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「あの、ご機嫌よう。浮かないお顔ですわね」

 突然掛けられた声に、ジョナサンは驚いて振り返った。一日の仕事に加え、最近の現実離れしたごたごた。疲れていないといえばもちろん嘘になる。しかしーー

「ええと、どこかでお会いしましたかな?」

 ジョナサンは問う。そう、こんな夕暮れの往来で声を掛けてくる女性に心当たりがないのだ。白人としては濃い肌と彫りの深い顔。典型的なヒスパニック系の、若々しい女性。自分の周りにいる人物にしては珍しい特徴の持ち主だが、心当たりは無く。なんて事を真面目くさって考えてしまうあたり本当に疲れているのだろう。その判断の遅さが今日は命取りになった。

「そうなんですのね。せっかくですもの、楽しんで下さいな」

 は、とジョナサンの口から声にならなかった吐息が漏れる。一体彼女は誰と話しているのか。彼は後ずさる。しかし、それさえも彼の判断の遅さの表れ。すぐに踵を返して逃げるべきだったのだ。

「まあ」

 嬉しさのこもったその声とは真逆に、彼女はジョナサンの元へ駆け寄ってくる。伸ばされる手を更に後ずさって避け、彼は踵を返す。爪がスーツの袖を引っ掻いた。一抹の不安。それを払うように、彼は早歩きでその場を離れようとする。一歩、二歩。すぐに手首を掴まれ、振り払う。再度掴まれそうになる腕。慌てて振り上げ、事なきを得た。このまま取っ組み合いをしていてはいけない。ジョナサンは諦めて走り出すと、当然女も後を追う。しかし、ここはニューヨーク。夕暮れとはいえ人通りは少なくない。その中で肩が当たるのも気にせず駆け抜けてくる女に対して、すれ違う人々を気遣って走る彼はあまりにも不利。次第にジョナサンも走りが乱暴になってゆき、最終的には両者共往来の人々を突き飛ばし、跳ね飛ばし、怒鳴り声を背に受けながら走る事になった。何なんだ、女の癖に。その貞淑さのかけらもない振る舞いがジョナサンをイラつかせた。紳士である自分にこんな野蛮な真似をさせるとは。

「何なんですか一体?!お嬢さん貴女、自分が何をしているか分かっておいでですか?!」

「素敵な名前ですわね。フランス系ですの?」

「ああもう!」

 早々に対話を諦め、ジョナサンは走る。何とかブルックリン橋まで。そうすればソレイユが何とかしてくれるだろう。ここから橋までは15分、いや、裏路地を突っ切って行けば10分だ。やれる。ジョナサンは己を鼓舞しながら足を前に出す。


 程なくして目的地は見えてきた。であるにも関わらず、彼は絶望する。ブルックリン橋が薄闇に包まれる中、イースト川に僅かに残った日光が空の裾を薄紫に染める。この絵画のような美しい景色を一目見ようと、橋の周りは観光客やカップルでごった返している。この中からソレイユを探し出す?追ってくるあの女と距離をとりながら?ジョナサンは目の前が真っ暗になった。

「嬉しい、是非ご一緒したいわ」

 後ろから聞こえた声がやけに近かったので、ジョナサンは慌てて振り返る。あの女だ。体格で有利な分引き離せたかと思っていたが、思ったほどではなかったのだ。見ればなるほど、服は所々汚れ、小傷があちこちにできている。自分がどうなろうが構わず追ってきたらしい。そんなの相手に一体どうすれば。ジョナサンは迷い、迫り来る女の派手に塗られた指先を見て決断する。迂回しよう。こんなところを突っ切れば誰かを巻き込んでしまう。病に倒れた両親が脳裏をよぎる。

 何故自分はこんな目に遭うのだろう。ここ最近ずっとしてきた問いを、また自問する。何をしたというのだろう。真っ当に、ただ真っ当に生きてきた。第二次世界大戦終結後も冷戦が続く中、祖国の発展の為に精一杯勤めてきた。若者達は新しい価値観に自由に正義と勝手を宣って。何も知らない奴らが想像上のユートピアに浸る中、自分はただ堅実に、やるべき事をやってきた。それがどうだ。

