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許せない。女は腹の中で燃え盛る炎がその身を焦がす感覚をぐいぐい腹の底に押し込めながら走る。どうして上手くいかないのか。ジョナサンが愛する者は皆死を目前としている。奴らが彼の目の前から消えれば次こそは私と思っても、彼は次々に新しい愛を見つけて寄っていく。一体後何度彼が自分ではない何かを愛するのを見ては消すのを繰り返せば彼は諦めるのだろう。今彼女は泣きたくなるような孤独の中にいる。一つくらい、自分が貰っていい愛情があってもいいじゃないか。蛇と私だけでなく、もう少しだけ広い世界で、愛を浴びて生きていってもいいじゃないか。
そんな彼女を一匹の蛇が呼び止めるので、立ち止まって振り返る。ジョナサンの様子を探らせていた蛇だ。一番大切な任務についてくれている、一番お利口な子。しかし、彼がもたらす悪いニュースに、彼女は口元を引き締める。
「さて、どうしたもんですかね」
ソレイユは、ジョナサンが買ってきたサンドイッチを遠慮なく頬張りながら呟いた。昨晩「あいつに居場所がばれるとまずい」と言い出したかと思えば翌朝には新しいモーテルに居を移した彼女だが、突貫作業は流石に疲れたらしい。ベッドでぐったりとしたまま出迎えたと思えば、昼飯にと持ってきたサンドイッチを奪い取るんだから仕方がない。
「それで、これからどうするんだね?」
「それなんですよねえ。黒髪の女が何なのかはさっぱりだし、キースには王手かけられてるしで……あ」
彼女はしまったとばかりにジョナサンの顔を見て、「キースってのは、吸血鬼の名前」ともごもご言った。
「名前が無いんじゃなかったか?」
「ええ……なので、キースっていうのはあいつが私に騙った偽名です」
「偽名?そうか、そうやって人を騙して吸血してるという訳だな」
「そうそう。なんか、背格好が似た人を襲ってなりすませば十年はいけるとかなんとか」
「……詳しいな?」
「まあ、長い付き合いなんで」
「吸血鬼と?」
「そりゃもちろん」
ソレイユはパンくずのついた指先をペロリと舐めた。その姿を見てこれ以上話す気がない事を悟ったジョナサンは慌てて「話すような間柄なのか?」と追撃する。
「話しますよ。顔合わせた時は」
「そんな…え?逃げてるんじゃないのか?」
「逃げてますとも。吸血鬼ですよ?」
「吸血鬼だが……いや、なんというか、話すのか?」
「混乱してますね?」
彼女はそう言ってサンドイッチを一切れ差し出してくるので、ジョナサンはそれを受け取り一気に頬張った。ごくりと音を立てて呑み込むと、まだ混乱冷めやらぬ早口で捲し立てる。
「君、何度も襲われて、それで逃げているんだろう?どうしてそんな事が起こるんだ。会えば話すなんて。しかもなりすましのやり方だなんてそんなの、普通に聞いて教えてくれるものなのか?!」
「……何と言いますか」
彼女はそう言って、しばし押し黙る。そして、ゆっくりと言葉を選びながら話し出す。
「普通の人ですよ、接してみると」
「だが、相手は吸血鬼で、君の血を狙っているんだろう?!」
対するジョナサンは依然捲し立てるので、二人の会話は下手くそなダンスのようだ。
「そう、吸血鬼」
「君、ちょっと危機感が足りないんじゃないのか?そんなだからヴァンパイアハンターの師匠とも仲が悪くなるんじゃないのか」
「ううん……まあ、そうでしょうね」
「もっと、もっと本腰を入れて対処するべきだろう!君もしかして、僕の件もそうやって、のんびり構えているんじゃ……」
「それはないです!」
突然大声を出したソレイユに、ジョナサンは目を丸くした。
「貴方が困ってるのは分かってます!流石に、こんな……周り皆巻き込むようなのはダメです!」
「じゃあ……あのグールはどうなんだ?!あれは巻き込まれていると言わないのか?!」
