11.「どうして君は僕に振り向いてくれないんだ」
レオナール視点です。
※閲覧注意
「いったいいつからだろうか……」
僕――レオナール・ド・クレルモンは、部屋のベッドに腰を掛け、鏡台の上に置いた、美容院にあるような人形の頭部へ向けて、話しかけるように呟いた。
就寝時間。
今宵が月が見えも乏しく、明かりを消していることもあって、部屋はより一層暗く見えた。
それでも、人形の頭部に載せた黒髪のウィッグは、今日も変わらず艶やかで、美しかった。
「……いや、わかっているさ」
そっと息を吐く。
「君の心が僕から離れるようになったのは……君が階段から滑り、頭を打った、あの日からだ。すべては、あそこから始まった」
僕はベッドに横たわり目を閉じ、記憶を辿る。
彼女――セレスティンと過ごした、七歳の頃のことを。
***
「私はセレスティン・オート! あなたが、レオナール・ド・クレルモン第二王子様ね!!」
そう名乗ったのは、黒髪黒眼の少女だった。
彼女の瞳も黒曜石のように美しかったが、それ以上に目を引いたのは、東洋の墨のように深く、艶を帯びた、どこまでも黒い髪だった。
……もっとも、彼女への好印象は、すぐに消え去ったが。
「こんな人が私の婚約者なんて……素敵♡」
そう言うや否や、彼女はいきなり僕の腕を掴み、距離を詰めてきた。
婚約者として紹介された相手が、初対面からここまで馴れ馴れしいとは思っておらず、僕はただ戸惑うばかりだった。
(この子が僕の婚約者……? ……なんか嫌だな)
それが、初対面の彼女に抱いた正直な感想だった。
「あ~ん♡ レオナール様! どこに行くんですかぁ~~」
それからというもの、彼女は事あるごとに僕と一緒にいようとした。
常にべったりと張り付き、婚約者同士の仲を深めるというより、ただ彼女のわがままに付き合わされているような日々。
当時の僕は、弟のフェランに魔法も、座学も、運動も、貴族の作法も――何もかもで劣っていた。
才能あふれる弟に追いつくためには、努力するしかなかった。
だが、そんな僕の事情などお構いなしに、セレスティンは――
「レオナール様~~! 今日も一緒にデートしましょう!!」
と、声をかけてくる。
最初のうちは、仮病を使ったり、用事があると嘘をついたりして、なんとか断っていた。
だが次第に、彼女は屋敷中に、
「レオナール様が、私をいじめるんだ~~!」
と、言いふらすようになった。
当時、“次期国王の筆頭候補”はフェランだと囁かれ始めていた時期でもあり、これ以上評判を落とすわけにはいかなかった僕は、仕方なく彼女のわがままに付き合うようになった。
他愛もない時間に拘束され、弟との差は開いていく一方。
少しでも不機嫌な態度を見せれば、彼女は泣きわめき、僕の評判を下げるような真似をされる。
――今思えば、あの頃の僕は、相当なストレスを抱えていたのだと思う。
おそらく当時は言語化できていなかったが、正直に言えば……彼女が、心底苦手だった。
(彼女さえいなくなれば……)
そんなことを願った日もあった。
――だが、あの日を境に、すべてが変わった。
「痛っ!!?」
セレスティンは、階段を上る僕を見つけ、追いかけてきたのだろう。
途中で足を滑らせ、そのまま階段から転げ落ちた。
後頭部を床に強く打ち、しばらく動かない。
(……もしかして、何かあったのか?)
心の奥底では、最悪の事態を期待してしまう自分がいた。
同時に、そんな自分に嫌悪しながら、理性は「婚約者として彼女を案じるべきだ」と告げてくる。
「大丈夫ですか!? セレスティン嬢!!」
命に別状がなければ、どうせいつものように大袈裟に泣きわめき、転んだ責任を僕に押し付け、周囲に当たり散らすのだろう。
そう思っていた。
――だが。
「あわ……」
彼女は、僕を見上げたまま、言葉を失っていた。
予想とはあまりにも違う反応に、僕は息を呑む。
(当たり所が悪かったのか……? もしかして、相当な怪我を……)
普段なら騒ぎ立てるはずの彼女は、異様なほど静かだった。
「あっ、あのう……」
なんと声をかければいいのか、わからない。
だが次の瞬間、彼女は何事もなかったかのように、自力で立ち上がった。
「あ、ありがとう……ございます……」
――聞き間違いか?
あの、わがままなセレスティンが……僕に礼を言った?
呆然とする僕をよそに、彼女はふらつきながらも、その場を離れようとする。
「え……本当に大丈夫ですか? どことなくぎこちないですし……やっぱり頭の怪我がひどいのでは?」
そう声をかけても、彼女はただ、
「大丈夫です」
とだけ言い残し、自室へと戻っていった。
その日の夕食の時間になっても、彼女はなかなか姿を現さなかった。
いつもなら誰よりも早く食堂に現れ、作法も顧みず食べることに夢中になる彼女が、だ。
(やはり……頭を打ったことで、相当な怪我を負っているのでは?)
