生き延びること
与えられたのは、果たして救済だったのか。
生き延びてしまったのは、自分の意志だったのか――それすらも、分からなくなっていく。
「悪くない」
鏡に向かって一人、そう呟いていた。
赤い髪、碧の瞳。
生前はどんなだったか、……もっと地味な容貌だった。造形は殆ど変わらないにしても。
これが新しい自分。
人間だった時よりも、遥かに長い時間を生きる俺の姿。
襟元を整え終わったタイミングだった。不意に、扉を叩く音が聞こえた。
「おや。君は……“妹”、だったか」
曖昧な問いかけになったのは、この時初めて妹と相対した瞬間だったからだ。
赤い髪の少女は俺を一瞥したと思えば、目を伏せるようにして言葉もなく頷いた。
その感情を表現するなら、照れとか。人見知り、なのだろうか?
どう接すれば良いか、お互い探り探りな空気であることは確かだった。
「ええと……」
「エヴァンジェリン」
妹はそう名乗り、微かに頷いた。
「ああ。よろしくね、エヴァ」
「……パパとママが呼んでる」
それだけ言うと、逃げるように去っていった。
まだ子どもだろうから、それも仕方のないことと思った。
これから長い時間を家族として過ごすことになる。だから今はまだ、この距離感なのだろう。
赤の他人にいきなり、今日からお前の兄だと言われても、素直には受け入れられないことだろうから。
けれど俺はこの時。戸惑いより、緊張と妙な期待に心が浮かされていた。
両親の娘の結婚相手として、俺はここに連れてこられた。
家が没落し、市場に流された俺を母上が掬い上げてくれた。
俺は死にたくなかった。あの瞬間、ただ死にたくなかっただけだ。だから、選んで欲しい一心だったことだけは覚えている。
同じ檻の人間たちは絶望し、怯える中で。ただ必死に選ばれたくて命乞いをした。
吸血鬼に飼われるのであれば、一思いに殺されるでなくて。少しは生き延びられるだろうと考えたからだ。
他の何かに食われるよりはマシだ。生き延びさえすれば、逃げるチャンスもあるだろうと思った。
しかし彼らは、俺を“食糧”として買ったわけではなかった。
俺は檻から出された後に、彼らの思惑を聞かされた。
どうやらこの二人は、俺を息子にしたいのだという。
血を吸われ、殺されるか。或いは、彼らと同じに吸血鬼にされるという伝承。
人間から吸血鬼に転化した存在を、眷属という。
二人には娘が居て、その結婚相手として俺をヴァンパイアにしたいのだと。
この二人の娘だというなら、相当に美しい女性であることは想像に難くない。
だからこそ緊張していた。
「大丈夫でしょうか」
廊下を歩く中、俺は不安を漏らしていた。
隣を歩く父上が、慰めのように肩に手を置く。
「そう緊張するな。きっと気に入るさ」
後に続く母上と、エヴァンジェリンの足音と。それが自分自身の心臓の音にも思えた。
大広間の扉が開けば、そこに居たのはリュセリエ家の一人娘――ニカエラ。
まだ歳の若い、二十歳そこそこという容貌。
両親と同じ特徴。白い肌に、白い髪、赤い瞳。
俺は一瞬にして、目を奪われた。
なんて美しい。この女性が、俺の妻になる――そう思えば、息も忘れてしまうほどだった。
「ただいま、ニカエラ。一人にさせてすまなかった」
「おかえりなさい」
父上はニカエラと抱擁を交わした。その姿を俺はただ、立ち尽くして見ているだけだった。
どうしてか、そこに入り込む余地すらないほどの光景にも思えた。
ひとしきり再会の喜びを分かち合った二人が離れると、ニカエラの視線が俺達を捉えた。
「この方々は?」
その声は、先ほどの父親に向けた言葉よりも少し冷えて聞こえた。
警戒、だろうか。まだ彼女にとって俺達は、見知らぬ誰かであるから。
それも納得出来ることではある……が。
彼女の声に、エヴァンジェリンが母上の影に隠れるように身を引いた。
ニカエラから向けられた視線がどこか鋭く感じられたのは、エヴァンジェリンも同じだったのだろうか。
「ニカエラ、紹介するわ。こちらがレオナールと、エヴァンジェリン」
母上に優しく背中を押され、俺は一歩前に出た。
同じに前に出されたエヴァンジェリンは、その腕に人形を抱え俯いていた。
「あなたの夫と、妹になるの」
この場合。どうするべきか、考えるなら。人間だった頃に学んだ所作をふと思い出す。
膝をつき、ニカエラの手を取ろうとする。
しかし彼女はそれには応じなかった。
「……夫?」
俺は顔を上げ、何か言葉を探そうとした。だが喉の奥でそれは絡まり、形になる前に潰えた。
ニカエラの視線が、俺の髪と瞳へと向けられていた。
逃げ場のない赤の冷たさに射抜かれ、思わず息を詰める。
値踏みするように見られているのだと理解した瞬間、言葉を探していたはずの思考が静かに止まった。
「冗談じゃない。どうして、眷属なんかと」
吐き捨てるような声が広間に響いた。
隠すことのない嫌悪に、俺は視線を落とすしかなくなる。
鼓動が、嫌な意味で速くなる。息が上手く吸えなくなっていた。
それは想定していなかった反応で、“大丈夫”とまで言われたのに。
……実際には、そうではなかった。
「ニカエラ、聞いて――」
母上が声を掛けたが、
「私の気持ちは? 私の意志は、どうだっていいの?」
息巻くようなニカエラの言葉が、続けるのを許さなかった。
「私が望んだわけでもないのに。勝手に、夫なんて用意して」
