蟹の大群
そういえば、馬車にコンティニュアスの服を置いてきてしまった。リュックを探ってみたが、衣類らしきものは持ってきていない。仕方がないので、エドワードのマントを腰に巻いてやった。上半身は裸。寒そうだ。
「あーあ。なんで俺の服を忘れてくるんだよ。これだから人間はよぉ……」
「いいから、ほら。早くやって」
ブツクサ言っているところを、エドワードがぴしゃぴしゃと尻を叩いて急かす。コンティニュアスは「ああ、はいはい。旦那と嬢ちゃんは身構えてな」と言うと、神殿に向かって両腕を掲げた。
「あらよっと!」
かけ声を上げると、フワッと周囲の空気が動いた。神殿を包んでいた陽炎が、ゆらゆらと大きく動き出す。
「うわっ、何これ。気持ち悪い……!」
ライラは顔を歪めてしゃがみ込んだ。驚いてそばに駆け寄る。エドワードはコンティニュアスの背後で仁王立ちしていた。
「大丈夫か?」
ライラの背中に手を置いて、顔をのぞき込んだ。真っ青になって冷や汗をかいている。魔力のない俺は何も感じないが、エドワードとライラは今、コンティニュアスに魔力を吸われているのだ。どんな感触なのだろう。
「大丈夫? どんな気分?」
自分が体験できない感覚がどんなものか、気になって仕方がない。例えば、生理とか陣痛とか。体験したくはないが、興味がある。こんな時に聞くべきではないのだろうが、聞いてしまった。
「……吐きそう……」
ライラはそうつぶやくと、背中を丸めて地面に突っ伏してしまった。とても苦しそうだ。このままここにいて大丈夫なのか? 離れた方がいいのでは? ライラが苦しそうにしているのは、見ていられない。でも、俺はただ、背中をさすることしかできなかった。ライラはよほど気持ち悪いのか、ブルブルと震え出した。もうダメだ。一時、中断させよう。そう思って顔を上げた時だった。
「吸い尽くしたぜ!」
コンティニュアスが両腕を広げて、天を仰いだ。その勢いで腰のマントがハラリと落ちる。引き締まったケツが丸出しになった。エドワードは「ふぅ〜」とため息をついて、手の甲で額を拭った。
「こんな感じなんだ。吐くかと思ったよ」
マントを拾ってコンティニュアスに手渡す。「吐くかと思った」とか言っている割には、ケロッとしている。ライラはまだ起き上がれないのに。
「ライラ、大丈夫?」
ライラの背中に手を置いたまま、改めて顔をのぞき込んだ。さっきまで強く目を閉じていたが、うっすらと開いている。息が荒い。背中に置いた手のひらが、ライラの汗でじっとりと濡れていた。
「ああ……。もう大丈夫。ありがとう」
ライラは体を起こした。顔が真っ赤になっている。両手でゴシゴシとこすると「ふぅ~」と大きく息をついて、立ち上がった。フラリとよろけるので、体を支えてやる。
「無理すんなよ」
「もう大丈夫だって。歩けるから」
ライラはムッとした顔をして、俺の腕を振り払った。ふふっ、このツンデレめ。そんな仕草が俺をキュンキュンさせていることに、気がついていないのか?