「それは……」
彼女は目を伏せて黙り込む。ジョナサンはそんな彼女に「がっかりだよ」と吐き捨てるように言った。
「君が飄々としているように見えるのはつまり、そうやって問題を軽視しているからなんだな」
「はっ……?」
怒り立つ彼女に構わず、ジョナサンは部屋を出ていく。後にはただ一人、ドアを睨みつけるソレイユが残された。
「……ちっ」
暫くの後、ソレイユは舌打ちと共にベッドに座り込む。
腹は立っている。当然だ。問題を軽視している?言ってくれる。常識外のものと対峙する恐ろしさを、ソレイユは誰より知っている。そもそも一人で立ち向かえないから自分を頼ってきた癖に、事件への向き合い方でどうこう言われるのは癪に障る。
ソレイユは脳内を占めるイライラを取り除くため、カバンからフローライトの原石と研磨セットを取り出した。イラついた時はこれに限る。彼女は両手に道具を持ったままドレッサーに腰掛けると、慣れた手つきでキットの中身を天板の上に広げ、削っていく。
無心になって石の研磨をしていると、ふと初めて削ったブルーフローライトを思い出す。
「これを」
穏やかな祖父の声。手のひらに落ちてきたころりとした重み。灰色の母岩から覗く曇りがかった空のような青に見入ってしまったのは、二年前のチェルシー・ソレイユ。
「じいじ、これは?」
‘じいじ’の方をチラリとも見ずに問い掛けてきた孫に、じいじーーレオン・ソレイユーーは苦笑い。二十歳になっても変わらないじいじという呼び方も相まって、彼女はいつまでも少女のようだ。
レオン・ソレイユは青年の頃に宝石の美しさに魅入られ、それから今に至るまで宝石商一本でやってきた情熱の男だ。恋愛面でも情熱家であったので、三十の頃、旅行中の女性に一目惚れをして口説き落とし、一年の文通の末にめでたく結婚したような男。ソレイユのバイタリティは祖父譲りだと、両親はよく笑ったものだった。実際ソレイユも好奇心旺盛で冒険好きな少女である自覚があったし、祖父の話を聞くのも好きだったので、祖父に似ているというのは彼女にとって鼻の高い事だった。
もちろんそれは、レオンにとっても同じ。かれこれ60年近く愛をもって続けてきた仕事だったが、加齢とともに各国を巡り宝石を探す事が難しくなってきた。飛行機に乗れる体力が残っているうちに世話になった太客や同業に手持ちの宝石を売り渡し、本当に気に入った数個と墓に入る事を真面目に考えていたところだったので、子どもの頃から自分を慕ってくれた可愛い孫が後を継いでくれると言うならこれ以上嬉しい事はない。
ただ一つ気になるのは、孫娘はどうやら決して純粋な気持ちで宝石商を志した訳では無さそうだという事。
「最初の修行だよ、チェルシー。そのフローライトを磨いて、好きな形に整えてごらん」
「これを?何だかもったいないね」
その言葉に、思わず頬が緩む。そう、この子は昔から宝石が好きだった。美しいものが、と言った方が正しいのかもしれない。花も器も絵も全て、彼女は愛している。だけど、恐らく一番好きなのは人とのやりとり。素敵だと思う人にはふらふら寄って行くし、それで気に入ればいつまでもその人の話をしている。そういう子なので宝石商として自分の地盤を引き継がせる事に抵抗は無いのだが、とにかく、彼女が‘なりたい’というより‘なる必要がある’と思わせる気迫で後継の話を持ってきたので、レオンは少し警戒しているのだ。宝石商としての手腕というより、彼女の心中に渦巻くものに対して。
だからこそ、彼は彼女を試す事にした。石に、この仕事に真摯に向き合えるかどうかを。そして、彼女はどうやら自分の期待に応えてくれそうだ。レオンは黙々とフローライトの表面を削る横顔を見ながら思う。
