〝角折り〟クリス
羊角の悪魔は、俺の前に立ちはだかった。
「逃さんぞ!」
片手持ちの剣をヒュンとひと振りすると、俺の胸元に突きつけてジリジリと迫ってきた。改めてこうして見ると、立派な身なりをしている。詰襟のきれいな白いシャツに、金の刺繍が施されたブルーのジャケット。茶色のスリムなスラックスに、よく磨かれたブーツ。緩くカーブしたブラウンの髪もきちんと手入れしていて、悪魔ながら、とても風呂場に殴り込んでくる非常識な暴漢には見えない。
俺は全裸。股間を冷たい風が通り過ぎて、思わずゾゾッとする。いや、怖がっているわけじゃない。圧倒的に状況は不利だ。しかし、濡れタオルを持っている。手ぶらではない。
「俺を殺したら、金のありかがわからなくなるぞ?」
口から出まかせを言った。時間稼ぎだ。羊角の悪魔はフンと鼻を鳴らした。
「殺してからゆっくり探すさ。まずは部下の敵討ちだ」
目をすうっと細めると、「フン!」という気合一閃、突き込んでくる。俺は濡れタオルを振り回して、剣先から逃れた。
フルチンになっても諦めるな。
そう、これもスティーブンさんの教えだ。風呂場で襲われた時のことも習った。意外に使えるのが、この濡れたタオルだ。見た目以上に重さがあり、鞭として使える。剣と接触しても、簡単に切れない。
「いいか、クリス。もし風呂場で襲われたら、こんなふうにして逃げるんだ」
スティーブンさんの背中を流している時に、本人が実演して見せてくれた。ビッタンビッタンと濡れタオルで叩かれると、意外なほどにダメージがあった。「うわぁ! やめて!」。俺が叫ぶと、スティーブンさんは「おお、クリス、すまんな。ちょっとやりすぎたか」と言って、フルチンのままガッハッハと笑った。
「チッ、小癪な!」
羊角の悪魔は続けて突き込んでくる。どうやら突きに特化した剣術の使い手のようだ。俺は濡れタオルをヌンチャクのように振り回して、次々に剣撃を受け流した。そう、ヌンチャクだ。わかるよな?
「おい、エリック! 金を見つけたぞ!」
浴槽の向こうから別の悪魔の声がする。この羊角の悪魔はエリックというのか。エリックは飛び下がって俺から距離を取ると、チラッと声の方を見た。浴室の入り口に立っている悪魔が、小さな袋を掲げている。
あ! なんだよ、俺のリュック、すでに荒らされているじゃないか! それ、こいつらの銀粒が入っていた袋だ。リュックに入れておいたのに。てっきりハーディーが阻止しに行っていると思ったのだが、どこに行ったんだ? と思った瞬間、パンツだけ履いたハーディーがキャリバンを手に戻ってきた。よし、いいぞ! そいつをぶった斬って袋を取り戻せ!
袋を手にしていた悪魔が、気配を感じて振り返る。ハーディーは身構えさせる時間を与えず、剣を振った。
「うわあぁ!」
悪魔は腰を抜かして床に尻餅をついた。あれ? 見えない刀身ではあるけど、確かに切ったように見えたんだけどな。ハーディーも不思議そうに、手にした剣を見ている。
「エリック! 金はあったが、鏡がない!」
別の悪魔が、更衣室から浴室に駆け込んできた。そこでハーディーと鉢合わせして、斬り合いになる。あ、やっぱり。ハーディーは鍔で悪魔の攻撃をはね返した。刀身が出ていないのだ。
「女風呂だ! 女風呂を探せ!」
エリックは叫ぶと、俺を残して駆け出した。腰を抜かしていた悪魔も立ち上がって、ハーディーの横をすり抜けて走り出す。何ぃ、女風呂に行くだと? 許さんぞ! 遅れを取ってなるものか! 俺も走り出した。他にも仲間がいたのか、女風呂の方から悲鳴が上がる。「キャー!」「出ていけ!」「エッチ!」。入浴客の半分はオークのはずだ。だが、聞こえてくる声は甲高くてかわいらしい。人間の女子と何ら変わりはない。
鏡はテイラーのリュックに入っている。テイラーが使っているリュックは、エリックの仲間が背負っていたものだ。つまり、見ればすぐにそれとわかる。鏡にどんな価値があるのか知らないが、それを持っていたテイラーが襲われる可能性がある。今、真っ先にやらなければいけないことは、テイラーを守ることだ。
更衣室には、やはり数人の半裸のオークがいた。オークのメスはみんな大柄なので、バストも当然、デカい。逃げ惑って、あっちこっちでプルンプルンと揺れている。悪魔が剣を振りかざして、彼女たちの荷物を引っ掻き回していた。エリックがいない。俺は更衣室をパスして浴室に飛び込んだ。悪いが、オークの巨乳には関心がない。
