耳を塞いで
契約の夜、彼に望んだのは「今まで通り」でいること。
けれど、それを壊す言葉が零れ落ちた。
聞かなかったことに出来たなら――この約束は、まだ守れたのかもしれない。
「ああ、またですか」
少しの苛立ちに独りごちてしまった。
家の建付けが悪いのは、昔からだ。
ここは元々、おばあちゃんの住まいだった。
その頃からずっと、玄関の扉はどうにも調子が悪く……開けるのにも閉めるのにも、コツが要るものだった。
「リッヒ。居ますか? ちょっと来てください」
呼びかければ、どこからともなく彼は現れた。
私の影のように傍に付き従う、使い魔のゲルドリヒ――消炭色の体毛を持つ犬のような姿だが、れっきとした魔獣だ。
「どうした。また調子悪いのか」
「ええ。この際だから、修理して欲しいんですけど……出来ます?」
何気ない問いかけだった。
「おばあちゃん、言ってましたよ。『我が家では、これは使い魔の仕事だ』って。貴方のお父さん、やってましたよね?」
少しだけ意地が悪かったかも知れない。
ゲルドリヒは、父親を引き合いに出されることに滅法弱いのだ。
彼の目指す使い魔の理想が、彼の父そのものであることを私は知っていたから。
「魔法で直すのでは駄目なのか?」
「こういうのは手でやったほうが良いって。それもおばあちゃんが」
人間ならきっと、溜め息をついていただろうところ。
観念したように、彼はとぼとぼと裏の庭へと歩いていく。
「どこへ?」
分かっていたことだった。けど、なんとなく聞いてしまった。
「準備だよ。このままじゃ手を使えない」
彼は、その姿を変える瞬間を誰の目にも触れさせないようにしていた。
それは個人的なことなのであまり追求出来たものではないけれど、どうしてここまで隠したがるのか――
私はなんとなくその答えを知っているような気がした。
裏庭へと回り、ヴァレリアの目がないことを確認する。
人の姿を取るということは存外にも消耗することだ。
自分の外見をそのまま作り変えるということ。獣の姿のままでは、扉の修理なんてものは不可能なことだから……仕方のないことだが。
何故魔法では駄目か? それはきっとヘレグリナがこれまで何度も試したからこその結論、なのだろうが。
それを父が直していたことは、俺自身の記憶にもあったことだった。
父は彼女の祖母の使い魔だったが為に。
ただ、何度直してもあの扉は元には戻らない。
不満を抱えたまま使うのであれば、いっそ新しくしてしまえば良いのにと俺は昔からそう思っていた。
池の水面に目を向ける。
そこに映るのは――ヴァレリアと似た特徴を持つ、男の姿だった。
無意識に人の姿を取ろうとすると、いつだってこうなる。
俺自身の自認が“ヴァレリアの兄”のままなのだから、自然とそうなってしまう。
(これでは駄目だ)
思い直し、再び魔力を集中させる。
彼女の前では、この姿を二度と取らない。あの夜にそう決めていたというのに。
そして頭の中で思い描くのは、自分の考える使い魔の理想。
かつて彼女の祖母ヘレグリナに仕えた、俺の父親の姿。
再び水面に映ったのは、灰の髪を持つ、赤い瞳の枯れた老人の姿――
それこそが俺の思う、使い魔に相応しい忠義の完成形だった。
「グルヴァルド……? って。ああ……」
再び現れたその姿を見て、私は別の名前を浮かべた。
それがあまりにも、記憶の中の彼の父そっくりの姿だったものだから。
「どうしてわざわざ」
さっき、私がわざと彼の父を引き合いに出したせいだろうか。
だから皮肉のように、この姿で?
「前にしなかったか? あの人こそが、俺の理想だって話」
少し困ったような顔で笑い、彼は淡々と扉を直し始めた。
きっと、彼の記憶の中の父親の姿をそっくりそのまま、なぞるような動きで。
私は何も答えられなかった。
それを知っていて、当てつけだと決めつけたがっていたから。
「……頼みましたよ」
やっとのことで選んだのがこの言葉だった。
それだけ言い終え、彼が頷いたのを確認すると、私は自室へと引き上げた。
部屋に戻り、色々と考えてしまっていた。
手伝うべきだっただろうか、と。以前の私なら、きっとそうしていた。
けれど、彼は彼の中の理想そのままを持ち出してきた。
いつだってそうだった。
魔女の会合に参加する時も、その理想を体現する姿で私の隣に在った。
ただ思い出すのは。
幼い頃は、こんなではなかった。
血の繋がりは無かったが、本当の兄妹のように……彼も私と似た、少し年上の男の子の姿で。
契約の夜だって、違った姿だった。
私と同じように、一緒に歳を重ねたような姿でいて――
そこまで思い出してしまえば、胸の奥がずきりと痛んだ。
あの夜のことは忘れようと思った。
それを思い出して、一人苛まれてしまう。
魔女になりたいってのは、本当の望みだった。
おばあちゃんがそうだった。だから、自分もいずれそうなるのだと、疑いもしなかったから。
お母さんはその夢を否定した。
彼女は魔女でなく、人として生きることを選んだから。
だからおばあちゃんから離れて暮らしていて。
でも私は、おばあちゃんが好きだった。だからおばあちゃんのようになりたかった。
けれどこれは。
本当に私が望んだこと、だったのだろうか。
目の前に居るのは、本当の兄のように慕っていた彼。
私と同じ藍色の髪に、薄紫の瞳の、ゲルドリヒ。
身体の奥に鋭い痛みがあった。そうすることが、初めてだったから。
けれど触れられることは嫌ではなかった。彼の手は、ひたすら優しくて。
身体が震えて。
怖さを認めれば、髪を撫でてくれた。幼い頃、泣いていた私にしたのと同じように。
そんな彼を、心から慕っていた。慕っていたんだ――だから。
これは必要なこと。
幼い頃からの夢を叶えるのに、避けられはしないことだった。
彼も同じ。
魔女の私に仕える“立派な使い魔”になる為に……二人にとって、必要な行い。
ただ淡々と、こなすだけのこと。
ここに感情なんてものは必要なく――済んでしまえばきっと、昨日までの二人に戻れるのだと信じていた。
これまで一緒に過ごしてきた時間は、決して失われはしないのだと。
――けれど。
「愛してる」
その言葉を聞いた瞬間、どうしてか胸が苦しくなった。
身体に感じる痛みよりよっぽど、深くを抉られるような感覚。
ただそのすぐ後で、それは終わって。
済んだ後に、口をついて出た言葉があった。
「あんなこと、聞きたくなかった」
言ってしまった。
それが彼を傷つけること、どこか――分かっていたのに。
契約を結ぶ前に、彼と一つの約束をした。
だからその言葉を聞かなかったことにした。
それを受け取ってしまえば、きっと前と同じでは居られないと予感していたから。
それ以降、彼があの夜の姿を見せることもなくなった。
忠実な番犬という言葉を体現するような、獣の姿で私の隣に在り続けた。




