寝耳に水
「わぁっ! 綺麗な川! お婆ちゃん、見える?」
眼下に流れる深い青緑色の川を見て、陽菜は思わずはしゃいだ。
「うん。綺麗だねぇ」
お婆ちゃんは眩しそうに目を細めながら言った。
見たところ調子はよさそうだが、悠里おばさんを迎えに行くと分かっているかは怪しい。昨夜のように早く迎えに行こうと騒ぐこともなかったし、家族でおでかけ位にしか思ってないかも。
「懐かしいなぁ。村の学校にはプールがなくてな、水泳の授業はこの川で泳いだものさ」
「ええっ! マジで!?」
「ああ。多分、今もそうじゃないかな?」
「うっそ、ありえな〜い!」
お父さんの故郷は何も無い山奥だと言っていたけれど、その言葉は嘘じゃなかった。
市街地を抜けて橋を渡り、左折して川沿いを10分も走ると民家が見えなくなってしまったのだ。
信号すらない山道だが、樹々の緑が煌めいて眩しいほどに美しい。
「風が気持ちよさそう・・・・・・うっ」
窓を開けたら、涼風ではなく熱風が吹き込んできて秒で閉めた。クーラー最高。
いくつかトンネルを抜けたけど、行けども行けども山の中。全然民家が見えてこない。
「ねえ、まだつかないの?」
「ああ。村はダムの向こうだから、まだ暫くかかるよ」
「ダムの向こう?」
ダムに沈んだ村とか聞いた事はあるけど、石長村の集落はさらにその奥にあるらしい。
「マジで僻地じゃん。後どのくらい?」
「ん〜、40分位かな」
「そんなに?」
さっきまではドライブ気分で綺麗な景色を楽しめたけど、流石に飽きてちょっとテンション下がる。
「これでも近くなった方だよ。昔はもっと時間がかかってた」
「え〜、お婆ちゃん、トイレ大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「もう少ししたら村の入り口だ。そこに小さいお店があるから、そこで休憩しよう」
お父さんの言葉通り、ダム湖の湖畔にその店はあった。
山奥の店だからちょっと不安だったけれど、予想に反して結構綺麗な建物だったし、トイレも清潔でホッと一安心。
うどん等の軽食が食べられる食事処だが、村の特産物を使った加工品の物販コーナーもある。
個人的にそれらには関心がなかったけれど、店内からは神秘的な青緑色のダム湖が一望でき、これを見る為にここに寄る価値はあるな、と思った。
静かで良いところだ。でも・・・。
「村の入り口っていう割に、全然建物見当たらないね」
「集落はもっと奥だから。あと30分位だよ」
「はぁ?」
衝撃のあまり、口をぽかんと大きく開いてしまった。お母さんも吃驚している。
「思ったよりもずっと山奥なのね」
「だから面白くないって言ったろう? 無理矢理ついてきて文句言うな」
お父さんは故郷をバカにされたと思ったのか、少し不機嫌に言った。それにカチンときたお母さんが言い返す。
「そんな言い方ないんじゃない? ちょっと驚いただけで、文句なんて言ってないわよ」
みるみるうちに二人の雰囲気が悪くなる。
一旦拗れると冷戦状態が長引くのは経験上分かっているので、私は慌てて二人の間に入った。
「ほら、そろそろ行かなきゃ、約束の時間に間に合わなくなっちゃうよ」
「・・・そうだな。姉ちゃんが待ってる」
「そうね。早く行きましょう」
二人とも目的を忘れてなかったようで、ホッと胸を撫で下ろし、ぼんやりと景色を見ているお婆ちゃんに声をかけた。
「お婆ちゃん、行こうか」
「どこに行くの?」
「悠里おばさんに会いに」
「悠里? 何言ってるの?」
お婆ちゃんは不思議そうに私の顔を見た。
「お婆ちゃん、私、陽菜だよ。昨夜のこと忘れちゃった? 久しぶりに悠里おばさんに会うからって、一緒に服選んだじゃん」
そう言うと、お婆ちゃんは自分の服を見て少し考えてから、ハッとした表情になった。
「ああ、そうだったわ。ここどこ?」
「石長村の入り口」
「じゃあ、もうすぐ悠里に会えるのね」
そう言ってお婆ちゃんがスタスタ歩いて車に乗ったので、ちょっと吃驚した。
普段は膝が痛むと言って、杖をついてもゆっくりしか歩けないのに。
気持ち一つでこんなに体が動くなんて、人間の体って不思議。普段は意識してないけれど、心と体は繋がってるんだな、って思う。
(私って悠里おばさんと似てるのかな? 会うの楽しみ)
石長村に入ると曲がり道が多くなり、木々の緑が一層深く濃ゆくなった気がする。前後に車がなければ、きっと少し怖くなってただろう。
(本当にこの先に人が住んでるのかな?)
