自己肯定感と葛藤
「好き」という気持ちを持ったまま人と近い距離で本人と関わるということはこんなにも世界が輝いていて、苦しいものなんだと気づいた。
小学生の頃ちゃお、りぼん、なかよしという少女漫画が流行っていた。
私はにしむらともこという漫画家さんが描かれていた「虹色・すくらんぶる」が好きでよく読んでいた。
好きな人がいるってこんなに凄いことで、彼氏彼女という関係になればもっと好きになっても、ずっと一緒にいられるんだと思っていた。
でも私は悟られてはいけない。友達も同じ人が好きだから。恋愛と友情どっちが大事という話は聞いたことがあったけど私は友情だったんだなとその時に気がついた。
争いたくないというのは本心だったけどそれ以上に懸念が私にはあった。
自己肯定感が皆無だったのだ。
幼い頃から両親が近くにいて少し我儘言っても許されて育ってきた人たちは無償の愛を受け続けていて、そこから何の疑問も持たずに、自分自身が周りに当たり前のように受け入れられていて、肯定感が生まれるものだと思っていて。
私は親戚も祖父母も優しくはしてくれているけど、それは愛からではなく同情からだと思っていた。
仕方ないから育ててもらっているんじゃないかと思っていた。
大変だから、まだ私が幼くて一人にはできないから、と。
時々母親と話せる時間があった時に、今日はこういうことがあったと報告するたびに褒めや肯定よりも先にダメなところを指摘されることが多かった。
子供の世界では絶対的指針は両親であって、その両親に肯定されないということは苦しみに似たことで、そういった様々な事柄の積み重ねで自己肯定感が皆無だった。
こんな自分に価値がないのに、もし仮に相手に気づかれたら?周囲に気づかれたら?
付き合ってもいないけど、こんなダメな人間に好かれてるってバレたら相手の株を下げてしまうんじゃないか?
私が避けられてしまうんじゃないか?どうしよう、どうしよう。絶対バレたらダメだ。
そう思うようになっていた。
どれだけ他人に受け入れられなくても、自分で自分を肯定できること、尊重できること、それができるだけで生きやすくなる。それだけのことでいい。でもそれだけのことができない。
だって頭も良くない、顔も可愛くない、愛想がいいわけでもない、運動神経は悪くないけどバスケと長距離走しか得意じゃない。
ダメなところしかないのにどうすればいいんだろう。
もう好きじゃなくなればいいのに、どうしてもずっと好きなんだなって思った。