檻を隔てⅦ
その言葉は、なんの力も持てなかった。
温度がなければ、空虚な響きにしかならない。
皮肉なことに、覚悟もないまま吐き出したそれが、呪いとして返ってくる。
心做しか、その対応が変わったように感じられた。
廊下を歩く間にも従者は無言だが――昨晩のように、見下すような鋭い視線を向けられることはなかった。
足音がしない。
いや、しているはずなのに聞こえない。
絨毯がそれを吸い取っているのだと気付いた時、何故か背中がひやりとした。
何を言うでもない彼と、この静寂。
それが妙に落ち着かなくて、俺は自分の呼吸音ばかりを意識していた。
またあの肖像画の前を通る。
立派な額縁だった。……もしかしたら、この絵の男が俺を呼びつけた当主とやら、なのかも知れない。
白い髪に赤い瞳をした、男と女。
その姿が美化されたものか、ありのままを描いたものかは定かではないが――あまりにも嘘臭く思えるほどに、美しい二人だった。
だが、連れて来られたのは昨日と同じ部屋だった。
思い違いでなければ、あの少女の部屋。その扉の前に俺は再び、立たされている。
「入って」
デジャヴのようだった。昨晩も同じに、促されたことをはっきりと憶えている。
従者が扉を開き、部屋の中へと足を踏み入れ、彼が再び扉を閉じるところまで、昨日をそっくりそのままなぞるようだった。
「まさか。君が……当主?」
「ええ」
さも当然かのように、彼女はそう認めた。
まだ混乱の中に居る。
毎日のように檻の前に来て、食事を選んでいたこの少女こそが、この屋敷の主だという。
「あの……廊下の、絵の……」
「あれは私の両親」
その声は淡々としていた。
「もうこの世には居ないけれど」
あの美しい二人が、この少女の両親だという。
だが、その特徴がまるで噛み合わないことが俺の中で引っかかった。
白い髪に赤い瞳――廊下の肖像画に描かれていたのは、そんな姿だったはずだ。
けれど、目の前の少女は赤い髪に碧の瞳で。
むしろ、今の俺と同じ色味を持っていた。
「全然似てない、のは。なにか理由が?」
本当はこんなことを問いたいわけじゃなかった。もっと直接的に聞きたいことがあったはずだ。
それなのに、他愛もない質問を投げてしまうのはどうしてなのだろうか?
「私は二人の本当の娘じゃない。元は人間だった――貴方と同じに」
思わず息を止めた。
それが自分の知りたい答えのすべてのような気がして。
「だから俺を、……選んだのか」
胃の辺りになにか、不快感が上がってくる。渦巻いて澱むような、感情のうねり。
「違う」
窓辺に立ったままの彼女が短くそう告げる。
俺は戸惑う。
「違う? でも現に、俺は――」
「だから選ばなかった。それなのに」
彼女は静かに言い、言葉を詰まらせた。
その瞳には微かに嫌悪の色を宿していた。
「無視出来なくなった。貴方が、私と同じ言葉を吐いたものだから」
同じ、言葉――
きっと“あの言葉”であることは、昨晩の一部始終が物語っていた。
初めてその視線が向いた。指先が示した。
「『愛してる』」
それを口にした瞬間の、彼女の声は僅か冷えた。
――俺が昨晩吐いた言葉だ。
「かつての私もそう言った。檻の中で、ただ……助けて欲しくて」
俺は、少しずつ理解し始めていた。
であるなら。彼女が俺をこうしたのは、きっと――
「同じ響き。けど、貴方は……大した覚悟もなく、それを言ったでしょう?」
その問いには答えられなかった。
……図星だったから、だ。
俺にとってのそれはただ、彼女の気を引く為の言葉だった。
「だから、望み通りに選んでやった。覚悟を問うたのよ」
どこまでも冷えた言葉だった。
望みを。
確かに望んだ――血を吸われることを。
だが、これは。こんなことは……俺自身が吸血鬼になるなんてことは、望みすらしなかったことだ。
「クソ……ッ!」
俺は膝をついた。立っていられなくなった。
絨毯を掴むように拳を握れば、鋭い爪が掌に食い込み、痛みを伴った。
落とした視線の先に、小さな靴の先が映り込む。
「私が憎い?」
その声に思わず肩が震えた。
見上げれば、その碧が静かに俺を見下ろしている。
「……分からない」
本当に、分からなかった。
憎むべきなのかも知れない。俺の意思など聞くこともせず、勝手に吸血鬼にした彼女のことを。
だが――目の前の彼女に対し、怒りの感情を吐き出そうとすれば。
どうしてか何も、言えなくなる。
まるで喉の奥でそれが霧散するかのように、どこかへ消えてしまうのだ。
俺のこのはっきりしない態度が可笑しいのか、彼女は微かに笑った。
「……でしょうね。私は貴方の“親”とも言える存在、だから」
これではっきりした。
私がかつて、両親に対し抱いていた愛情。それを、偽りとも思いたくはなかった。
けれど、そうなるよう仕向けられていたのだ。
かつて兄様が、雛鳥の刷り込みに喩えた。
きっとそれは、間違っていなかった。
血を分け与えてくれた親に対しては、敵対しようとする気力すら削ぎ落とされてしまう。
だからこそ、眷属は純血には敵わないのだ。
目の前のこの男が、曖昧な答えしか持てないことが何よりの証拠だった。
――同じにしてやった。かつての、私のように。
彼は絶望している。怒りを感じている。
私の思った通りだった。考えもしなかった結末を、受け止めきれない様子でいる。
その憤りをぶつける先を、見失ったままで。
「光が痛く、影が好ましい。それに……渇きを覚えている」
それはかつて、私自身もその直後に感じた感覚だった。
蹲る彼の背中に寄り添い、私は言った。
「ほら、食事にしましょう」
彼は顔を上げ、縋るような目で言葉もなく頷いた。
私と同じ、碧の瞳。
階段を降りる。湿っぽく淀んだ空気。
いつもと違うのは、今夜私が伴っているのは従者ではない。
昨日までこの檻の中に居た、誰か。
まだ、名前も知らなかった。
彼は檻の前で足を止め、今度はその外から檻の中を見下ろしていた。
「選びなさい」
私の言葉で、彼は無言のまま――また違う「誰か」を指差した。