そう思った矢先、不意に大きな橋が現れた。
「あの向こうにあるのが温泉施設か。思ったより立派だなぁ」
お父さんがそうに言うと、お母さんが反応した。
「そうね。美人の湯って評判いいみたいよ」
「ふ〜ん。なんだか知らない場所みたいだ。・・・まあ、40年も経ってるんだから変わってて当たり前か」
お父さんはちょっと寂しそうに呟いた。
そこから川沿いの道を更に進むと、やがて民家が見えてきた。高い建物がないので、遠くからでも集落が一望できる。川の側の平地に、犇くように家が立っていた。
本当に小さな村だ。すっごくコンパクト。
商店街は昭和レトロな感じで、良くも悪くも時が止まっているような感じ。
でも、お父さんとお婆ちゃんにとっては、思い出の場所で。
「ああ、ここは昔のままだ。あのラーメン屋、まだあるんだ」
「本当・・・懐かしいねぇ」
「流石に代替わりしてるだろうけど、味が変わってないといいなぁ」
「夏生、好きだったもんね」
「うん。おばちゃんの作るチャーシューと漬物が絶品だった」
二人の会話を聞きながら、ここが私のルーツなのかなぁ、なんて考えてたら、役場が見えてきた。
「さあ、着いたぞ。駐車場、空いてるかな?」
役場は3階建ての建物で、1階が駐車場になっていた。ゆっくりと進むと、職員らしき男性が近づいてきた。
「すみません、ここは関係者以外駐車禁止なんです。臨時駐車場はもう少し先にありますので、移動をお願いできますか?」
「黒木です。村長に2Fの会議室の使用許可をもらってるんですが・・・」
お父さんがそう言うと、職員さんはホッとした様子で笑った。
「ああ、佐倉先生のお客さんですね。伺っています。あちらの来客用スペースに止めて下さい」
車から降りると、先ほどの職員さんがニコニコと笑って待っていた。
「先程は失礼しました。佐倉先生はもう会議室でお待ちですので、ご案内しますね」
「お忙しいのに、どうもすみません」
「いえいえ、佐倉先生にはいつもお世話になってますので。本当に親切な方ですよね」
佐倉先生は村民から尊敬されているらしい。
村長さんが悠里おばさんを託すわけだ。
職員さんについて2階に登る。お婆ちゃんに合わせてゆっくりになったけど、職員さんは嫌な顔ひとつせず、逆にエレベーターがない事を謝られた。良い人だ。
会議室に着き、職員さんがノックすると「はい」と落ち着いた女性の声。
(やっと悠里おばさんに会えるんだ。うわ、ドキドキしてきた)
お父さんもちょっと緊張しているみたい。お婆ちゃんは、待ちきれないって顔。
「失礼します。佐倉先生、お客様がお見えになりました」
そう言って開かれたドアの向こうに、お父さんと同世代の女性2人と、青いワンピースを着た私と同世代の女の子がいた。
