概念に恋をし、その名を呼ぶまで
人ではなく、概念を愛した。
その恋が終わるまでに、幾つの名前が失われたのか。
私はただ、彼女に選ばれる“闇”になりたかったのだ。
むかし、ある少女がいた。
クラリカという名の、心の優しい少女だった。
彼女は世界に愛されなかった。
人と違う力を持って生まれた彼女を、世界は恐れ、遠ざけた。
だから彼女は、闇の存在と契約を結んだ。
闇は彼女を選び、彼女は闇に身を委ねた。
それが魔女の起源であり、原点と伝えられている――
その物語に初めて触れた時だった。私はクラリカという存在に強く惹かれることとなった。
人はそれを、単なる童話と笑うだろう。
しかし私はそれを真実の物語だと捉えた。クラリカという原初の魔女――その神話であると、これを信じたのだ。
だがこの物語は、断片的にしか残されていなかった。伝えられる過程で、人々の記憶からは抜け落ちてしまったのだろう。
特に人間は、魔力を持って生まれた同族をも虐げ排斥してきたのだから。その物語が語り継がれることは、ひどく都合の悪いことだったんだろうと推測する。
もし、自分たちの虐げる存在がこのクラリカのように。
闇の存在と契約でもしたのであれば、虐げられた側の魔女が災厄として完成してしまうから、だ。
であるなら、この物語の断片を識る私自身が望むのはこの、“クラリカ”という魔女の再臨だった。
排斥され、忘れ去られた存在。
人々の記憶に残らず、彼らが虐げたその事実すらも無かったことにされた。
――あまりにも不憫だろう。
憧憬を抱いた存在が、そのような末路を迎えることに私は耐え切れなかった。
遠い昔に確かにそこに居たはずの魔女。それを、私の手で再現すること。
彼女の存在の証明であり、彼女を排斥した世界への復讐。
彼女はきっと、この世界を恨んでいたに違いないのだ。
だからこそ彼女を再臨させる。そして私が彼女に選ばれる闇となること。
私が一番憧憬を抱いたのは、その“闇”に対してなのかも知れない。たった一人の少女に選ばれ、彼女を魔女たらしめた存在に。
自分こそがその相手に相応しいと感じたのだ。
自分であれば、彼女を完成された災厄に仕立て上げることが出来る――その自信があったのだから。
それを自身の使命であり、命題とまで信じていた。
同じようにクラリカになり得る素体を得、教育を施した。
最初の一人目は失敗に終わった。恐怖で縛り付けてしまったからだ。
私から逃れようと、彼女は自壊したのだ。
私はただ、黙ってその結果だけを冷めた瞳で見つめる他なかった。
そこにあったのは失望、だろうか。彼女が選んだのは、私でなく死の方だった。
それでも私は、これを間違いだとは思わなかった。彼女が弱かっただけ。適合しなかっただけだ、と。
だから、次はもっと質の良い、クラリカに相応しい素体を探すことにした。
私は悪魔だ。その本質はどこまで行っても変わらない。
残虐性、狡猾さ――そういったものを隠せるほど、当時の自分は出来ていなかった。
次第に考えを改めることとなる。二人目、三人目と……失敗が続く中で。
何故失敗するのか? その原因を自分なりに考えた。
何度もクラリカの物語を読み、反芻し、理解を深めたはずだった。
そして気付くのだ。
彼女と契約した闇の存在は、決して彼女を力で屈服させることはしなかった。
“それ”は選ばれたのだ。クラリカから選ばれ、彼女と並び立つ存在になった。
そう、選ばれなくてはならない。その前提にようやく、私は気づけたのだ。
だから私がするべきこと。
その支配の方法を改めること。縛り付けるのでなく、離れられなくする。
私自身の表面の整え方を学んだ。
恐怖を与えない為の温和な顔つき、与えるという優しさ。
彼女の使い魔となった“闇の存在”の姿は、はっきりとは描かれていなかった。
それが何なのか――男であるのか女であるのか、実在のものか概念であるのか――その一切は謎のままだ。
ただ一つ確かなのは、孤独だったクラリカの隣で、“それ”だけが静かに息をしていたこと。
拒むこともせず、抱き寄せるでもなく……ただ、隣に在ったのだと。
だからこそ、私もそのように在らねばならなかった。
最初こそ拒否感が勝った。
強烈な自己否定だった。これは自分などではない……優しさを演じることを強く拒絶する自分がそこに居た。
それを隠しながら、微笑みかける。
……次第に慣れていった。それこそが自分だ、とまで言えるようになった。少々粗野であった頃の私自身を、批判出来るほどに。
行使するべきは力ではなく、計算された優しさ。
それで包み込むのが、逃さず選ばせることの第一歩だった。
四人目のクラリカ。彼女は、従順だった。
私に対し恐怖することもない。だから、この転換が正しかったことを裏付ける存在として、私は彼女を記憶していた。
ただこの従順が度を越していた。
彼女は私を欲した。ただの男として、私を見てしまっていた。
……堕落したのだ。魔女として学ぶことを放棄し、ただの女として在ることを強く望んだ。
私は拒んだ。越えてはならない一線を踏み越えてしまいそうな危うさを、遠ざけようとした。
