 公爵家嫡男の堂々たる姿。

 皇女の冷ややかな視線。


 すべてが脳裏をよぎる。


 ◇


 ボルド侯爵家は巨額の賠償を支払い、フンシャルは長期謹慎となった。


 社交界では嘲笑が広がる。


「帝国を怒らせた愚息」

「側室発言で国難を招いた男」


 かつて威張り散らしていた彼は、今や笑い者だった。


 一方、帝国では――。


 バレンシア公爵家とアルマダの縁談が正式に進み始める。


 その報せを聞いたとき、フンシャルは拳を握りしめた。


 だが、もう何もできない。


 彼が手放した未来は、確かに別の輝きを得ていた。


 慢心の代償は、あまりにも大きかったのである。


 ◇


 それから外交問題がもつれ、ポルトナ王国が愚かにも宣戦を布告したとき、

 帝国はすでに勝利を確信していた。


 なにしろ前線に立つのは、わずか三十一歳にして帝国最強と謳われる黒髪の将軍――ロドリゲス。


 艶のある黒髪を後ろで束ね、鋭い眼差しを持つ若き戦略家。

 冷静沈着にして大胆不敵。机上の戦だけでなく、最前線で剣を振るう実力も兼ね備えている。


 そして、その隣に立つのは、まだ二十一歳の若さで“剣聖”の称号を得た天才剣士――フエルテ。


 長身でしなやかな体躯。

 静かな瞳の奥には燃える闘志。

 振るう剣は一閃ごとに戦場の空気を切り裂く。


 ◇


 開戦。


 ポルトナ軍は数だけは揃えていた。だが統率は甘く、士気も低い。


 ロドリゲスは地図を指でなぞりながら、淡々と命じる。


「右翼は陽動。敵を引きつけろ。本隊は夜明け前に包囲を完成させる」


 声は低く、揺るがない。


 作戦は完璧だった。


 補給路を断たれ、混乱した敵軍に、フエルテが突撃する。


 若き剣聖の剣は稲妻のように閃き、敵将を一太刀で沈めた。


「退くな! 退けば死ぬ!」


 叫ぶ敵兵。


 だが次の瞬間、剣光が走る。


 その若さから侮った者は、皆地に伏した。


 ロドリゲスは最前線に姿を現し、黒髪をなびかせながら剣を抜く。


「総崩れだ。終わらせるぞ」


 三十一歳とは思えぬ貫禄と、研ぎ澄まされた実力。


 指揮と武力、その両輪が噛み合った帝国軍は止まらない。


 わずか七日で王都を包囲。


 十日目には城門が破られた。


 ◇


 ポルトナ王国は崩壊。


 その戦争を強硬に支持し、帝国への敵意を煽った貴族たちは一斉に拘束された。


 ボルド侯爵家も例外ではない。


 鎖に繋がれたのは、かつて威張り散らしていたフンシャル=ボルド。


「なぜだ……私は侯爵家の嫡男だぞ……!」


 虚しい叫び。


 帝国軍司令部の天幕で、ロドリゲスは報告書を閉じる。


「戦争責任、並びに皇族侮辱。重罪だな」


 隣でフエルテが静かに頷く。二十一歳の若さながら、その横顔には揺るぎない威厳がある。


「温情は不要でしょう」


「ああ」


 ロドリゲスは冷ややかに言い放つ。


「鉱山送りだ」


 決定は即日執行。


 ボルド侯爵家は爵位剥奪、財産没収。

 一族は戦争責任者として奴隷身分に落とされた。


 ◇


 荒涼とした鉱山。


 つるはしを振るうフンシャルの手は血に滲み、爪は割れ、背は煤で汚れている。


「くそっ……こんなはずでは……!」


 かつての絹の衣はない。従者もいない。


 監視兵の鞭が背を打つ。


「黙って掘れ!」


 隣では父であった元侯爵が膝をつき、咳き込んでいる。


 誇りも威厳も、砂のように崩れ去った。


 夜、硬い地面に横たわりながら、フンシャルは思い出す。


 帝都の商会での光景。


 堂々と立つ公爵家嫡男、ベニチオ=バレンシア。

 自信に満ちたアルマダの笑み。


 そして自分を見下ろす銀髪の皇女、ペネロペの冷ややかな視線。


 あの瞬間から、すべてが狂ったのだ。


 ◇


 一方、帝国。


 戦勝報告を受けたペネロペは、静かに言った。


「無益な戦は終わりましたわ。これ以上の血は不要です」


 その背後には、黒髪のロドリゲスと、若き剣聖フエルテ。


 二人の存在が、帝国の揺るぎなさを象徴していた。


 そしてバレンシア公爵家では、華やかな知らせが届く。


 アルマダとベニチオの正式な婚約。


 祝福に包まれる未来。


 かつて彼女を侮辱し、切り捨てた男は、いまや鉱山で石を砕く。


 若き英雄たちが国を守り、

 愚か者は自らの選択の果てに堕ちる。


 黒髪の将軍は冷静に国を導き、

 二十一歳の剣聖は剣で未来を切り拓く。


 そして、鉱山に響くのは、つるはしの虚しい音だけだった。


 慢心の代償は、あまりにも重い。


 ◇


 帝都マドリーヌの夕暮れ。


 アルマダはアトリエで、新しいキャンバスに向かう。


 題は――《再生》。


 柔らかな光の中、

 寄り添う二人の姿を、曲線で描く。


 背景には百合と金の装飾。

 絡み合う蔓は、未来への道。


「何を描いているのですか?」


 背後からベニチオの声。


「秘密です」


 振り返って微笑む。


 彼はそっと彼女の肩に触れた。


「あなたとなら、どんな未来も怖くない」


「私もです」


 筆が滑らかに動く。


 写真機では写らない心。

 言葉では語りきれない誇り。


 かつて価値がないと切り捨てられた芸術は、

 いまや国と国を動かす力を持った。


 女は飾りではない。


 所有物でもない。


 自らの才能と誇りで、

 未来を選び取る存在だ。


 ◇


 やがて完成した新作は、

 帝都中の画廊に飾られた。


 題名は――


 《自由》。


 その片隅には、小さな署名。


 ――アルマダ。


 その名は、

 もう誰にも軽んじられることはない。


 かつて彼女を捨てた男は、

 その名を聞くたびに歯ぎしりするだろう。


 だが、それすらも遠い過去。


 銀髪の画家は、

 愛する人の隣で微笑む。


 ざまあみろ。


 そう心で呟きながらも、

 彼女の筆は今日も優雅に未来を描き続ける。


 誇りと愛と、

 新しい時代の光を。


 【完】


♪.☆.。.:.+*:゜ ☆*。♪♪.☆.。.:.+*:゜ ☆*。♪♪.☆.。.:.+*:゜ ☆*。♪

 読んでいただいた読者様に心からお礼申し上げます。

 ありがとうございました。感謝です。(*- -)(*_ _)ペコリ


 山田 バルス

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― 新着の感想 ―
……何て言うか…美大の転生者でミシャのパクリで名を成すって酷くないですかね。そもそもミシャってグラフィックデザイナーだし。結局一回も自分の画風を目指すわけでもなく、絵を描きたいと熱望するわりに売れれば…
国王さん、自国が男尊女卑だからといって国外まで同様に考えちゃ駄目でしょ。戦争に負けたと言っても根付いた男尊女卑はなかなか変わらないでしょうね。
絵自体じゃなく女性が描くことを問題視してたけど、父親や元婚約者に芸術を見る目があったら彼らのゴーストライターにされてたかもしれないですね。 あと戦後実家はどうなったんだろ。
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