檻を隔てⅤ
真っ当な感覚が戻ってくる。
それを“恐怖”と知った時には、もう手遅れだった。
拒絶するには遅すぎて――ただ、そのまま落ちていった。
準備を終えた俺は、従者に連れられて彼女の私室へと向かった。
長い廊下。壁には絵画が飾られ、床には暗赤色の厚みのある絨毯が敷かれている。
ここが何か、まだ分からない。
けれど屋敷とするにはあまりにも広く、城という表現の方が似合う気がした。
ふと、一つの絵画に目が留まる。そこには白い髪に、赤い瞳の男と女。
この絵の彼らも吸血鬼なのだろうか? 誰かの肖像のようにも思えたが、ふと思ったのは――
あの少女とは似ても似つかない特徴をしていたこと、だった。
従者が扉の前で立ち止まり、軽くノックをする。
中から静かな声が返ってきた。
「入って」
扉が開かれる。
俺は息を呑んだ。
広い部屋。窓から差し込む月明かりが、室内を淡く照らしている。
彼女は窓際に立っていた。
振り返る彼女の姿を見た瞬間――心臓が一つ、ドクンと鳴った。
赤い髪。
碧の瞳。
小柄な身体。
しかし、その佇まいには揺るぎのない威厳があった。
「来たのね」
彼女は静かに言った。
俺はただ、頷くことしか出来なかった。
「こちらへ」
促されるまま部屋の中央へと歩く。
従者が扉を閉める音が、やけに大きく聞こえた。
二人きり。
やっと――この瞬間が来た。
しかし。
彼女の視線が俺を捉えた瞬間だった。何か、妙な違和感を感じた。
それは欲情でも、興味でもない。ただ、観察するような冷たい視線。
だがその違和感を俺は見て見ぬフリで通そうとした。
冷たく感じられるのは、この少女が高貴な身分であるから。
或いは、捕食者としての余裕が彼女をそう在らせるのだと。
「何故、選ばれたいだなんて思ったの」
唐突だった。
責めるでもなく、ただ……その問いは、静かに落ちた。
「それは……」
俺は答えに窮した。
まさか、彼女らの吸血行為に快楽を見出してしまっている、だなんてことを言えるはずがなかった。
それを告げるには流石に、相手が悪いとも思うのだ。
背徳的ですらあり――しかしそう思ったことが既に、罪のような気もして。
ただ、ヴァンパイアというものが見た目通りの年齢とは限らないのも事実だった。
その場合、この勝手な罪悪感なんてのは無意味なものになるのだろうか?
……などと、下らないことを頭の中で巡らせていた。
「言えない? まあいい。私はただ、貴方の覚悟を受け取るだけ」
邪なことを考えてしまっていた俺は、顔を上げられなくなっていた。
「座って」
促されるままベッドの縁へと腰を下ろせば、正面に彼女が来る。
名前もまだ知らない、冷たい瞳の少女が。
軽く胸元を押され、俺はゆっくり後ろへと倒れ込む。
背中を包む、柔らかな感触に沈んでいく。
……それはほんの僅かな時間のことだった。
それなのに、妙に遅くも感じられた。
しんとした部屋で、自分の心臓の音だけがやけに五月蝿い。
緊張と期待と、少しの不安。
見下ろす碧は尚も冷たく、その感情を窺い知ることも難しく。
そして、ひやりとした彼女の指先が首筋をなぞった。
(あぁ、遂に――)
脈が速いのを悟られるのがどこか、きまりが悪く。
俺は目をぎゅっと閉じた。
鋭い牙が突き立てられ、ゆっくり沈んでいく――
「っく、……」
チクリとした痛み。
痛み。
……あぁ。どうしてか、こんな――痛い、……痛い。
……それに。
あの感覚が、いつまで経っても来ない。
身体も何も、示しはしなかった。
ただ、芯の方から――まるで、命が削がれていくように……寒気がする。
身体が冷えるのと同じに、心もどこか冷えるように。
みっともない声が出ないよう、抑えるのがやっとのことで。
これはなんだ?
本来、この行為に。
ヴァンパイアというものに抱くべき、真っ当な恐怖――それだと、俺は感じた。
まだ続く。
結構な時間が経ったようにも思うのは、恐怖を感じているからなのか。
少女は俺の首筋を離さない。一切の手加減がなく、牙が深く、食い込んでいく。
もし見た目通りなら、成熟したヴァンパイアに比べ、慣れていないのだと思い込むことが出来た。
そうであって欲しかった。だが、きっとそれも違う。
食事なら、生かさず殺さずを徹底する。これは、もしかしたら――
(殺される……)
そう思った瞬間、俺は叫んでいた。
「やめてくれ……っ!」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。
小さな女の子だ。だから、突き飛ばすことだって簡単なことのはずだった。
……なのに、腕に力が入らない。
身体が言うことを聞かなかった。
思考だけが空回りして、理由に辿り着く前に――
遅れて理解が落ちてくる。
……血だ。
血を、抜かれている。
違う、こんなはずじゃなかった。
今更後悔していた。
――きっと殺される。
今日になってやっと、俺を選んだのは。
目障りな俺を、二度と見なくて済むように。食い殺してやろうという思惑が、彼女の中にあったのかも知れない。
それでしか説明がつかなかった。
「望んだんでしょう」
朦朧とする意識の中、冷えた声が落ちてくる。
抑揚もなく、ただ……沈んでいくように。
「選ばれること。その覚悟もあった」
そう。あの瞬間には、確かに。
でも、今は――
意識を手放せば、その後にあるのはただの“無”だ。
そう感じていたのに、抗えなかった。
最期になにか言われた気もした。
だが、それが何だったのか――憶えてはいない。
憶えていたとしても、それはきっと無意味なことだ。
だって、俺はもう……。




