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「ようやく馬脚を現しましたか……あの馬鹿は」
男が窓の外を眺めながらクツクツと肩を揺らして笑うのを、床に転がった男がぼんやりとした瞳で見上げている。窓の外には真っ黒のビル影と、星空が見えるのみだ。
適当にグールに街を彷徨わせては人を襲わせて遊んでいただけだったが、思わぬ拾い物をしたようだ。まさかこんな冴えない男が、彼女と繋がっていたとは。
「女は強情で困ります。そうは思いませんか」
男は振り返り、同意を求めた。しかし、帰ってくるのは沈黙のみ。それを見て彼は「情け無い方ですねえ」と肩を竦めた。
「少しはあれを見習ったらどうです。あれはあの小さな体で私から逃げ切ったんです、貴方にもできるでしょうが」
ぐらり。男の頭をつま先で揺らすが、何も反応はない。気絶しているのだ。彼はようやくそれに気づいて鼻を鳴らした。
「……まあいいでしょう。あんな馬鹿、あれ一人で十分です」
彼は窓の向こう、この街のどこかにいるソレイユに思いを馳せる。あの女、グールに向かって「人のネックレスを壊したのはあんたか」と叫んでいたな。馬鹿な女だ。グールと俺が視界共有できていると、まだ気づいてないらしい。とにかく、あの厄介な探知機が壊れているならこんなにありがたい事はない。この街でケリをつけてやる。
男は窓の外に向かってほくそ笑む。ちらと覗いた犬歯は、鋭く尖っている。
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「はぁ」
宿に着くなり、ソレイユはジョナサンが着いてきているにも関わらず大きく足を投げ出してベッドに寝転がった。突然の痴態に困惑して目を逸らす彼に、彼女は「喉乾いたでしょう。そこのレモネード勝手に持ってっていいですよ」と寝たまま棚を指差す。
「……なあ、あの。何故あそこにいたんだ?」
「言った通り。銀行の貸し金庫に行ってたんです。貴方とも銀行か途中の道で会えると思って」
「ああ……そうなのか」
「アクセサリー全部宿に持ち帰ってたら管理が大変ですしね」
「まあ、そうだな……それで」
「はい?」
頭をもたげて自分を見てくるのが何とも気まずく、ジョナサンは慌てて勧められたレモネードを手に取り、蓋を開けた。爽やかな柑橘系の香りが部屋に舞う。
「その、それで。あの女、一体何だったんだろうな」
「何でしょうね。ラリってましたから何かしらの方法で操られてたんでしょ。私は黒髪の女が何か悪さしたと踏んでますが」
「黒髪の……」
「ええ」
彼女はようやく体を起こし、ジョナサンの方へと手を伸ばした。すると彼が見事なまでに狼狽するので、彼女は「何やってるんですか。レモネードですよ」と呆れた声を出した。
「あ、ああ、レモネード。そうか、レモネードか」
「当たり前でしょう。こっちだって疲れてるんですからね」
口を尖らす彼女にレモネードを手渡せば、彼女はポケットから出したコインで手早く瓶の蓋を開けた。
「何なんでしょうね。ずっと貴方の周りばっかり攻撃してたのに」
「ああ……」
「……どうしたんですか?さっきから」
ソレイユは訝しげな目を向けるが、ジョナサンは俯いて喋ろうとしない。緊張感のある沈黙が暫く部屋を支配した。
「……あの」
たっぷり待ったソレイユだったが、ついに痺れを切らして声を掛ける。すると、ジョナサンは「君、夫がいる?」と震える声で問うた。
「いいえ、いませんけど」
「あ、ああそうか。そうだな。そうだと思ったよ。でなければ各国飛び回るなんてできないからな」
「仰る通り。で、ええと、どうしてその質問が?」
質問を返したソレイユだったが、直後「あ」と目を丸くしたかと思えばジョナサンの方に手のひらを向け、「待った。分かった。もしかしてあの女、私の名前を言いました?」と言った。
「……ああ。ミスター・ソレイユと」
「うわ。うわあ……」
途端にソレイユは真っ青になって、頭を抱えた。
「見つかった……」
「な、なあ、どういう事なんだ?」
「えと、ええと。ちょっと待っててくださいね。どうしよう。どこから話せばいいのかな……とりあえず、あの女どんな事言ってました?」
「……言えない」
「へ?」
「悪いが、先に君から話してくれないか?」
疑われている。ソレイユはそれに気付くとあからさまに不快感を顔に出した。しかし、ジョナサンとて引き下がる訳にはいかない。二人はしばし睨み合うが、先に折れたのはソレイユ。疑われても仕方がない状況とは、一応理解しているので。