女風呂も露天だった。すでに日が暮れて周囲は暗い。あちこちにロウソクが立てられて湯煙を照らして、幻想的な雰囲気を作り出している。4、5人の魔族がいた。みんな、立ち上がって怯えた表情をしている。浴槽の手前に、エリックがこちらに背を向けて立っていた。
「お嬢さん方、手荒なまねはしたくない。鏡を返してくれれば、即座に退散する。さあ、俺の鏡を持っているのは誰だ?」
口調は丁寧だが、一人一人に剣先を突きつけている。テイラーは浴室の一番、奥にいた。立ち上がって、タオルで体を隠している。いかにテイラーがチビとはいえ、タオル1枚で全身は隠せない。赤い傷跡の残った細い肩や、意外と言ってはなんだが、思った以上に女性らしい丸い腰が見えていた。
「テイラー!」
声を上げて名前を呼んだ。恐怖に見開いた目でエリックを見つめていたテイラーは、ハッとこっちを向いた。俺だとわかったようだ。だが。
「ぎゃあああああああああああ〜!!」
テイラーは俺の顔を見るや、その場にいた全員が飛び上がってびっくりするほどの大声で絶叫した。両手で胸元を押さえて、もう一度「ぎゃあああああああ〜〜!!」と叫ぶ。自分の置かれた状況を理解して今更、恐怖を感じたのか。なんだかよくわからないけど、とにかく絶叫だ。
「テイラー! 今、助けに行くぞ!」
一歩、踏み出したところで、エリックが振り向いた。む、まずい。気づかれた。
「クリスのエッチー!!」
エリックの向こうで、テイラーが怒鳴った。
「クリスのエッチー! こっち来んな!!」
……。いや、今、そんなこと言っている場合じゃないだろ? もしかして、さっきの絶叫は、俺が現れたことに対する絶叫なのか?
「貴様ぁ! 女風呂に乱入するとは、不埒なやつめ!」
エリックは剣をくるりと回すと、俺の方に向けた。いや、先に乱入したのはお前だろ!
濡れタオルを構えて、再びエリックと対峙した。そして、さっきから感じていた違和感が何なのか、理解した。こいつ、悪魔のくせに魔法を一切、使っていない。金を取り戻したいのなら、例えば眠らせる魔法か何かをかけて、俺たちを静かにさせてから荷物を漁ればよかったのではないか? なぜこんなに手間のかかることをする?
テイラーもだ。俺は女風呂に駆け込みながら、ここでテイラーが爆発したらただでは済まないと思っていた。風呂場の床は濡れている。パニックを起こしたテイラーがフルパワーで電撃を発生させれば、敵も味方も感電する。さっき、びっくりするくらい絶叫していたのに、そのタイミングで電撃が起きなかった。
ここ、もしかして魔法が使えないのか? そういえば、更衣室にいたオークが「魔法も禁止だ」と言っていた。強制的に魔法が使えない、何かがあるのだろうか。それなら、ハーディーが空振りしていたこともうなずける。
「人のことを言える立場かよ!」
俺は先手に出た。魔法が使えないのであれば、こっちにも望みはある。タオルを振り回して襲いかかる。エリックが構え直した剣に、タオルは絡みついた。
「こんなもので!」
エリックはタオルから引き抜こうと、力任せに剣を振る。ふっ、あがけ、あがけ。濡れタオルは意外に丈夫なんだぞ。俺はそのままエリックに体当たりした。
「ぶっ!」
風呂場の床は滑りやすい。ただでさえ、ここの湯はツルツルしているのだ。転倒しそうになったエリックは、思わず剣から手を離した。よし! タオルをたぐって剣を手元に引き寄せる。見た目以上に軽い。これなら俺でも扱えそうだ。
「この野郎!」
エリックは床に手をついて姿勢を立て直すと、腰に差していた短剣を抜いて飛び掛かってきた。息をもつかせぬ攻撃だ。だが、そんなものは想定の範囲内。俺はここで、さっきからずっと左手に握っていた秘密兵器を使うことにした。濡れた手で握っていたので、ちょうどいい感じにヌルヌルしている。そう、石鹸だ。俺はお手製の石鹸を、エリックの足元目がけて投げつけた。
「!!」
ビンゴ! エリックは石鹸を踏みつけた。この床、そして石鹸。短剣を手に襲いかかったタイミング。全てがドンピシャだった。スローモーションを見ているかのように、エリックはツルンと足を滑らせた。滑った足が俺の目の前で高々と上がり、後頭部から床へと落下する。
ガツン!!