それが決定打だった。私が拒んだことにより、彼女は狂ってしまった。
そうなれば私自ら処理しなければならなかった。
手がつけられなくなっていた。だから、仕方がなかった。
次は間違えない、そう強く決意したことを覚えている。
が、しかし。
五人目、六人目と……繰り返すのだ。
その内に、拒否するのでなく応じた場合どうなるか――私は試した。
一度越えてしまえば、後は気にすることもなくなった。
支配の形としては完璧に思えたが、同時に堕落する危険性には目を瞑るしかない方法だった。
分からなかった。けれど、これが正解に近いのだと感じたのは、後に続く誰もが「逃げ出さなかった」こと。
ただ、魔女としての本分を忘れさせない為私が施すのは。“間違い”の事実を、その記憶から消し去るという手法だった。
愛されようとした記憶を、そしてそれを受け取った私の姿を、彼女たちの記憶から抹消する。
だがそれも完全なものではなかった。完全だったとしても、一度関係を持ってしまえば理想との乖離を覚えてしまう。
こればかりは私自身の問題だったのだろうか。
だが、十三人目――ゾラという少女だけは、他と少し違った。
初めこそ警戒感を露にしていた。しかし、日が経てば彼女は私を自然と受け入れた。
四人目からそれ以降と同じに、私に好意を抱いているのは明らかだった。
けれど彼女は、私の教える知識を吸収し、学ぶことをも楽しんでいるように見えた。
それは私に認められたかったという気持ちから、だろうか。
兎に角優秀な素体であると、私はゾラを見ていた。
ただ、ゾラは好奇心が強すぎた。
私がひた隠しにした過去の痕跡に、自らの足で辿り着いてしまったのだ。
入ってはいけない、そう教えたにも関わらず。
そしてその扉の鍵も、強固な封印を施していたはずであったのに、いとも容易く解いてみせた。
……才能、だろうか。
思えば、彼女を見つけたあの夜に私は私自身の過去を思い出しそうになっていたのだから。
私という悪魔の本質――隠すことに慣れたはずの欲を、剥き出しにされそうになるほど甘美で、匂い立つ質の良い魔力。
してはならない事をすれば罰し、その記憶から消した。
けれども、何度も繰り返すのだ。消したはずの記憶に呼ばれるように、あの部屋へと彼女は侵入を繰り返した。
その直後に見せる彼女の、恐怖に染まる顔……それが忘れられない。
普段、あんなに穏やかに笑いかけるクラリカが、私を拒絶する時のあの目。
あれを見ると、私というのは決して選ばれることがない存在なのだと突きつけられたようにも感じたのだ。
そんな思いを抱いて日々を過ごしていた、ある日のこと。私は一つの質問を、彼女に投げかけた。
「クラリカは……人間たちが、憎くはないかい」
一瞬その言葉の意味が分からなかったのか、彼女はきょとんとした顔で私を見た。
けれどすぐ困ったような微笑みを私に向けたのだ。
「そんなこと、どうでもいいの。わたしはただ、グラムと一緒に居られるだけで幸せなんだもん」
その言葉を聞いた瞬間に脳裏に浮かんだのは、「失敗」という言葉。
だが、どうしてか私はこのゾラを失敗とは認めたくはなかった。……そういうところにまで、来ていた。
思えばこの時既に、私の目的というものがすり替わってしまっていたのではないか。
私はこの瞬間、彼女を強く抱き締めた。
ここで決定的に間違いを犯した。魔女として完成させるのでなく、彼女を伴侶にしようなどという判断。
どこまでも私的な願望、その方へと舵を切ってしまったこと。
私自身が堕落し、逸脱してしまった瞬間だった。
だからこそ、この後のことも――それは必然だったのだと、受け入れられた。
闇色のドレスを纏った彼女は、綺麗だった。
私の本来の姿、それを思えば……黒を纏った彼女の姿が、花嫁として相応しかった。
感慨深いものだった。永遠の契り、その神聖な場での倒錯。
私は無防備だった。まさか、愛する彼女に殺されるだなんてことを、欠片も考えてはいなかった。
それほどまでにゾラの演技は完璧だった。私を愛してくれているのだと、信じ込ませてくれた。
だからこそ、事切れる寸前まで彼女のことが愛しくてたまらなかった。彼女がずっと隠してきた本音をその口から聞かされようとも、その想いは変わることはなかった。
彼女の手で殺されること。それすら、受け入れられてしまうほどに。
最期にあったのは、確かな喜び。
溶け合い、一つになれたという実感だった。
それは想定していた形とは少し違っていたが、私は満足していた。
私の中にあったものは、すべて彼女に渡った。それでようやく、この長い試みは終わったのだと知った。
私は最期の瞬間まで、クラリカを追い求めていたのだと思っていた。
だが死の間際に口をついて出た名は、ゾラだった。
それが何を意味するのかを考えるほどの時間は、もう残されていなかった。
ただ、もう何も続けなくていいのだという安堵だけが、確かにそこにあった。
ずっと一緒に居られるというのは――きっと、こういうことだったのだろう。




