檻を隔てⅣ
選ばせたのはその言葉。
けれど。私が見ていたのは彼ではない。
過去と重なったその瞬間に、選択はもう終わっていた。
――その瞬間にいつもと違ったのは。
指差す既で、彼女の動きがピタリと止まったこと。
そしてその冷たい碧が、ゆっくりと俺の姿を捉えたこと。
この時、初めて目が合った。
どれだけ声を上げようとも。
一切俺を見ようとしなかった彼女が、初めて俺という存在を認識したのだ。
心臓が跳ねた。あの飼い主の時とは違った感情。
本当に彼女を愛してしまっているのかも知れないという錯覚。
ただ、この時思ったこと――ようやく見てくれたことの嬉しさだけで、彼女のことを見上げていた。
檻の向こうへと手を伸ばし、その足元に縋り付くような惨めな格好で。
「よりにもよってそれを言うの」
声を聞くのも初めてのことだった。思ったよりも落ち着いている印象を受けた。
落ち着きというより、冷たさ……だろうか。
ただ、視線が外せない。まるで魅入られたように。
「いいわ。これにする」
ようやくそのか細い指が俺を指した。
そうすれば、二人の従者が檻の扉を開いた。
腕を引っ張り上げようとする彼らに向かい、俺は首を振った。
立ち上がり、自分の足で歩けることを示せば、彼らは怪訝そうに一瞬目を細め……だが、頷き後ろに続くことを促した。
その言葉が耳に届いた瞬間、私は動きを止めた。
最初に感じたのは驚き。
次に、既視感。
最後に感じたのは、嫌悪だった。
彼の言葉に心を動かされたわけではない。
あの時の私が吐いた言葉と、一言一句違わないものだったから。
……曖昧だった。
忘れたのか、忘れたかったのか。
ただ。生みの母がそれを言えば、あの人は手を上げるのを辞めて。
そのすぐ後で、自分の行いを悔いるようにママのことを強く抱き締めていた。
震えながらそれを見ていた。息を殺して、物陰に身を寄せて――
だからそれが、助かる為の言葉なのだと、私は覚えてしまった。
誰かが檻の前に来る度、私はその言葉を繰り返していた。
そう言えばいつかは、救われるのだと信じて。
そんなある日に、彼が現れた。私を娘として家に連れ帰った人。
後になって私は、その人をお父様と呼び、その隣に立つ人をお母様と呼ぶようになる。
あの時。私は、お父様に向かって言ったのだ。
檻の中から『愛してる』だなんて。場違いで――愚かしい言葉を。
この男は壊れている。かつての私と同じに。
けれど、だからこそ見てみたい。
彼が望み通り、選ばれたなら。
彼が望み通り、その血を吸われたなら。
でも。
それが彼の期待するものと違ったのなら?
彼は……どうなるんだろう。
私は指を上げ、彼を指し示した。
その瞬間に彼の顔が歓喜に染まった。
ああ――気持ち悪い。
でも。
……見てやろう。
この男が“選ばれた”先に、何があるのか。
階段を上がり、湿った空気から解放される。
夜の闇を好ましく思う私ですらも、あの地下の薄暗くジメジメした空気は、好きにはなれない。
振り返れば、彼と目が合う。
「そこまで言ったんだから、覚悟してのことでしょうね」
彼は肩を震わせ驚いたように目を見開いていたが、
「はい」
と静かに短く、反射のように肯定を返す。
覚悟を受け取った。
実際のところそれが私の望むのと違う覚悟であることは、敢えて言ったりはしない。
選んで欲しい。血を吸って欲しい。
彼がそう望んだのだから、私はその願いを叶えてやる……ただそれだけのこと。
「準備が出来次第、連れて来なさい」
それだけの指示を出し、私は部屋に戻ることにした。
身を清めることを指示された。
別の飼い主のところに居たときのそれと何ら変わらない“準備”。
……あの薄暗い檻に押し込められていたのだ。だからそう命じられることも当然だろうし、浴槽に浸かれば、俺自身も生き返るような思いだった。
ただあまりゆっくりもしていられない。
彼女が待っている。あの瞬間が、もうすぐやってくる。
……そう考えれば適当なところで切り上げ、外に出ることを選ぶより他なかった。
また外で、別の従者が待っていた。
身体を拭かれ、服を着せられる。
その布地が質の良いものだと分かっていても、されるがまま身体に触れられることに、居心地の悪さを拭えなかった。