不安になった僕は、彼女の部屋を訪ねることにした。
コンコン、と扉をノックし、声をかける。
しかし返事はない。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
(勝手に部屋へ入れば、あとで烈火のごとく怒り狂うだろうが……だが、状況が状況だ。
もし彼女が部屋で倒れていたら……)
僕は意を決し、扉を開けた。
「……セレスティン嬢?」
彼女は部屋の中にいた。
窓の方を向き、何かを小さく呟いている。
(考え事……?)
不思議に思った。
感情のままに生きているように見えた彼女が、こんなふうに物思いに沈む姿など、今まで見たことがなかったからだ。
頭を打ったときから、僕の中の「セレスティン像」は、どこか噛み合わなくなっていた。
その違和感が、余計に彼女のことを考えさせる。
「あのう……セレスティン嬢?」
「僕の声が聞こえていますでしょうか?」
彼女のすぐ隣まで近づき、声をかける。
だが、それでも彼女は気づかない。独り言を続けている。
(……すごい集中力だ)
勉強中、少しの雑音ですぐ気が散る僕とは正反対だった。
考え事をしているときの彼女は、周囲の世界そのものが消えてしまったかのようだ。
それは、他人から見れば欠点に映るかもしれない。
だが、集中力の続かない僕にとっては、没頭できるほど考え事ができる彼女に羨ましくさえ思えた。
――セレスティンに、こんな一面があったとは。
とはいえ、やはり頭の怪我は心配だ。
ここは、迷惑でもいい。はっきりと確認すべきだ。
「セレスティン嬢!」
耳元に近づき、少し大きな声で呼びかけた。
「きゃ!」
彼女はようやく僕に気づいた。
「な、なな……レ、レオナール様!? ど、どうして私の部屋にににに……?」
「申し訳ございません……一応、部屋に入る前に確認を取ったのですが、セレスティン嬢の反応がなく、心配で入ってきました……」
「大丈夫ですか? 顔も赤いですし……やはり先ほど頭をぶつけたときの――」
「あっ、いえ、だ、大丈夫です! 少し考え込んでいただけで……」
「考え込んでいた? 何か悩みでも?」
勝手に部屋へ入ったことを咎められると思っていたが、彼女はまるで年頃の少女のように視線を逸らし、頬を染めていた。
その態度が、なぜか僕の胸をざわつかせる。
だが、次の瞬間――
「だ、だ、だ大丈夫です――っ!!」
――ドン。
「うぉ!? セ、セレスティン嬢?」
彼女は僕を強く押し、部屋の外へ追い出した。
直後、扉は勢いよく閉まり、鍵がかかる音がした。
「セレスティン嬢? セレスティン嬢――っ!」
呼びかけても、返事はない。
結局、その日の夕食に、彼女が姿を現すことはなかった。
……そして、それからだった。
彼女が頭を打った翌日から、僕を誘うことは、ぱったりとなくなった。
(……あれ?)
あれほど鬱陶しいほど構ってきた彼女が、だ。
完全に無視されるわけではない。会えば挨拶もするし、最低限の会話もある。
だが――
彼女は、僕の目を見て話さなくなった。
まるで、人が変わってしまったかのように。
最初は、それが嬉しかった。
彼女に振り回されることもなくなり、空いた時間をすべて努力に費やせた。
やがて僕は、少しずつフェランを超え、兄として弟の上に立つようになった。
周囲からも認められ、次期国王の筆頭候補とまで呼ばれるようになった。
……それなのに。
心の奥底ではモヤモヤとした感情がいつもこびりついていた。
このモヤモヤの正体はなんだろう?