さりさりという、石が削れる微かな音。それが一瞬止まるたびにレオンは顔を上げて彼女の手元を確認し、「がんばってるな」と微笑む。見切り発車で削り始めたので、最終的な形に悩んでいるようだ。とりあえず面を均す彼女は、初々しくも真剣だ。
「どんな形がいいんだろ」
早速助け舟を求めてきた彼女に「さあね」と返す。
「じいじはこういう時、考えてから削る?」
「僕も削りながら考えるタイプさ」
「おんなじだね」
「そうだね。ばあばには、よく怒られる」
「ふふ」
彼女はまた研磨に集中する。さりさり。
「ねえ。白いところ、無くなっちゃうよ」
「本来の色になるのさ」
「勿体無いね」
「そうかな」
「うん。なんだか。晴れていくみたい」
「晴れていく?」
「色が」
「ああ」
手元を見れば、薄ぼんやりとしていた青が今では雨上がりのようだ。さりさり。晴れ間がどんどん広がっていく。
「削る前の方が好きだったな」
「おや」
「何だか、私が正解を決めつけてるみたい」
「はは。フローライトの正解を?」
「うん。あんたは丸くなるべきだ、って」
「丸くなるべき、か。そうだね。もしかしたら、それに似合う形は他にあるのかもしれない」
「うん」
レオンはソレイユの言葉に含みがあるのを察した。その為、ひげを人差し指と中指で撫でながらしばらく相応しい言葉を考えてから、静かに口を開く。
「でもね、チェルシー。身につけるためには、相応しい形にしなくちゃあいけないんだよ」
「でも、それってフローライトの望みなのかな」
「随分と変な事を聞くね」
「……うん」
さりさり。彼女は手を止めない。
「もし、フローライトの望みが別だったとして、だよ?チェルシー」
「うん」
「身につけたい人の思いはどうなるだろう」
「うん?」
「フローライトを美しく整えたい人がいて、美しいフローライトを身につけたい人がいて。それを繋ぐのが僕達宝石商なんだよ、チェルシー」
「フローライトが望んでいなくても?」
「望む望まざるに関わらず、舞台に上げられる時はくる。フローライトにとっては今がその時だったんだ」
「曇り空みたいな自分が好きだったとしても?」
「好きだったとしても。新しい自分を愛さなきゃいけない時なんだ」
「そうなの?」
「きっとね」
さりさり。角の取れていくフローライトから目を離さないまま、ソレイユは「ねえ、もし私が吸血鬼と会ったって言ったらさ、信じる?」と聞いた。
さりさりと音を立てて削れていくフローライトが、中から本来の色を覗かせ始める。半透明の緑色は、アイスクリームの溶けたメロンソーダを思い出させた。美味しそうだな、とぼんやり思う。初めて削ったあの青色も好きだけど、こっちの色も中々だ。
あの時レオンは、すんなりとソレイユの話を信じた。元々宝石にまつわる妖精や幻獣は多く、レオン自身も60年のキャリアの中でそういうものに数多く出会ってきたからだ。誰も信じないであろう与太話の、最初の理解者。それにどれだけ彼女が救われたかは言うまでもない。
そういう意味では、自分は不親切だったかもしれないな、とソレイユは反省する。
ジョナサンもきっと不安だっただろう。普通の人間は人外のものと接する事なく人生を終える。本来相談できる相手などいないのだ。ましてや、彼は自分と違って姿を現さない敵に周りを攻撃されている。さぞ不気味だっただろうし、それが何者かの悪意と分かればそこに恐怖も乗っかる。ソレイユという、悪意の源に覚えがある上にそれなりに対処も分かる相手が目の前に来て、期待するなという方が間違い。
多分、スーパーヒーローのように「共に悪を討とう!」って言って欲しかったんだろう。ムシのいい話だ。気持ちは分かるからいいんだけど。
こっちが大人になってやるか。
あっちの方が大人だけど。
ソレイユはフローライトが美しく変わっていくさりさりという音を聞きながら、小さく微笑む。ちょうどいい事に、ノックの音が飛び込んできたので。