目が大きくてスラッとした綺麗な人が丁寧にお辞儀する横で、丸顔でややポッチャリ体型の人が満面の笑みで、隣の女の子の背中を押す。女の子は両手で口を覆ってこちらを凝視していた。
(この反応だと、多分こっちの綺麗な人が佐倉先生で、丸顔の人が悠里おばさんかな。お父さんとは全然似てないけど、優しそうな人。隣の女の子は従姉妹になるのかしら。ていうか、この子、髪ツヤツヤで目がウルウルしてて超美少女! うわ〜、見れば見るほど可愛い。仲良くなりた〜い)
そんな事を思っていると、お婆ちゃんがフラフラと前に出て手を広げた。
「悠里!」
「っ! お母さん!」
美少女が顔をくしゃくしゃにしながら駆けて来て、お婆ちゃんにしがみついた。
「悠里、悠里・・・ああ、会いたかった。生きてて良かった」
「お母さ〜ん、ええ〜ん」
「今までどこに行ってたの? どれだけ心配したと・・・」
「どこにも行ってない。お母さん、髪、真っ白・・・」
「うん。すっかり歳とっちゃった。・・・何でこんな事に?」
「私の方が聞きたいよ」
2人はぎゅっと抱き合って泣きながら、よく分からない会話をしている。
「えっ? えっ? どう言う事?」
戸惑いながらお父さんを見たら、鼻水垂らして号泣していた。
その姿にドン引きしてちょっと後ずさったら、お父さんはフラフラと2人に近寄って行った。
「姉ちゃん!」
美少女が泣きながら顔をあげ、お父さんを見た。
「・・・夏生?」
「うん、俺だよ。姉ちゃん」
「ヤダァ、すっかりオジサンになってる。変なの〜」
美少女は泣き笑いした。
「変なのは姉ちゃんだろ! 40年経ってんだぞ!」
「私は昨日まで昭和60年にいたもん!!」
「何だよそれ!? 祭りの最中に突然に行方不明になって、大騒ぎになったんだからな!」
美少女はお婆ちゃんから離れると、お父さんに近づいて無言でローキックした。
「痛っ!」
「弟のくせに私に意見するなんて100年早いのよ」
「うっわ、思い出した、この感覚。マジで姉ちゃんだ」
「大体、花嫁役を変わったせいでこんな事になってるっぽいんだけど? あれ仮病だったでしょう!? お母さんは騙せても、私の目は誤魔化されないからね!?」
「あ・・・うん。それは・・・マジでごめん。反省してる」
「ごめんで済むなら警察はいらないんだよ!」
しおしおと項垂れたお父さんの頭を、美少女が容赦無く叩いた。
「「は?」」
あまりの事に、お母さんとハモってしまった。
「こら、2人とも喧嘩しないの!」
お婆ちゃんに叱られると、お父さんは微妙な顔をし、美少女は不貞腐れた。
「いや、喧嘩って言うか、俺が一方的にやられてるだけだし」
「悠里、お姉ちゃんでしょ!」
「もう、いっつもそうやって夏生を甘やかす〜」
何が何だかよく分からない。
美少女をお婆ちゃんは悠里と呼び、お父さんは姉ちゃんと呼んでいる。
そこから導き出される答えは一つなんだけど、脳が拒んでいる。
(一体どうなってるの?)
