虚像と憧憬
父という理想の姿を借りて、彼女の隣に立つ。
向けられた純粋な憧憬に、偽りの俺はただ視線を逸らすことしか出来なかった。
お前が見ているのは、俺じゃない。
「またその姿なんですね」
鏡の前で身支度をしていた俺の背に、ヴァレリアの声が投げかけられた。
振り返ると、彼女はどこか居心地が悪そうにこちらを見つめている。
「あの場には、この姿の方が相応しい」
言葉を返せば、彼女は僅かに眉を寄せた。
「……言葉の通じない相手を連れているなんて、そう思われたくはないだろう?」
魔女たちの視線は、時に残酷だ。使い魔の姿ひとつで主人の格が測られる。
俺がこの老いぼれた男の姿を借りているのは、彼女を守る為の、或いは彼女の隣に立つ為の最低限の武装でもあった。
「それに、あの香には耐えられない」
会場に焚かれる催淫香や媚薬の類。
あれは獣の鼻には不快を通り越し、暴力的に過ぎる。
「そう、ですね」
ヴァレリアは力なく同意し、指先で自らの髪を弄んだ。
無意識の癖だ。何度も、何度も。
まるでその感触だけで、迫りくる不快な現実から気を紛らわせているかのようだった。
「……何か気になることでも?」
俺の問いかけに、彼女は一瞬だけ視線を泳がせた。
「いえ、別に……」
嘘だ。何かを気にしていることは、その指先の忙しない様子が雄弁に物語っていた。
魔女の会合。あの場の空気を彼女が忌み嫌っているのは、今に始まったことではない。
だが、今回に限っては、いつもの気乗りの悪さとは違う落ち着かなさが彼女を支配しているように見えた。
であれば、理由は一つしかない。
「ゾラのことか?」
俺は問うた。
ヴァレリアの指先が一瞬だけ止まる。
「……ええ。ちゃんと、来てくれるのかなって」
返る声には、隠しきれない硬さが混じっている。
ゾラという魔女の印象は。無表情であるが故に、何を考えているのかまるで掴めない。
会合を何かと理由をつけ欠席する彼女を、今回こそは引っ張り出してこいという上層部の命令だった。
この一帯を取り纏める立場にあるヴァレリアが直々に、参加の約束を取り付けに行ったのがつい先日のこと。
もし彼女が姿を見せなければ、ヴァレリアの立場も危うくなる。
「きっと来るさ。ヴァレリアにも責任が降りかかるのは不本意だと彼女も――」
俺が言い切るより先に、彼女が言葉を遮った。
「そうじゃなくて」
縋るような視線が俺の顔を――いや、鏡の中の男の姿を射抜く。
「ゾラが、ちゃんと……使い魔を得られたのか。それが心配なんです」
ああ、と。納得の吐息が俺の口から零れ落ちた。
ヴァレリアは自分の立場など二の次にしている。
というのも、これまでヴァレリアはゾラの為に幾度となく便宜を図ってきた。
使い魔を持たない異端の魔女の秘密を――魔女とは認められない、使い魔の不在という秘密を守り通してきたのだ。
「……心配するな」
俺は言った。根拠などどこにもなかったが、そう告げるしかなかった。
「彼女なら、なんとかする」
「そう、ですね……」
ヴァレリアは小さく頷き再び視線を床に落とした。
だが、髪を弄ぶ癖は止まらない。その不安が消えていないことは明らかだった。
鼻を突く匂い。
この甘ったるい匂いの正体をまざまざと見せつけるように、会場のそこかしこでは魔女と使い魔がまぐわっていた。
だからこそ、ヴァレリアも俺もこの会合を忌避している。
足早に人気のない会場の端を目指す。
通り過ぎる間、誰の目にも自分という存在は留まらなかった。色に狂った魔女たちの目には、老いぼれた男の姿など透明にも等しい。
認識さえされない――それで良かった。
この姿を取ったことは正解だったのだと思える。
だが、見た目だけを取り繕おうとも、中身が伴っていなければ。
俺の掲げる理想など、鼻で笑われるような陳腐なものでしかない。
人波を抜け、ヴァレリアはようやく落ち着けたと言わんばかりに一つ溜め息をついた。
「……嫌になりますね」
「ああ」
短く返しかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
この場に、この姿に相応しいのは、もっと穏やかで落ち着いた口調であるべきだ。
「……ええ」
言い直す。父の姿に見た理想は結局のところ、意識しなければすぐにボロが出そうなほど脆い虚像でしかなかった。
なるべく周囲へ目を向けないよう、お互いに意識している。
そんな重苦しい沈黙だけが二人の間に落ちていた。
ヴァレリアは会場を見渡すようにゾラの姿を探していた。しかしその姿が認められず、再び視線を床に落とす。
それを何度繰り返した後のことだろうか。
一組の男女が、こちらへと確かな足取りで歩み寄ってくる。
――ゾラだ。
あの異端の魔女。そしてその後ろには、一人の青年が従っていた。
銀髪に赤い瞳。
一見しただけではその正体が何か分からなかったが、病的に青白い肌を見るに、吸血鬼の類であることは察せられた。
互いに名乗る段階で、青年がかつての名家――リュセリエ家の出であることを知る。
それならば、通常のヴァンパイアとは違う彼特有の気配にも納得がいった。
だが。
「あなた、ファミリーネームがあったのね」
名乗った青年――ミハイルに対し、ゾラが何でもないことのように呟いた時。
ヴァレリアも俺も、思わず息を呑んだ。
俺はそれを顔に出すことだけは避けたが、内心の驚きは小さくなかった。
実力だけを見るのであれば、ゾラは高位の魔女にも引けを取らない。彼女から感じる底の知れない魔力の質が、それを証明している。
力の規模で言えば、ヴァレリアとは比べ物にならないほどの上位存在だ。
けれど、使い魔として契約しておきながら、その素性すら碌に知らないというのはどういうことか。
他者に対してそこまで興味を持てないゾラのことを、規格外や異端という言葉だけで片付けていいのか。
彼女はどこか、決定的に“欠けている”――そう感じざるを得なかった。
ふと、視線を感じた。
ヴァンパイアの青年、ミハイルが俺を見ていた。
名乗りが終わってからのことだ。
その戸惑いがちな佇まいを見るに、使い魔になって日が浅いのだろう。
彼の瞳に宿っているのは、言うなれば尊敬か。
いや、それよりも憧憬に近い。まるで、自らの理想を投影するかのような真っ直ぐな眼差しだった。
俺はその視線を真正面から受け止めながら、内心で強く否定する。
違う。
お前が見ているのは、俺じゃない。
この老いぼれた姿はただの虚像だ。
中身は、青臭い理想に縋りついているだけの、何者にもなれない獣でしかない。
だが、俺は何も言わなかった。
言えなかったのだ。
彼の中にある“理想の使い魔像”を無惨に壊すことが、どれほど残酷なことか――それを分かっていたから。
だから俺は、ただ視線を逸らす。
……それだけだった。




