5個上
私には5個上の姉がいた。
彼女は生まれつき体が弱く、成長ホルモンが十分に出ない、骨格の問題で上手く呼吸ができない状態だったらしい。
実際私が生まれてから高校に入学するまでは定期的に入退院、通院、手術をしていた記憶がある。
前述した保育園児時代も絶賛その期間で、母親は仕事をしながら病院に行ったり、家事をしたり、私を育てたりしていた。
幼いながらにそれを感じ取ってしまった私は良い子でいなければいけない、この人にこれ以上大変な思いをさせてはいけないとどこかで確かに感じ取っていた。
それなりに「あれが欲しい!」「これがやりたい!」などの我儘は言ったことはあるが、「寂しい」「苦しい」という感情に纏わる言葉を私は吐き出せなかった。困らせると分かっていたから。
同じ団地に住んでいる同い年の幼馴染(Kくん)が居た。土曜の午前中はよくKくんとゲームをして遊んでいた。
でも土曜の昼以降や日曜は家族で揃って外出するのがKくん家の日課だったようで、それを私はよくベランダから眺めていた。
羨ましいなと純粋に思っていたけど、「暇〜〜〜」という言葉で誤魔化すのが精一杯だった。
保育園で足が不自由な子(以降Mちゃん)がいた。どういうきっかけで声をかけたかはわからなかったけど、気づいたらよく一緒にいるようになっていて、それを見た大人たちは「あなたは本当に優しい子。」と声をかけるようになってきた。
優しい子でいれば親にも安心してもらえる、安心してもらえると信じていた。
そんなことで褒められたわけではないけど、周りをよく見ている子と思われたかった。
後々聞いた話だが、私はチャイルドシートに載っていた頃に一度もぐずったことがなかったらしい。
もしかしたらその頃から薄々感じ取っていたのかもしれないなと、今では思う。
夏休み、冬休みという長期休みになれば私が家に居る時間も自然と増えた。
それに反比例するように、私の面倒をずっと見るほどの余裕は両親にはなかった。
だから、親戚の家や祖父母の家に預けられることが徐々に増えてきた。
祖父母は優しかった。近所にはたまにだけど同い年の男の子(Yくん)がおばあちゃんちにきていたから年1回くらい遊ぶことがあった。
親戚は姉と同じ5個上のお兄ちゃん、6個上のお兄ちゃんの2人がいた。
ゲームを一緒にやってくれるし、漫画だって色々読ませてくれていた。
だけど、保育園児〜小学生の頃、両親が近くにいないこと、親戚間に預けられていていい子であり続けないといけないこと、何も間違えないよういい子でい続けないといけないことは常にプレッシャーで、精神的な負担が大きかった。
それでも私は言えなかった。
「寂しい」も「しんどい」も「いつ帰ってくるの」とも。