お母さんと2人で固まっていると、女性2人が近づいてきた。
「初めまして、佐倉です。黒木さんの奥様と娘さんですか?」
「あ、はい。初めまして」
「初めまして」
やはり綺麗な人が佐倉先生だった。
お母さんと2人で頭を下げる。
「初めまして、佐倉さんの友人の河野です」
続けてポッチャリした人が愛想良く挨拶して来たので、それにも「初めまして」と返す。
「あの、私達・・・主人のお姉さんが見つかったと聞いて来たんですが、これは一体?」
お母さんが恐る恐る聞くと、佐倉さんと河野さんは顔を見合わせた。
「まあ確かに、タイムスリップしたって言われても、すぐには信じられませんよね」
佐倉先生がしみじみと言う。
「「タイムスリップ!?」」
「あれ? 聞いてなかったんですか?」
「聞いてません。ただお姉さんが見つかったとだけしか・・・」
「まあ」
「あらら〜」
佐倉先生が目が溢れそうなほど大きく見開き、河野さんは呆れた視線をお父さんに向けている。
「とりあえず座りませんか? 詳しく説明しますから」
河野さんがそう提案してくれたので、4人でテーブルに着くと、佐倉先生が冷たいお茶を出してくれた。
まだ少し呆然としていたお母さんがハッとして、慌てて菓子折りを出す。
「あの、昨日は悠里さんがお世話になりました。お口に合うと嬉しいのですが」
「まあ、お気遣いありがとうございます。ここのお菓子好きなんです。有り難く頂戴します」
「それと少ないですが、ほんの気持ちです。どうぞお受け取り下さい」
そう言って謝礼金の入った封筒を出すと、佐倉先生は慌てて首を振った。
「いえ、お気持ちだけで十分です。お菓子も頂きましたし・・・」
「そう言わず、どうか受け取ってください」
「大した事もしてませんから、どうぞお気になさらず」
「受け取っていただけないと、主人から叱られてしまいます」
(これどっちも引かなかったら長くなりそうだなぁ)
と思っていたら、河野さんが「貰っときなよ」と言った。
「自分にかかった費用は弟に請求してくださいって、悠里ちゃんが言ってたじゃん。それに逆の立場だったら佐倉さんもそうするでしょう? 立て替えた分が戻ってきたと思えば?」
その言葉に佐倉先生が納得し、謝礼金を受け取ってくれた。
お母さんがあからさまにホッとした顔をしている。
ひと段落ついたところで、河野さんが話し始めた。
「え〜っと、悠里ちゃんを見つけたのは私なんです。昨日、佐倉さんを訪ねる途中の山道で、悠里ちゃんが1人でフラフラ歩いてて、熱中症が心配で保護しました。てっきり佐倉さんの生徒さんだと思ったもので」
話の内容は荒唐無稽で到底信じられなかったけれど、お父さんとお婆ちゃんの反応を見ると、どうやら嘘ではないらしい。
村長さんに会いに行った後の事は、佐倉先生が説明を交代してくれた。
「・・・という訳です。驚かれたと思いますが、悠里さんはそれ以上に不安だったと思います。ご家族に会えて、本当に良かった」
そう言って佐倉先生は涙ぐみ、ハンカチで目元を押さえた。
「これって奇跡かもね〜」
河野さんはとニコニコしながら向こうの3人を見守っている。
「奇跡・・・」
この現象を表すとしたら確かにそうかも知れないけど、理解が追いつかない。
15歳って私と一つしか違わない。しかも年下じゃん。
呆然としていると、お婆ちゃんとお父さんを伴って、悠里おばさん・・・がやって来た。
キラキラした目で私とお母さんを見ながら、お父さんを肘で小突く。
「ねえ、早く紹介してよ!」
「だから〜、いちいち暴力振るうなって」
「あんたがモタモタしてるからでしょう!」
「はいはい、ちゃんと紹介するから。2人とも立って」
お父さんに言われて、お母さんと2人でお父さん達に向き合う。
「2人とも驚かせてごめん、信じられないと思うけど、この人が行方不明になってた姉の悠里。姉ちゃん、俺の妻の美冬と娘の陽菜だ」
動揺している私達と対照的に、悠里おばさんは眩しい程の笑顔で頭を下げて来た。
「初めまして。夏生の姉の悠里です。弟がいつもお世話になってます」
(・・・マジで?)
「「・・・初めまして」」
お父さんの隠し子と言われた方が、まだ現実味がある。
私もお母さんも、何とか挨拶を返すのが精一杯だ。
「わぁ、美冬さんって美人。夏生には勿体無い。陽菜ちゃんもすっごく可愛い!」
(あら?)
悠里おばさんはすっごく嬉しそうに私達を見つめている。お世辞を言ってる訳ではなさそう。
美少女に可愛いと言われて悪い気はしない。
よくよく見れば、私達、雰囲気がちょっと似てるかも。
お婆ちゃんが間違っても仕方ないか。
ちょっと気分が良くなったところで、お婆ちゃんが爆弾発言を落とした。
「ああ、また悠里と暮らせる日が来るなんて、夢みたい」
ええ〜っ!! 聞いてないよ!?