「悪」夢のはじまり
※本話には一部残酷な表現が含まれます。ご注意ください。
ある者は記録として触れ、ある者はあまりに手触りのある夢として見た。
誰も知らない“悪魔”、あの夜のこと――すべての始まり。
甘い匂い。
何と表現するか? ……私には分からない。
だがそれは、もし口に含んだなら甘くて。
ああ、食べたい。食べたい。食べてしまいたい。食べてしまったならきっと、底知れない充足感をもたらすだろう。
しかしそれは許されない。私がただの何も目的を持たぬ獣であれば、今この場で彼女を食らっていただろう。
だがそれは私の本意ではない。食事とするなら、もっと他にも選択肢がある。
しかし素体とするなら、彼女以外ではあり得ないのだから。
ここで欲望に従ってしまっていたのなら、もう二度と巡り会えないかも知れない奇跡。そんな風に思わせる。
柔らかな金色の髪が、薄汚れた路地に似合わない。泥に汚れた白い肌すら、研がれる前の原石が触れる者を選びながら眠っているように見える。
そして何より、彼女から放たれる魔力の気配。甘美で、濃密で、思わず息を呑むほどに――誘惑的だ。
どう接触し、どこまで手を入れ、何を引き出すべきか。
恐怖による支配は自分の望むところではない。
もっと徹底的な、逃げ出したくなるのでなく、離れられなくなるような支配。
だとしたらきっと、恐怖よりも見せかけの優しさの方が効果的だろう。今までだって、そうだったのだから。
彼女は両親に捨てられた。
幼い彼女はどう生きていけば良いのか、分からないのだろう。ただ人気のない路地裏で膝を抱えて過ごしているだけ。
その間にも何度か魔性の気配はした。
自分以外にも、彼女に引き寄せられている存在がある。しかしそれも、私の気配を察知したのかすぐにどこかへ行ってしまった。
だが、二日目のある晩のこと。彼女の元に、近づく二つの影があった。
自分の存在に気づいていないのだろうか? 大体は察して逃げ帰っていくのだが。
鈍感なのか、或いは慢心か。
おそらく、前者なのであろう。その二つの影からは、これといって脅威を感じられはしなかった。
しかし彼女に接触しようとするのであれば、私には充分に脅威だった。折角見つけた素体を奪われるのではないか、そう考える。
見たところただの吸血鬼。貴族然とした装束の、男と女。
ああ、となればただその血が欲しくて近づいただけの……か弱い存在を狩ろうとする、情けない吸血鬼風情であろうか。
名も残らぬ食事として終わらせるには惜しい。それならば、先に目をつけた私が喰らう方が、まだ筋が通る。
まだ彼女は気づかない。それらが近づこうとするのを。そしてそれに気づけない距離で、彼らを排除することを選んだ。
……まさか、これをもし見られていたりしたのなら。私の思う方法での支配は叶わないだろう、だから迅速に。
男の方から仕留める。魔力で作り出した刃で、胸を一突き。
心臓を貫いた筈だが――吸血鬼だ。これだけでは当然、死なないだろう。
ならば頭部を潰すか? それとも、心臓を抉り出すか?
……選択肢を思い浮かべるだけで、胸の奥が僅かに熱を帯びた。
いや、そうする時間などなかった。却下だ。
「嫌、ぁ――」
女の喉に手をかける。
抵抗が弱まるにつれ、指先に伝わる鼓動がはっきりしていく。
それを感じ取っている自分がどうしてか、可笑しかった。
理由を探す気にはならなかった。ただ、この感触を否定する必要もないと思っただけだ。
悲鳴が途切れ、喘ぐような音だけが残る。
それすらもすぐに止み、静寂が戻る。
まだ生きているが、もう動けまい。男の方も同様に喉を潰しておく。
念の為、四肢の腱も切断しておこう。這ってでも逃げられてしまえば困る。
動けなくなったその“脅威”を、ただ見下ろす。単純にあの小娘の血が欲しかったのか、その真意は分からないままであるが……そうであるなら、この二人――仲良く分け合ったのだろうか?
それにしては獲物が小さすぎる、そう思うのだ。
不可解である。だが考えるだけ無駄だろう。彼らはもう何も語れないのだから。
乾いた路面が、彼らの赤を啜っていく。
朝日が最初に石畳を焼く場所へ二人を引きずっていく。
心臓を貫こうが首を落とそうが、この害虫どもは醜く再生し得る。
だが、太陽だけは絶対だ。後に残る灰だけが、私の信用する死の形だ。
夜明けまであと数時間。その間に彼らが回復する可能性もあるが、喉を潰し四肢を使えなくした以上、逃げることは叶わないだろう。
私は立ち上がり、手についた血を払う。
震える少女が隠れている影へと静かに視線を向けた。
彼女には見せていない。見せる必要もなかった。
彼女の世界には死も暴力も、他の誰かも要らない。
ただ――この世界から彼女を縛ろうとする全てを奪い尽くし、空白となった彼女の隣に、私は立つ。