神殿の周囲にあった陽炎が、なくなっていた。向こう側までクリアに見通せる。神殿の内部はガランとした広間になっていて、中央部に四角い出っ張りがある。玉座にしては低すぎる。ここからは見えないが、階下へと続く階段としたものだろう。床の部分がキラキラ光っていた。吹き抜ける風で、それがゆらゆらと動いている。水だ。一面に水が張ってある。深さはそれほどではなさそうだが、階段にたどり着くには、この浅いプールみたいな広間を横切っていく必要があった。
ライラを休ませている間に、ハーディーとテイラーを引き上げた。狼族たちはまだ魔法が効いているのか、起きてこない。あの巨体を引っ張り上げるのは大変だろうな、せっかく打ち込んだペグがハーディーの体重で抜けてしまうのではないかと思っていたら、テイラーを背負ったまま思った以上に身軽に、ほぼ自力で崖をよじ登ってきた。
『ほほう! これは素晴らしい展望でござるな!』
神殿に感心する以前に、崖の上からの景色を眺めて感嘆の声を上げた。北には雪をいただいた山々。東西には深い森。そして、遠く南にはパンゲアが浮かんでいる。
「旦那、余分な服を持ってないか?」
マントを腰に巻いただけのコンティニュアスが、ハーディーに聞いた。寒いのか、乳首が立っている。ハーディーはそれをひと目見て、事情を察したようだ。
『申し訳ござらぬ。すぐに戻ると思って、何も持ってきてないのでござる』
頭をかいて、すまなさそうにした。コンティニュアスは肩を落として「はぁ」と露骨にため息をついた。
俺は神殿の淵にしゃがみ込んで、床一面に溜まっている水を調べた。長年、ここにあるはずなのに、とてもきれいだ。川の水は常時、流れているから澄んでいるけど、池や湖の水は流れていないので、藻や生き物が発生している。ここの水は広間に溜まっているのに、澄んでいる。底の石畳がはっきり見えるほど透明度が高い。水ではないのかもしれない。侵入者を防ぐために強酸性の液体かなんかなのではないか? 短剣を抜いて差し込んでみる。手応えは普通の水だ。匂いもない。触れてみても、特に刺激を感じるわけでもない。思い切って舐めてみる。少し甘い。
「大丈夫そうだ。入ってみよう」
安全だと判断して、先頭に立って水に入った。膝下あたりまで深さがある。そして思ったほど冷たくない。ジャブジャブと音を立てながら前進する。この石畳に罠が仕掛けられていたら、厄介だ。水がなければ、見れば異変を感じることができるのだが、水があるので光が屈折して、床面の状態がよくわからない。俺は姿勢を低くして注意を払いながら、ゆっくりと進んだ。
あっ! しまった!
そう思ったのが数秒遅かったら、負傷者が出ていたかもしれない。姿勢を低くして床面に注意を払っていた。俺がこの神殿を作った人なら? 侵入者を拒むために、どんな仕掛けを施す? 水を張って、足元に注意を向けさせる。頭上への注意が疎かになる。
不意に生き物の気配を感じた。
「ハーディー! 頭上だ!」
俺は声を限りに叫んだ。
神殿に入った時に、天井を見た。壁画でもあるのではないかと想像していたら、8角形の白いタイルが敷き詰められていて、不思議なデザインだなと思ったのだ。顔を上げると、そのタイルがバラバラと剥がれ落ちて、俺たちの頭上に落ちてくるところだった。
タイルではない。あれは、生き物だ。その証拠に、タイルの内側から蟹の足みたいなものがワラワラと出てきている。1、2……数えきれない。侵入者が広間に入ってくるのを待っていたのだ。頭上に降ってきたそれを避ける。それはザバン!と水しぶきを上げて次々に着水した。6本の足を器用に使って起き上がってくる。俺がタイルだと思っていたのは、こいつらの甲羅だった。まさに蟹だ。6本の足に加えて、1対の大きな爪を持っている。デカい。丸テーブルくらいの大きさはあった。
『テイラー殿、こちらへ!』