「はぁ……ホント、どこから話せばいいやら。追われてるんです。吸血鬼に」
「吸血鬼?」
「疑ってます?」
黙りこむジョナサンに、大袈裟なため息。
「呪術はすんなり信じたくせにねえ……まあいいや。ほら」
そう言って彼女は着ていたブラウスのボタンを二つ外し、左肩を露出させる。そこには治りきらないうちから何度も噛まれてぐちゃぐちゃに癒着した、痛々しい傷跡があった。ジョナサンは思わず息を呑む。それを見て彼女は少し笑って「吸血鬼の噛み跡です。信じてもらえます?」と聞いてみた。答えはないので、彼女は勝手に語りだす。
「もう二年前になるかな。吸血鬼に捕まって、毎日血を吸われてたんです。それである日隙を見て逃げ出したはいいんですけど、思った以上に好かれてたみたいで。それからずっと追われてるんです」
「ずっと……」
「ええ。色んな幸運が重なって、ミドルクラスのお嬢さんの座を手放すだけですみました。二年前まではスカート履いて可愛らしく過ごしてたんですが……祖父がね、宝石商だったんです。なので、なんとか家に戻ってきてすぐに弟子入りして、世界中逃げ回りながら商売をしています。その中で必死で文献を漁って対処法を学んで、ヴァンパイアハンターなんて方にも巡り会えて……」
「ヴァンパイアハンター……」
「ええ、私も、本物の吸血鬼に襲われた後でも存在すると思ってませんでしたよ。いたんです。色々教えて貰いました」
あんまり仲良くないんですけどね。喧嘩ばっかりで。ソレイユは一瞬見せた寂しげな表情をすぐにしまい込むと、「あらゆる意味で運が良かったんです」と肩を竦めた。
「そうか……なあ、その吸血鬼、君の名を名乗っているのか?」
「ええ、彼は自分の名を持っていないので」
「名前が無い?」
「集団生活する生き物じゃありませんからね」
「親は?」
「さあ?どこから来るんでしょうね、彼ら」
「でも、物語だと吸血で増えるって……」
「いやそれが、死ぬまで吸血されたのはグールになるし、生かされてる私は多分人間なんですよね」
「多分って」
「いや、ご覧の通りがっつり吸血されてるんですけど、お日様も十字架も平気なんですよ。自分も師匠もなんでなのかさっぱりで」
「はあ……」
「そうなんです。で、グール。貴方を襲った奴ですが」
話が移ったところで、ジョナサンは突然慌て出す。
「ああ、そう!それなんだが!なあ、僕はアレに引っ掻かれたんだが!」
「引っ掻かれた?あーあ」
「ぼぼぼ僕はどうなるんだ?!」
「いいですか、グールって言うのは致死量まで血を吸われた後の、動く死体です」
「死体?!そ、それで、つまり、僕も死ぬのか?」
「いいえ」
「いいえ?!」
「ほら、グールっていうのは中途半端なヴァンパイアなんです。人を襲って血を奪おうとするけれど、発達した犬歯もなければ血を消化して栄養にもできない。三日そこらの命です」
「待てじゃあ僕も三日で?!」
「いいえ」
「いいえ?!」
「別に引っ掻かれた位じゃ何も起きませんよ。ベースは人間ですからね」
「じゃあ何でさっき‘あーあ’って言った?!」
「引っ掻かれて可哀想だったので」
「くっそ!」
ソレイユがけらけら笑うのを、ジョナサンはぶすくれた顔で睨む。彼女はそれをものともせず、笑いの余韻を残したまま「生前の言葉をずっと繰り返していたでしょう?何か気になる事言ってました?」と問い掛ける。すると、生来真面目なジョナサンはすぐに頭を切り替え、「生前の……ああ、喋っていたよ」と話し出す。
「僕は逃げる事に必死でちゃんと覚えてはいないが……恐らくあれは、吸血鬼に騙されて攫われたんだ。最後、彼女はミスター・ソレイユに許しを乞うていたよ」
「やっぱりですか……」
ソレイユは暫く目を伏せて思慮に耽っていた。つられるように、ジョナサンも女の事を思い出す。彼女は既に亡くなっていた。そう思うと途端に彼女が不憫に思えてきて、ジョナサンはそっと十字を切る。恐ろしかったろう、人間同士と思っていたものに襲い掛かられ、血を吸われるのは。死してなお動くあの体の中には、一体どれ程の無念が詰まっていただろう。彼女を憐れむと同時に、今病窓に伏せる両親や友人、そして自分自身の死が急に現実味を帯びる。もしこのまま黒髪の女のなすがままになってしまったら、自分も彼女のように、命乞いをしながら死んでいく羽目になるのだろうか。ジョナサンはぶるりと体を震わせる。
そんな彼を、窓越しに蛇が見ていた。