ルルデュス
海運国ルルデュスは、王都も海に近いところにあった。
私の生まれた国、海の無い国よりも夏は涼しく冬は暖かい気候なんてありがたいわ。
海風に吹き上げられながら船から降りる。
「どう?気に入った?」
「ええ、とてもいいわ」
ルルデュスにやって来て一月、今日は従姉と港に停泊した船のレストランで食事を取った。
魚介類が新鮮でとても美味しい。
はじめは磯臭さにびっくりしたけれど。
足元には、野良猫なのか様々な毛色の猫達がすり寄って来る。この港街ではあちこちに猫を見かける。
「ウンニャァ」「フミャ」「ゴロゴロ」
今は飼えないけれど、自分の部屋を持つようになれたら、猫を飼うのも悪くなさそうだ。
「ふふ、あなた昔からそうよね」
私はどうも犬よりも猫に好かれるようだ。従姉と並び歩く後を数匹の猫がついてくる。
従姉イザベラは私の二歳上で、子どもの頃から最も良く一緒に遊んだ仲だったから、姉妹のような関係だ。
彼女が結婚するまでは、王子妃教育で忙しい私のために自分の予定を調整して会ってくれていた。
快く私の滞在を受け入れてくれてとても感謝している。
結婚相手の伯爵とも良好な関係でなによりだ。
「お母しゃまお帰り、リエもお帰りぃ」
3歳になるイザベラの可愛い娘に癒される。
子どもの頃の自分にそっくりで怖いわとイザベラが言う。
栗毛と緑の瞳は、確かにイザベラのものだ。
けれど、夫である伯爵も栗毛で緑の瞳で、まるで兄妹のように顔立ちも似ている夫婦なので、親子三人がみな同じ顔でなんだか微笑ましい。
伯爵邸の人達もとても親切で、その優しさに、離婚で疲れてかさついた心が解れてゆく。
このような落ち着いた暮らしがずっと憧れだったの。
私は運良く出版社での翻訳の仕事を見つけて、もうすぐ初月給が入る予定だ。
王侯貴族向けの雑誌の編集長と知り合いだったイザベラの夫の紹介だ。
貴族の令嬢が働くのに、紹介やコネの無いところでというのはなかなかハードルが高いようだ。
この国の文化や礼儀作法をもう少し覚えたら、手頃なアパルトマンに引っ越す予定だ。
侍女を持たない生活をしてみたい私は、伯爵家で家事も習っている。
奥方向けの茶菓子のレシピやテーブルコーディネートなどを紹介する翻訳にも役に立ちそうだから。
「そんなに無理をせずに、良い人と再婚すればいいのに」
伯爵夫妻は口を揃えてそう言うのだけれど。
「そうね、でも、しばらくは一人で暮らしてみたいの」
反抗や反発からではなくて、素直にただそうしたかっただけなの。
***
半年が経ち、職場にも比較的近く、市場や生活に必要なものを購入できる場所からも遠くない絶好の住まいを見つけた。
一軒家だと今の私には侍女無しでは難しいから、自分でも家事の行き届く範疇の小さめのアパルトマンに引っ越した。
部屋の鍵をもらうと、つかつかと早足で窓を開けた。
潮の香りがほんのりと混ざった風がカーテンを揺らした。
家具付きカーテン付きで、すぐに入居できる物件を選んだ。
褪せた薄紫の生地に、オリーブの実と葉が賑やかに描かれたテロテロの化繊のカーテンは、前の住人が置いていったものだ。
白のレースのカーテンはそのままでいいとして、内側のカーテンは分厚い布に取り替えて遮光性を高くした。
柔らかい黄緑の天鵞絨なら理想的ね。赤や紺の天鵞絨では重過ぎるから。
朝は爽やかに目覚めたい。明る過ぎず、暗すぎないものがいいわ。
私はゴテゴテした装飾は好まない。スッキリして落ち着いたものが心地良くて好き。
王宮にある過度な装飾を凝らしたようなものは見るだけで疲れるのよね。
公爵令嬢とは思えないくらい、私は元々庶民派かもしれないわ。
ドレスも身軽で動き易いものがいい。
鼻歌交じりで荷物の整理をしていると、早速私宛に花が届いた。
イザベラと、勤め先の編集長からだ。
いきなり花の香りで部屋が満たされた。
イザベラからの薔薇の花束は花瓶に、編集長からの鈴蘭の鉢植えは窓辺に置いた。
これだけでも十分華やぐわ。
淡い桃色のジャカード模様の壁紙は古びているが、これはこれでシャビーな雰囲気があって良いので、まだ替える必要はなさそうだ。
新しいカーテンと花で部屋が生き生きしている。
テーブルを拭いて椅子に腰掛け、ここへ来る前に買っておいた、ローストした鴨肉と季節の野菜をみっちり挟んだサンドイッチを、林檎酒を飲みながらお腹に放り込んだ。
これが今夜の私の夕食。
貴族の食事ではないかもしれないけれど、夜すらも気ままに軽食で済ませることができるこんな暮らしもしてみたかったの。
湯を張った猫脚のバスタブに、イザベラの花束にあった薔薇を少しだけ浮かべた。
明日は仕事はお休みだから、ゆっくり過ごせそう。
寝台だけはかなり広めで、これならゆったり眠れそうだ。寝台に横になると、上の部屋の住人が床に何かを落としたのか、ゴトリという音が聞こえてきた。
今度はどこかのお宅のドアが閉まる音がした。四階まである螺旋階段を登り降りする音もしている。
アパルトマンで暮らすということは、他人と隣合わせで暮らすということ。
自分の出した生活音もこのように誰かの耳に届くものなのね。
オーブンで三日月型のパンを温めて、ミルク多めの珈琲に浸して食べる。
こんな食べ方もあるのだとこの国へ来て知った。
私はパンはパリパリ、サクサクのままが好きだけれど、新しい生活様式を片っ端から試したい。
私は没落貴族の令嬢という体で働かせてもらっているので、このぐらいの暮らしが丁度良さそうだ。
猫を飼うのはまだまだ先の話。
なんて思っていたのに······。
今日部屋に帰って来たら、私の寝台にちゃっかりいたのだ。
銀色の毛並みの赤い双眸の猫様が。