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「やあエリー。突然すまないね」
ジョナサンが病室の扉を開けて挨拶すると、エリーと呼ばれた女性は目を丸くして体を起こそうとした。ジョナサンは慌てて「いや、気を使わないでくれ。たまたま近くに寄ったから」と静止する。しかし、彼女が体を起こしたので、ジョナサンは一抹の申し訳なさを抱いた。
「その、調子はどうだい?」
「ご覧の通りよ」
ふん、と鼻を鳴らすエリー。彼女はどうにも高飛車なところがあって、ジョナサンはそこが苦手だ。だが、今日はソレイユからの密命があるのでおざなりにはできない。
「大変そうだ」
「その通り!」
手が動くなら盛大な拍手でもしてくれそうな言い方に、ジョナサンは少し笑う。エリーはムッとしたようだが、不可抗力だ。
「あのね、私大変なの。突然体が痺れて動きにくくなって……分かる?」
「ああ、そのようだ」
「なんで来たの?仕事は?」
「君が心配になってね。その、蛇の呪いだと心配してるんじゃないかと。今日は午前で仕事を切り上げて寄ってみたんだ。それに、この後行かなきゃならないところもあるしね」
「蛇?」
彼女は一瞬きょとんとして、笑い出す。
「呪い?嫌だわジョナサンあなた、そんなのを信じてるの?」
「いや別に、まるきり信じてる訳じゃないがね。君がそういうタイプだったら可哀想に思っただけで」
「ふうん?」
エリーは片眉を上げて彼を見る。それが理由じゃないでしょう?と問い掛けるような雰囲気。まあ、そうなるだろう。ジョナサンは内心苦笑する。しかし、任務を果たさない訳にもいかないので。
「これ、お見舞いのフルーツ。手が使いづらいだろうと思って、皮剥きの要らないものを持ってきたんだ」
「あら、ありがとう」
大袈裟に目を丸くする彼女に追撃。彼は鞄から可愛らしい包みを取り出すと、照れくさそうにそれも手渡す。
「それと、よければこれを。バッグチャームなんだが、お守りに」
「ええっ」
今回は心からの驚きだったようで、エリーからさっきからの大袈裟な表情が消えた。中々無い彼女のポカンとした表情を見て、ジョナサンは照れ笑い。
「いや、他意がある訳じゃないんだ。ただ、両親に渡して効果があったから、君にもどうかなと」
「ありがとう……え、両親?」
「ああ。実は同じ時期に父は原因不明の咳、母は高熱が出てしまって……藁にもすがる思いで買ったお守りだったんだけど、意外と効いたからね」
「貴方も大変なのね。ありがとう、貰っておくわ」
そう言ってエリーは小刻みに震える手でぎこちなく包みを開けようとするので、ジョナサンは慌てて「僕が開けよう」と包みを取り上げた。エリーからの再度の礼を聞きながらリボンを解けば、中から銀細工のガムランボールが顔を出す。
「これは?」
「ガムランボール。インドネシアのお守りだそうだ」
「ガムランボール……」
エリーはそう呟きながら、しげしげと手の平に置かれた球体を眺める。金色の球の外側を、いくつもの銀細工の花が覆っている。少女のような、可愛らしいデザインだ。エリーは自分がこういう風に見られている事に若干の照れ臭さを感じつつ、感覚の鈍った手の平の上で恐る恐る転がした。シャラ、という音と共に上手く人差し指と中指の間にハマったガムランボールは、さっきまで見えなかった下側を見せてくれている。
「綺麗な音ね」
エリーは模様をくまなく観察しながら言った。
「癒し効果があるそうだよ。元はガムランというインドネシアの宗教儀式に用いられる楽器で、それと同じ材料で同じ音が出るように作られているんだ。かなり宗教色の強いお守りと言えるね。でもーー」
「分かった。分かったから」
ジョナサンは人の話を折る横柄さにムッとしつつも「それなら、枕元にでも飾っておこうかしら」と笑顔を見せるエリーを見て、悪気はないのだろうと言葉を飲み込む。
「ああ、是非そうしてくれ」
代わりにそう言うと、ジョナサンは震える手でガムランボールを置こうとするエリーに代わって、それをナイトテーブルに置いた。
「それで、君が蛇を退治したっていうのは本当なのかい?」
ジョナサンは何の気なしに話題を変える。とはいえ、これが密命の二つ目なのだ。しかし、そんなことは露とも知らないエリーは慌てた様子で「ちょっとそれ誰から聞いたの」と言った。