ハーディーはキャリバンを抜くと、テイラーのそばに駆け寄って、頭上に降ってきた巨大蟹を弾き落とした。ハーディーとテイラーはコンティニュアスが魔力を吸っている間、崖の下で待っていた。つまり、エドワードとライラと違って、魔力を吸われていない。
ヤバい。これはヤバいぞ。
ハーディーの懐に逃げ込んだテイラーの表情が、引きつっていた。ザバン、ザバンと派手に水しぶきを上げながら、次々に巨大蟹が落ちてくる。やつらは爪を振り上げて、襲いかかってきた。
「エド、ライラ、走れ!」
俺が叫んだ瞬間、テイラーの「わあああああああ!!」という絶叫が広間に響き渡った。それを背後に聞きながら、水を蹴立てて階段へ向かって走る。背後でバリッ、バリバリッと嫌な衝撃音が響き、空気が動く。階段にたどり着き、手すりに登る。振り向くと、ハーディーとテイラーの周囲に集まっていた巨大蟹が、まさに吹っ飛んだところだった。デカい蟹を見てびっくりしたテイラーが、電撃を放ったのだ。そして、ここの足元は水浸しだ。大概の水は電気を通す。いつまでも水の中にいると、巻き添えを食ってしまう。
「ぎゃあああああ!」
絶叫とともに、テイラーを中心に波紋が浮かび上がる。バン! バリッ!という衝撃音とともに巨大蟹が弾け飛んだ。エドワードが追いついてきて、階段の手すりに駆け上がる。
「あ、痛っ!」
まだ水中にいたライラが、足を取られて転んだ。どうやらビリッと来たらしい。
「ライラ、早く!」
手を差し伸べる。離れているから「痛い」で済んだけど、テイラーがもっと強く電撃を放てば気絶、もしくは感電死してしまう。俺はビリッとくるのを覚悟で水中に片足を突っ込むと、ライラを捕まえて手すりに引っ張り上げた。
『テイラー殿、落ち着いて』
「ハーディー、助けて!」
ハーディーが必死でテイラーをなだめている。パニックから抜け出せずにすがりつくテイラーを抱き上げると、キャリバンで迫り来る蟹を叩き潰しながら、こちらにやってきた。テイラーの電撃で吹っ飛ばされた蟹は気絶したのか、足を縮めてじっとしている。だが、まだ他にもゴソゴソと動きながらこちらに迫ってくるやつらがたくさんいた。階段に近寄ってくる。エドワードが追い払おうとするが、杖で叩かれた程度では屁とも思っていないようで、どんどん集まってくる。
『お任せあれ』
ハーディーは階段の手すりにテイラーを座らせると、キャリバンを振り回して蟹を追い払い、叩き潰した。割れた甲羅から黄色い汁がにじみ出している。蟹味噌だろうか。大きさの違いこそあれ、蟹は蟹だ。湯がいて食べたら、美味いかもしれない。
「テイラー、大丈夫?」
ライラがテイラーの肩を抱いて、声をかけている。テイラーは肩で息をしながら「う、うん」とうなずいた。少し落ち着いたみたいだ。
「ここに入ってしまったらいいんじゃないか?」
エドワードが階段をのぞき込んでいる。階段は狭かった。ハーディーがギリギリ通れるかどうかといったところだろう。蟹はデカい。ここに入ってしまえば、追いかけてくることはできない。たぶん。ハーディーがいかに強いとはいえ、多勢に無勢だ。キャリバンを振り回して追い払っているものの、蟹に突かれたり挟まれたりして、腕や足から血が出ていた。ええい、もう迷っている暇はない。
「よし、行こう。ハーディー、階段を降りるぞ!」
『合点承知の介』
俺は先頭に立って階段を降りた。本来ならもう少し用心深く進まなければいけないところなのだが、背に腹は変えられない。とりあえず今は、階下に逃げ込まないと。
地下一階なのだから真っ暗になってもおかしくないのに、不思議なことに下のフロアは明るかった。天井がぼんやりと青白く光っている。まるで広間の床がガラスで、明かりを通しているようだ。最低限の注意を払って、最大限のスピードで進む。階段は途中で折れ曲がって、下のフロアに続いていた。広い。天井がぼんやりと明るいので、隅々までよく見える。中央に俺の胸くらいの高さのひと抱えほどある石柱があって、その上でたいまつが燃えていた。
いや、違う。あれはたいまつではない。何もない空中に、拳大ほどの炎が燃えていた。




