救いを語るなら
あれは祝福だったのか、呪いだったのか。
救いについて語るには、顧みるのも遅過ぎて。
あまりにも長い時間を生きてしまったんだ。
日没後の早い時間だった。外の空気を吸いたくて、テラスへと出る。
そこには先客が居た。
「早起きさんだね」
ランプの明かりを頼りに読書しているエヴァンジェリンだった。
俺は椅子を引き、背もたれを前にして座った。
「あら、兄様」
言うとエヴァは、読んでいた本を閉じる。
「ああ、邪魔する気はなかったんだけど」
それは本心。ただ、そこに居たから声をかけたという程度のもので、彼女に何か話があって隣に座ったわけでもなかった。
不意に、閉じられた本の表紙に視線が行く。見覚えのあるタイトルだった。
「前にも読んでただろう、これ」
「ええ。もう六回は同じのを読んでると思う」
きっとその本を気に入ったわけではない。あまりにも長い時間を生きる中で、退屈を凌ぐ方法すら尽きかけているという証明のようにも思えた。
それが分かるのは、俺自身もまたこの長い寿命を持て余しているから、なのだろう。
「兄様がそうなったのは、いつからだったかしら」
ふと思いついたように、エヴァンジェリンが疑問を零した。
ランプの炎が揺れ、彼女の睫毛に影を落とした。
それを見てから俺は、答えを探すふりをした。
「そうなった、とは?」
ただ、出てきたのは問い返す言葉になった。
「軽薄になった」
それだけが短く返ってくる。
「昔はもっと、こう……真面目だった気がしたもの」
思わず、笑いのように息が漏れた。
それが自嘲なのか誤魔化しなのか、自分でも分からなかったが。
「そういうエヴァだって。殆ど喋ることすらしなかっただろう」
「あれは……」
まだ子どもだったから、とでも言いたげな様子。
だが弁明するまでもなく、言葉に詰まるようだった。
「違うだろう?」
俺は彼女を見た。
「喋らなかったんじゃない。喋れなかった」
エヴァンジェリンが僅かに目を伏せた。
「あの時のエヴァは。ただ怯えていた」
「……そうね」
彼女は認めた。
「でも、今は違う」
「ああ」
俺は頷いた。
「今の君は、何でも言える」
「言わざるをえないようにしてるのはきっと、兄様よ」
言い、彼女は微かに笑った。
――あの日のことは。
どちらにとっても、遠い記憶の隅にでも追いやっておきたいものだったのだろう。
鋭い声、冷たい赤。あの場の空気の温度を、今でもはっきりと思い出せてしまう。
普段は決して思い出したりはしないこと、だったが。
「まあ。お互い、忘れた方がいいことだろうね」
「ええ」
居心地悪そうに、エヴァンジェリンは自身の髪を指先で弄ぶ。
「そういえば。あのお人形さんはもう、必要ないのかな?」
「いつまでも子どもだと思わないでほしいのだけど」
不服そうに、その瞳がこちらを睨む。
「ずっと抱えていたのに?」
俺は肩を竦めて言った。
「あの日も。その後も、ずっと」
エヴァンジェリンはすぐには答えなかった。
静かに息を吐き、閉じた本の縁を指先でなぞる。
「……あれは」
一拍置いてから、言葉を探すように続ける。
「お人形、というより……お守り、だったの」
「お守り?」
「ええ」
視線は上がらない。
「あれがあれば、って思えたの。少なくとも何かが、傍にあるって」
曖昧な言い方だった。
それ以上を言えば、自分がどこまで弱かったかを認めることになるからだろう。
「でも、もう必要ないの」
「なぜ?」
今度は、間を置かずに返ってきた。
「兄様が居るからよ」
当然のことのように言って、ようやく彼女はこちらを見る。
「こう見えても、立派な淑女のつもりなんだから」
あの頃は、まだ見た目通りの子どもだった。
けれど今は、気が遠くなるほどの時間を経て――確かに変わった。
「それでも俺にとってのエヴァは、いつまでも“可愛い妹”のままだよ」
椅子に寄りかかったまま、俺は笑った。
本心だった。
だからこそ、彼女の言う“軽薄”に包まなければ、口に出来なかった言葉だ。
「……もう」
呆れたように頬を膨らませる。
だが、怒っているわけではないのは明らかだった。
他愛のない話だった。
ただ、退屈の紛らせ方としては中々に健全でありつつも、少しの棘も感じられるような時間だった。
ふと、エヴァンジェリンが言った。
「兄様は、両親のこと……愛してた?」
問いかけというにはあまりにも静かで、呟きにしては明確に問いかける形を持つ声音だった。
「……嫌いじゃなかったよ」
救われはした。死ななかった、あの時はそれで充分だった。
そこに感謝していたし、恩も感じていた。敬意も抱いていただろう。
ただそれを愛と言い切れるほどの自信を、俺は持てなかった。
「けど、そう言い切れるほど単純でもないかな」
複雑な胸中などお構いなしとでも言わんばかりに、夜風は心地良く。頼んでもいないのに、薔薇の香りを運んでくるほどだった。
答えに迷う俺は、誤魔化したかったのだろうか――誘われるように庭の方に目を遣った。
「雛鳥が初めて見たものに懐くそれと、変わらない気もしてさ」
ただ両親は血の繋がりなどない俺たちに、よくしてくれた。それは嘘偽りのない愛情とも感じられはした。
「私は……好き、だったと思う。そう信じたい」
エヴァンジェリンの答えを聞いた時、それを雛鳥に喩えてしまったことを少しだけ後悔した。
俺の言葉の後にも、彼女はそう信じたということだろう。
暫し沈黙が落ちた。
エヴァンジェリンも、立ち上がり俺の隣に立った。
満開の薔薇。不自然なほど整えられた庭――この城には、庭師など居なかったはずなのに。
その疑問をどこかで抱いていたのに、いつも気にするのはほんの一瞬の、些細な違和感と捉えていた。
「ねえ、あれ」
エヴァンジェリンが何かに気付いたようだった。
彼女が指差した先に、なにか白い影が動いたように見えた。
「ああ、あれは――」
この時ようやく、違和感の答えを得た気がした。
幽霊の仕業だったのだ。
こんな夜更けに、誰にも見られず――知られることもなく。
「あの子。碌に知りもしない癖に……」
呆れたようにエヴァンジェリンが言う。ミハイルに対し、辛辣な彼女は相変わらずだった。
知識もない癖に、庭を弄っているというたったそれだけのことが彼女の癪に障ったのだろう。
「けれど、咲いてる。……それだけは確かだよ」
俺は口を開いていた。落ちてきた言葉に、彼女は少しだけ驚いたような顔を向けた。
自分でも少し、意外とも思った。これではまるで、あの落ちこぼれを擁護するみたいで。
「……そうね。それは、確かなこと」
彼女もまた、あの場所を顧みることすらしなかったのだから、それを言う資格が無いと思ったのだろう。
それ以降ミハイルのことには触れず、何度も繰り返したあの本をなぞることに帰っていった。
かつて理想の家族ごっこの為の駒に過ぎなかった、俺と彼女と。
同じ場所に立って、同じ景色を見ていた。
あれが救いだったのか、呪いだったのか。そんなことは、今更確かめようもない。
ただ、ここで生きるしかなかったという点だけが一致している。
皮肉なことに、それだけの共通項が俺たちを兄と妹にした。
――それが不幸だったのかどうかを、俺は今も決め切れずにいる。