「ニカエラ、お前の為を思って」
「私の為ですって?」
父上の声すら、彼女には届いていないようだった。
ニカエラは俺を見下ろしたまま言葉を続ける。
「この人、純血ですらないのよ。元は人間なんでしょう?」
その一言に、エヴァンジェリンの身体がびくりと揺れた。
母上の影へと怯えるように身を寄せる。
「私はリュセリエの血を引く、唯一の娘よ。なのに、どうして眷属と結婚しなければならないの?」
「レオナールは由緒正しい血筋の、優秀な――」
「それが何だというの?」
ニカエラは冷たく笑った。
「自分の相手くらい、自分で選べるわ。相手も、時期も……それなのに」
言い終えると同時に、その表情は険しいものへと変わった。
「お父様もお母様も、私のことなんて何も考えてない。……大嫌いよ!」
そう言い捨て、彼女は踵を返した。
広間を出て行くその背中を、母上が慌てて追う。
父上と、エヴァンジェリンと、俺だけが残された。
誰も、何も言えなかった。
どこかでこうなる気はしていた。
見ず知らずの相手を今日いきなり夫と思えなどというのは、少々乱暴なことだ。
けれど貴族社会では珍しいことでもなく、それはヴァンパイアであっても同じものと勝手に想像していたのだが。
ただその拒絶の理由が、眷属であるという一点。
ニカエラは最初から俺を見てすらおらず、記号として捉え、そして自分には相応しくないと突き返した。
赤い髪に碧の瞳――彼ら純血の特徴とは、決して交わることのない色彩にも思える。
あまりにも鮮やかすぎ、あまりにも毒々しく。それがまるで、烙印のように感じられた。
俺はこの時、ニカエラに一目惚れしたのだろうが。
それもすぐに否定され。その瞬間にはもう、諦めていた。
これから先どれほどの時間が経とうとも、彼女が俺に靡くことは一切ないのだと。
俺は決して本物には成れない存在であるが為に。だから、期待することなど、早々に辞めてしまった。
あの瞬間には確かに、生き延びたかった。
だが実際に生き延びた結果、気が遠くなるほどの年月を生きても、いつ死ねるかも分からない身体になってしまったこと。
……それを思うと、あまりにも気が重くなるのだ。
これを幸運だと思った。俺自身が掴み取ったのだと、信じた。
この先の事を思えば思うほどに、空っぽの胃が捩れるようで。思わず口許に手を遣るしかなくなる。
「二人には嫌なところを見せてしまったね」
父上が申し訳なさそうに口を開いた。
「良いんです。彼女の気持ちも分からないでもないですから」
「だが……」
短い否定だったが、そこに様々な思いが込められていることを感じ取れた。
こんなはずではなかったこと。俺たちを眷属にしてしまったこと。
恐らくは、どうしようにも取り返しのつかない後者についての自責の念が、彼に苦い顔をさせている原因だろうことが伝わってくる。
暫くして母上が戻ってきた。
疲れた顔で静かに首を横に振る。その仕草だけで、全てが分かったような気がした。
母上は、彼女に全て説明をしたという。
女子であるニカエラに家を背負わせることを酷だと思ったこと。
男児が居れば話は簡単だ。だが、そうはいかなかった。
結果、両親は養子を迎えるしかなかった。一人娘の婿を用意するという形で。
夫を支えることで、ニカエラにも家に貢献している実感を与えられただろうこと。
それを意図してのことだったが、全て裏目に出てしまったのだと。
父上が、静かに問う。
「あの子は何と?」
その問いかけに母上は俯いた。
そして一つ、深く息を吐いた。それを言うことに躊躇いがあるかのように。
「……『私を信用していないのね』って」
震える母上の声。
父上が隣で静かに息を呑んだ。
「そうか」
その一言を境に、部屋は再び重い沈黙に沈んだ。
ふと、エヴァンジェリンの方を見る。
彼女は何も言わず、ただこのやり取りを聞いていた。
腕の中の人形を、壊してしまいそうなほどに強く抱き締めている。その仕草だけで、彼女もまた不安の只中にいるのだと分かってしまう。
母上もそれに気付いたのだろう。静かに歩み寄り、エヴァンジェリンを包むように抱き寄せた。
――散々話し合った末に。
両親が説得を重ね、ようやく一つの落としどころに辿り着いた。
俺達はニカエラの弟妹としてなら、リュセリエ家に居られる。
家督はいずれ一人娘であるニカエラが継ぐ。その時、俺達は弟妹として彼女を支える。
その約束を受け入れるなら、リュセリエの一員として認める――そういう結論だった。
「構わないです、それで」
俺は笑顔を作り、そう答えた。隣でエヴァンジェリンも、小さく静かに頷いて。
受け入れた。
……いや、受け入れて貰ったのだ。
この立場を選ぶなら、余計な希望も期待も、最初から持たない方がいい。
彼女の弟として存在すること。それだけがここに居る理由として許される。
それで充分だと、自分に言い聞かせた。
もしここで拒んでいたら。
碌に知りもしないヴァンパイアの身体を持て余したまま、生きていけただろうか――自信がない。
渇きを覚えていた。
人間だった頃の空腹とは比べものにならないほどにもっと切実で、もっと本能に近い衝動。
これを満たす方法を、俺はまだ知らない。
だからこそ、この家に置かれることが最善で最良の、生き延びる為の方法なのだと――俺は、そう感じていた。