「ええと、ヒューイからだが」
「ヒューイか……!」
どうやらヒューイに申し訳ない事をしてしまったようだ。ジョナサンは内心で手を合わせる。
「駄目じゃあないか。女性なんだから、蛇を自分で退治しようだなんて」
「じゃあ、客にでもやらせれば良かったってワケ?」
「いや、そうは言っていない」
「じゃあ何」
威勢良く睨みつけてくる彼女にたじろぎ、ジョナサンはそれを隠すようにため息。更に「他に何かやり方があったワケ?」と追撃を仕掛けてくる彼女に愛想笑いを返し、彼は言う。
「まあいいよ。それで、どんな蛇だったんだい?ほら、最近ニューヨークに大量発生してるそうじゃないか」
「え、そうなの?」
「いや、それもヒューイの話なんだがね……」
「何であいつはそう変な噂に詳しいのかしら。まあいいわ。そうね……灰色の蛇だったわ。真ん中に黒の模様が入ってて」
「もしかして、模様はジグザグ?」
「ええそう。……知ってるの?」
「同じ蛇を出張先で見てね」
「ということは……ええと」
「フィンランド」
「そう、フィンランド」
エリーは頷いた。ジョナサンはそれに頷いて返すと、「あれは中々美しい蛇だったね。知っているかい?毒があるらしい」と指をピンと立てた。もちろんエリーは「知りたくなかったわ」と顔を顰めた。その可能性に思い至らず、物差し一つで退治してしまったので。
「地味な灰色の蛇じゃない」
「まあ、ぱっと見はそうなんだが。でも、あの模様は興味深いと思うんだ。神はどうしてあんな風に規則的な模様を施したんだろうね?」
「さあねえ。凝った模様を入れるのが面倒くさくなったんじゃないの?」
「君は身も蓋もないな」
二人は笑い合った。そして、ジョナサンは朗らかな空気を残して「では、また来るよ」と席を立った。
一人残された病室で、エリーは先程貰ったガムランボールをつついて鳴らす。ずっと思うように動かない手のせいでイライラしていたけど、今の気分は悪くない。ジョナサンは旧時代的で女を下に見ている感じがするので好きではなかったが、二人きりで話してみると案外普通だった。それに、このガムランボールの音色は嫌いじゃない。彼がお見舞いにと持ってきた林檎は赤々と輝いて新鮮そう。食べればきっと美味しいはずだ。
今日という日は、全体的に悪くない。エリーは温かい心でベッドに横になる。
人の気配で目が覚める。暫く寝てしまったようだ。ベッドの上で退屈になると、すぐに意識が途切れてしまうから良くない。エリーは目を擦ろうとして、手が上手く持ち上がらないので舌打ち。ぼやける目をぎゅっと瞑って、また開く。黒いシルエットは、どうやら逆光のせいではなく黒髪のせい。
黒髪?エリーは顔を顰める。いたかしら、そんな看護師。いいえ、それより。ちりちりと脳裏を掠める記憶の断片。エリーはその一つに手を伸ばす。そう、あの長い黒髪。どこで?そうよ。あの時。必死で蛇を退治した後。拍手や口笛に応えて手を振って、気分は高揚しているけど業務に戻らなきゃって思って、受付カウンターに戻って。そう、そうよ。その後。あそこまでする必要はなかったのではって、恨みがましい目をして。
あの女が、来たんだわ。
「いっ、嫌!」
全身が粟立つ。すぐに逃げなければ。エリーは何とか体を起こそうとするも、震えの止まらない手は言う事を聞かず、支えにしようとしてはずるりとバランスを崩してしまう。そんな彼女に女は無慈悲にも近づいて、「貴女って本当に酷い人なのね」と冷たい声を発した。エリーはあまりの恐怖に泣き出すが、女が哀れんでくれる様子はない。
「ねえっ!謝る!謝るわ!あの時は蛇に酷いことしてごめんなさい!蛇好きだったのよね?あっ……模様!模様が素敵なのよね!規則的な模様でいいわよね!」
「そうではなくて」
女は静かにそう言うと、エリーの頬に触れた。
「どうして貴女のような方が彼とお近づきになれるのかしら。かわいい蛇を追いかけ回すような心無い人なのに」
「えっ」
彼、彼って。エリーは問い掛けようとしたが、無理だった。全身の力が抜ける。
「貴女、そうしているのがお似合い」
女は踵を返して去っていく。後には全身が麻痺して口も聞けなくなった女が一人残されるだけだった。