青天の霹靂
中学校音楽教諭の佐倉ゆみは、関西育ちのインドア派だったので、あまり自然と触れ合う機会がなかった。
阪神大震災の後、両親と共に母の田舎に引っ越して来たのだが、庭先にヒラヒラとアゲハ蝶が飛んでいるのを見て感動したくらいである。
こちらに来てからは派遣社員をしていたが、30代半ばに教員採用試験を受けて中学校音楽教諭となった。
なので、教師としては少々珍しい経歴の持ち主だ。
初めて着任したのは、観光地としても人気の美しい港街の中学校だった。
校舎のすぐ向こうに広がる海を見て、こんな素敵な所で仕事ができるんだ、と浮かれていたのだが・・・。
着任早々、職場の人間関係に躓き、部活動では生徒間の板挟みになり・・・。
特に、受け持った吹奏楽部の活動は負担が大きかった。
コンクールなどは仕方ないが、地域のイベントにも参加する事も多く、そうなると土日でも休めない。
毎日、毎日、何かしらのトラブルに巻き込まれるストレスフルな日々。
約半年で入学式の為に誂えたスーツがブカブカになる程痩せた。
せっかくの資格がもったいないと、教員になるよう勧めた両親や友人を恨んだほどだ。
一人暮らしを楽しむ余裕もなくなり、休みが取れる度に片道2時間かけて実家に帰っていた当時の私は、精神的にも肉体的にも病んでいたと思う。
そんな私を見かねた友人の河野さんが、気分転換にと温泉に誘ってくれた。
「美肌で評判の温泉があるんだ。ちょっと遠いけど、私が運転するから一緒に行かない? ゆっくり温泉浸かって、美味しいもの食べてリフレッシュしよう」
そう言って私を石長村の温泉施設へと連れて行ってくれた。
その頃は私も、田舎暮らしに慣れてきたと思っていたのだけど。
甘かった。私は田舎を舐めていた。
信号もない、民家もない、対向車もない、いつ終わるかもわからない山道。
道路以外、人の手が加えられた形跡がない山、山、山。
(私、どこに連れて行かれるんだろう?)
うっすら恐怖を覚えて涙目になった頃、ようやく石長村に辿り着いた。
本当に小さな村で、商店街にはコンビニはおろかスーパーもなく、昭和の香り漂うレトロな商店が3軒ほどしかない。
しかし温泉は噂通り素晴らしく、山の幸も美味しくて、村を出る頃には心身共に癒された。
「どう? リフレッシュできた?」
「うん、ありがとう。でも、あんな山奥に人が住めるなんて、正直びっくり。村全体が昭和って感じで、軽くカルチャーショックを受けたわ」
そう軽口を言うと、河野さんは軽く私を睨んだ。
「田舎を馬鹿にしたな? そんな奴には石長村に異動になるよう呪いをかけてやる」
彼女は運転しながら、私に向けて片手をひらひらと動かした。
それから何度か季節が巡り、2年前に私は石長村に赴任する事になった。
言うまでもなく、石長村は僻地だ。内示を受けた時、周りからは同情の目で見られた。
(まさか河野さんの呪いが発動したのかしら?)
異動の内示を受けて引っ越すまで2週間ほどしかないので、通常ならば住居を探すのに忙しいのだけれど、幸い石長村には教員住宅が用意されているから助かった。
独身だから荷物も少なく、引っ越し業者を呼ぶほどでもない。
軽トラを借りて、車2台で両親と共に新居に赴くと、驚くことに数人の生徒と親が待ち構えており、挨拶もそこそこに荷物を運んでくれて、30分かからずに引っ越しは終了。
どうやら教師の引っ越しを手伝うのは、村では当たり前の事らしい。
この温かい歓迎には、私以上に両親が感動し、安心して帰っていった。
お年寄りの話す方言がわからなかったり、必要な物を買いに行くのに街まで行かなければなかったりと、確かに不便ではある。
けれど、この村はこれまで赴任したどの地よりも人情に溢れ、生徒たちも素直で、私はすっかりこの村に魅了された。
この村に来てから、自宅のお風呂を使ったのは数えるほどしかない。
年間パスポートを買って、ほぼ毎日温泉を楽しんでいる。時間帯によって貸切状態になった時は、最高の贅沢気分を味わえる。
生徒と一緒に山菜取りをしたり、川遊びをしたり。
物質的な豊かさはないが、自然豊かな石長村の生活は実に満ち足りている。
私の知る限り、この村は他の地域よりも帰属意識や連帯感が強い。
それはきっと、重要無形文化財に指定されている神楽が関係しているだろう。
神様や自然への感謝の念を、神楽という形に変え、大昔から現代まで受け継がれてきた。それは一つの奇跡だと思う。
村の子供全員がその奇跡の継承者ではあるが、特に私のクラスの山下清海君は舞が上手で、今度の祭りで主役を任されるという。
すごく誇らしくて誰かに自慢したくなった私は、久しぶりに河野さんに連絡した。
以前は一緒にランチや買い物に行て話を聞いてもらっていたが、こちらに来てからは全然会っていない。
「お久しぶり。元気ですか? 来月村祭りがあるのだけれど、教え子が神楽舞の主役に抜擢されました。よかったら泊まりがけで遊びに来ませんか? 花火も上がるよ」
そう書いて村役場のホームページのURLを貼って送信した。
しばらくすると
「お誘いありがとう。花火も上がるんだね。のんびりしたいから前日入りして連泊してもいい?」
と嬉しい返信が来た。私の返事は勿論OKだ。お互い独身だから、気兼ねしなくていい。
「来月が待ち遠しいなぁ」
ずっとこの村に居たいけど、恐らく来年か再来年には異動になる。
だから今のうちに楽しい思い出をたくさん作ろう。
***
「う〜ん、いい天気。今日も暑くなりそう」
いよいよ明日は村祭りだ。祭りの準備で、数日前から村全体がそわそわした雰囲気に包まれている。
今日の昼前に河野さんが来る予定なので、今のうちに家中を掃除しておく。
一通り家事を済ませると11時半。そろそろかな?と思いながら一息ついていると、ピロン♪と携帯に着信が入った。
『村に到着しました。佐倉さん家は、橋を通り過ぎて真っ直ぐ進めばよかったよね?』
『うん。外に出て待ってるね』
一本道だから迷う事は無いだろうけど、教員住宅は外観が同じなので分かりづらい。
河野さんを出迎える為に外に出ると、しばらくして彼女の車が見えた。
私を見つけた河野さんが、満面の笑みで手を振っている。
それに応えて片手を挙げた時、あることに気づいて私は固まった。
助手席に白い着物を着た見知らぬ少女が乗っている。
子供の頃、何度か幽霊を見たことはあったけど、こんなにくっきり見えたのは初めてだ。
ブワッと全身の毛が逆立つ。怖いのに目が逸らせない。
とうとう車が目の前に停まった。
「久しぶり〜。誘ってくれてありがとう。佐倉さんの好きなシュークリーム買って来たよ〜」
車から降りた河野さんが、ニコニコとお土産を渡してくれた。
「あ、ありがとう」
(嘘でしょう・・・。河野さん、霊感ゼロって言ってたけど、本当に何も感じないの?)