頭蓋骨が床にぶつかる実に痛そうな音が、浴室に響いた。おお、痛そ。これはただでは済むまい。最低、たんこぶ。最高、気絶だ。即座に立ち上がってくることを想定して、剣を構えた。すぐに動き出せば、トドメを刺すつもりだった。
エリックは大の字になってひっくり返っている。気を失ったのか? そろっと近寄ろうとしたところで「おお、痛てて……」とうめき声がして、上体を起こした。
「あ!」
誰かが声を上げた。周囲を見回すと、いつの間にか男風呂の客も女風呂の客も、そして温泉を管理していたオークたちも集まってきていた。みんなで遠巻きに、俺とエリックの対決を見守っている。そして、半分、口を開けて呆然としている。なかにはこちらを指差している者もいた。
「角が……!」
俺の近くにいたオーク(オス)が、指差した。その声につられて、エリックを見る。後頭部に手を当てて、顔をしかめている。俺から見て右側の角が、途中からポッキリと折れていた。ふと見ると、足元に折れた角が落ちている。俺はそれを拾い上げた。黒曜石のような立派な角だ。転倒した勢いで折れたのだろう。
「つ、角を折られた!」
振り返ると、浴室の入り口にいた悪魔たちが、わなないている。幽霊にでも出くわしたように、恐怖で顔が引きつっていた。なぜかそこにハーディーもいる。さっきまで切り合っていたんじゃないのか? なぜ一緒になって見ている?
「え……?」
エリックは俺が手にした自分の角を見て、そしてゆっくりと自分の角に触れた。
「に、逃げろ! 角を折られたぞ!」
悪魔たちは、エリックを残してあたふたと逃げ出した。ハーディーは、呆気に取られて見送っている。俺は角を手に、エリックに向き直った。エリックは目玉が飛び出すのではないかと思うほど、金色の目を丸くして、折れた角を見つめていた。
「角を折ったぞ」「人間の勝ちだ」「まさか人間が勝つとは」
周囲でオークたちがヒソヒソと話している。そういえば、悪魔にとって角はとても大切なもので、折られるのは最大の屈辱と聞いたことがある。角を折られたら、そこで勝敗が決まってしまうということなのだろうか。
「人間の勝ちだ!」
大柄なオーク(オス)が近寄ってきて、俺にニヤリと笑いかけた。大きな手で、ガシッと肩を抱かれる。
「人間が悪魔を倒した! 人間を讃えろ!」
オークが手を突き上げると、他のオークたちもオスもメスもそろって「人間を讃えろ!」と声を合わせて、腕を突き上げた。
なんだ、これ。どうなっているんだ?
「人間、しかも少年よ。悪魔相手に大したものだ。名前を聞かせてほしい」
オークが聞いてくる。
「え、名前? クリスだ」
俺は自分でも馬鹿かと思うくらい、簡単に名乗ってしまった。だって、魔族に名前を聞かれるなんて、初めてなんだもの。仕方ないだろう。
「クリス。クリスか。それだけか? 何か二つ名はないのか? 勇敢なクリスよ」
オークはさらに聞いてくる。二つ名か。いや、将来的には〝盗賊王の名を継ぐ者〟とかなんだけど、今はまだ、それを名乗るのは早すぎるしな。そういうことを聞いてくるのであれば、先に言っておいてほしかった。そうすれば、考えておくのに。口籠もっていると、オークはガハハと豪快に笑った。
「まだ二つ名はないか! では、俺がつけてやろう。〝角折り〟クリスでどうだ! 悪魔が恐れる二つ名だ!」
その瞬間、エリックがヒェッと小さな悲鳴を上げた。周囲は悪魔を追っ払ったことで、何やら盛り上がっている。ハーディーはオークたちに握手攻めに会っているし、テイラーもオークのおばさんたちに囲まれて、何やら話しかけられている。俺は夜空を見上げた。細い月が出ている。まるで鋭い刃物で切った跡のようだ。周囲の喧騒をよそに、そんなことを考えた。