弟に勝ったはずなのに、満たされない。
両親も、執事も、メイドも――
周囲の人間の誰もが、僕を見てくれているはずなのに。
でも、君だけは僕を見てくれない……。
「セレスティン……どうして君は僕に振り向いてくれないんだ」
その言葉を口にした瞬間、
僕はようやく、自分が抱いていたモヤモヤの正体に気づいた。
婚約者。
最も近い関係の一つのはずなのに、僕にとってセレスティンは最も遠い存在に思えた。
僕は君に振り向いてもらいたい。
その一心で、今度は僕から君をデートに誘うようになった。
でも、君は――
「体調が悪くて……」
「申し訳ございません。大事な用事があって……」
まるで、かつての僕のように、君は僕を避ける。
ついには、
「……自分の時間が欲しいのです」
とはっきり断られることもあった。
この七年間、すべて断られたわけじゃない。
ほんのたまに、君は僕と過ごしてくれる。
だが、わかっている。
君は、意図的に心の距離を取っているのだ。
――これは、僕の罪なのだろうか。
君が僕に構っていたあの頃、僕が君を蔑ろにした、その報いなのか。
――これが“失って気づく”という感情なのだろうか。
セレスティン。
いったいいつからだろうか。
なにをするにしても、常に僕の心の中に君がいるようになったのは。
セレスティン、セレスティン。
いったいいつからだろうか。
周囲の人に認められても、どんな女の子から言い寄られても、君が僕を見てくれなければ意味がないと、そう思うようになってしまったのは。
セレスティン、セレスティン、セレスティン。
いったいいつからだろうか。
君がふと落とした髪の毛を、誰にも見られぬよう、こっそり拾うようになったのは。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
今は、君に嫌われてもいいとさえ思っている。
これは、僕が犯した罪。
だからこそ、王子として恥じぬように。
そして、君の良き婚約者であるために。
いつか必ず、君に振り向いてもらうために――
これは、僕自身への贖罪なのだ。
大丈夫だ。
いつか君は、僕を赦してくれる日が来る。
だって、僕らは婚約者なのだから……
そう、思おうとしていた。
だが、学園生活が始まってから――
「義姉さんとは……うまくいっているの?」
弟のフェランから、そんなふうに話しかけられることが増えた。
それに、いつも不真面目だったフェランが、以前よりも真剣に授業を受けているとも聞いた。
弟の心境の変化が気になり、僕は尋ねてみた。
すると――
「キッカケは……義姉さんかな。
義姉さんの説教、マジで効いてさ。兄さんみたいに、俺も本気出すのも……悪くねぇなって思ってよ」
そう語るフェランは、照れくさそうにしながらも、どこか嬉しそうだった。
(フェランに……説教、だと?)
僕は愕然とした。
この約七年。
人が変わったようになったセレスティンは、僕には感情をほとんど見せなかったというのに。
弟のフェランには、感情をむき出しにして説教したというのか。
(僕だって……セレスティンに説教されたいのに。……いいな、フェラン)
もしかすると僕は、弟に劣っていた頃よりも、今のフェランの方がセレスティンに構ってもらえていることに、嫉妬しているのかもしれない。
――だが、それだけでは終わらなかった。
「ところで――セレスティン、そろそろ心を入れ替えた頃かな? さあ、俺と一緒に騎士団部へ――」
「――入りません。いい加減しつこいですわ」
セレスティンに騎士団部へ勧誘する男――アレクシ・ルフェーヴル。
口では迷惑そうだが、どこか嬉しそうな色が、その態度の端々に滲んでいる。
……僕といるときには、決して見せない表情だ。
それ以上、二人の様子を見ていられなくなった僕は――
「彼女――セレスティン・オートは、この僕――
レオナール・ド・クレルモン第二王子の将来の妻となることを約束されている。
ゆえに、君に一定のモラルがあるなら、人の婚約者を軽々しく誘わないでもらいたいものだな!!」
みっともなく、怒鳴るように告げてしまった。
あのときの僕には、余裕など微塵もなかった。
――さらには、シュルとのあのダンス。
シュルとは、風邪薬を作った日をきっかけに友人となり、セレスティンがエリナさんと行動している間、彼と過ごすことが多くなっていた。
彼がセレスティンに恋愛感情を抱いていないと聞き、僕は安心していたのだが――
「レオナール様はエリナ様に踊り方を教えて、私はシュルに教える……この方が、バランスの良い組み合わせでしょう?」
「あっ、セレスティンちょっと――」
セレスティンは、シュルと踊るため――
あるいは、僕と踊らないために、エリナさんを僕に押しつける形で、その場を離れた。
君の良き婚約者でいるため。
表向きの体裁を保つため。
僕はエリナさんが相手でも手を抜かず踊った。
……だが、本当は、君と踊りたかった。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
ああ……君は、まだ僕を赦していないのだろうか。
それとも、赦す赦さない以前にもう、僕には興味すらないのだろうか。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
もし、君がもう一度、僕を見てくれる日が来るのなら……僕は一生、君と向き合うと誓おう。
――だから
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン、セレスティン。
***
「……ん? ……そうか、朝か」
カーテンの隙間から、朝日の光が射しこんでくる。
今日も学園生活がある。そう思い、僕はベッドを出て身支度を始めた。
身だしなみを整え、部屋を出る直前。
いつもの――恒例の儀式を行う。
「……じゃあ、行ってくるよ」
鏡台の上に置かれた、人形の頭部。
その上に載せられた黒髪のウィッグを、今日もそっと撫でる。
東洋の墨のように深く、艶を帯びたその黒髪は今日も変わらず美しかった。
それもそのはず。だってこの髪は――
「僕が君の落ちた髪の毛を拾うようになって、約六年十か月と四日……
日数に換算すれば、およそ二千五百日」
小さく息を吐き、僕は言葉を継ぐ。
「……拾い集めた髪の毛は、立派な毛束となって、
まるで、君といつも一緒にいるような気分にさせてくれる」
手入れの行き届いたその毛束に、僕はそっと口づける。
「じゃあ行ってくるよ……セレスティン♡」
今日も、愛しのセレスティンに会うために。毛束へ挨拶を済ませ、僕は学園へと向かった。
レオナールヤンデレニナール