極力見ないようにしているけれど、青白い顔した少女がじっとこちらを見ている気配に肌が粟立つ。
(どうすればいい? 塩を撒けば消えてくれるかしら?)
できる限り平静を装いながら、頭の中でぐるぐる考えていると、河野さんが車の方へ振り返った。
「悠里ちゃん、具合はどう? よかったら家まで送って行こうか?」
「・・・いえ、大丈夫です」
(ん?)
どうやら幽霊だと思っていたのは私の勘違いだった。よくよく見ればシートベルトも着けている。
ゆっくりと車から降りて来た少女は、私たちの方に近づいてきた。スラリと背が高く、白衣と白袴がよく似合っている。綺麗な子だ。
少女は私に軽く頭を下げた後、キョロキョロと辺りを見回して首を傾げた。
「河野さん、この子は・・・?」
「ああ、山道を1人で歩いてたから拾ってきた。佐倉さんの教え子でしょう?」
私が無言で頭を振ると、河野さんは困惑しながら少女を見た。
「悠里ちゃん、石長村中学校に通ってるんだよね?」
少女がコクリと頷く。
「佐倉先生を知ってるよね?」
河野さんが私を指さすと、少女は泣きそうな顔で首を振った。
「え? どういう事? さっき佐倉さんが担任だって・・・」
「私の担任は、飯干さくら先生です」
河野さんはパチパチと瞬きすると、あはは〜っと豪快に笑った。
「ごめんね〜、間違えちゃった。てっきりこっちの佐倉さんだとばかり。でも嘘はついてないから許してくれる?」
あっけらかんとした河野さんに少女も少し笑って頷いたけど、すぐに不安そうな表情になった。
私も彼女の話を聞いて、真顔になる。
石長村中学校は職員15名、全校生徒は42名。
飯干さくらという教師は在籍していないし、目の前の少女にも全く見覚えがない。
そう言うと河野さんは目が点になり、少女は目にうっすらと涙を浮かべたが、グッと唇を噛み締めた後、覚悟を決めた様子で河野さんに質問した。
「あのっ、今は・・・西暦何年ですか?」
「2025年だけど」
「2千・・・25?って・・・何年?」
「令和7年」
「れいわ・・・? 何それ?」
少女は怯えた目で辺りを見廻し、頭を抱えた。ハッハッとこちらに聞こえるくらい大きな呼吸音が、だんだん速くなっていく。
(やばい、過呼吸を起こしかけてる!)
そう思った瞬間、少女の体が力を失って崩れ落ちた。
「悠里ちゃん!!」
河野さんも彼女の異変を感じていたのだろう。私よりもいち早く動き、少女の体を支えた。
「ひとまず安静にさせなきゃ。佐倉さん、手伝って!」
河野さんの勢いに飲まれた私は、慌てて反対側に周り、2人がかりで少女を家にあげてソファに寝かせた。
「悠里ちゃん、大丈夫だよ。落ち着いて、ゆっくり呼吸しよう。はい吸って〜、1、2、3、吐いて〜1、2、3、4、5、6・・・」
河野さんが少女の背中をトントンと優しく叩きながら、呼吸を落ち着けさせようと試みる。
苦しそうだった呼吸がだんだんと落ち着き、安心か疲れからか、少女はそのまま眠ってしまった。
河野さんも私も、ほ〜っと息を吐いて額の汗を拭う。
「あ〜、焦った〜。落ち着いたみたいで良かったわ。佐倉さん、悪いけどしばらく寝かせてあげて」
「・・・・・・」
(いや、何も良くないでしょう。絶対にとんでもない事に巻き込まれた!)
私は眠る少女と人の良さそうな笑顔の河野さんを交互に見ながら、ガックリと肩を落とした。
「君子危うきに近寄らず」をモットーにして、なるべく平和に生きているのに、何故かいつもトラブルに巻き込まれてしまう。
どうして私の人生は、こんなにハードモードなんだろう?