 その仕打ちがこれだと言うなら、神よ。貴方ほど残酷な者はいない。

 ジョナサンは若い世代を呪いつつも巻き込む事が出来ない自分を嘲りつつ、また走り出す。背に掛かる「どうなさったの?」という声が可憐なので、逆に吐き気を催しながら。


 背に受ける声が「待って」「どうして」と切羽詰まったものに変わっていく。通行人の「女たらしだねぇ」というヤジ。今なら立ち止まって意図を聞いても、答えが返ってくるのでは。ジョナサンは思わず立ち止まりかけて、体に鞭を打つ。騙されてはいけない。相手はジョナサンの周りの人々を苦しめてきた相手であるーー少なくとも、その一端を担うであろうーー事は明らかなのだ。聞いていた黒髪ではないが、そんなもの何とでもなる。ただ一つ言えるのは、あの様子のおかしい女が一般人なはずがないという事。捕まれば自分も病気になるのか、それとも。

 とにかく逃げ切らなければ。彼はひたすら走る。しかし、既に限界が近い。ゼヒューゼヒューと冷たい空気が直接肺に入ってくる感覚。顎が上がってくる。ビルの隙間から日が沈んで青黒くなった空が見える。もう駄目だ。いや、やらねば。ジョナサンは脳内で起こる言い合いを他人事のように聞きながら走る。

 不意に頭がクリアになったのは、女が「ミスター・ソレイユ、やめてください。ミスター・ソレイユ」と叫んだからだ。

「はっ?」

 思わずジョナサンは立ち止まり振り返った。ミスター?ミスではなく?いやそもそも何故彼女の名がその口から出てくる?質問しようにも、相変わらず彼女の目はどこか虚空を見ていて、会話不能のままだ。

「何故その名を?」

 それでも、一縷の望みをかけて問い掛ける。もちろんそれは徒労に終わり、彼女は容赦なくジョナサンの首筋に手を伸ばしてくるので、彼はその手をはたき落とす。

「やめて下さい。嫌だ、怖い……」

 怯えきった声。何なんだ。ジョナサンは後退りながら考える。ピースが繋がっていく。彼女、さっきはフランス系の名前がどうの言ってなかったか。あの時に出会ったんじゃないのか。

「なあ、答えてくれ。ミス・ソレイユって誰なんだ」

 思わず大声が出るが、女は聞こえているのかいないのか分からない様子で呻きながら、ジョナサンの首筋を狙って手を伸ばす。慌てて一歩身を引いて、ジョナサンはまた駆け出した。

 しかし、救いはあるもので。

「あれ?ミスター・アンダーソン?」

「えっ?!」

 正面に見覚えのあるシルエットが現れたと思えば、そこにはブルックリン橋にいるはずの彼女が立っていて。

「え、何で……」

「銀行の貸し金庫に、売り物預けに……って、ちょっと、その人」

「あっ!」

 また叫んで、ジョナサンは振り返る。女が振り下ろした手が頬を引っ掻く。頭の中を‘病気’の二文字が占める。

「う、うわ!引っ掻いた!こいつ引っ掻いたぞ!」

 大慌てし出す彼を見て、驚いたのはソレイユ。彼を見つけたのがついさっきなので、二人は知り合いと思っていたのだ。

「へ?」

「ミ、ミス・ソレイユ!こいつおかしいぞ!」

 そう言った直後に‘ミスター・ソレイユ’の存在を思い出してより焦る彼をさておき、ソレイユの目は険しくなる。

「人のネックレスを駄目にしたのはあんたか!」

 そう叫んだと思うと、彼女は人目も憚らず女に駆け寄って回転蹴りを喰らわせた。

「うっぐ!」

 女は吹っ飛び、落下先から更に1メートルほど地をずった。しかし、女は痛みを感じさせない俊敏な動きで立ち上がり、こちらへと駆け寄る。通行人の下品なヤジ。それをものともせず、ソレイユは女の腕を取ると、加速を利用して引き倒した。

「お姉さん、どこの誰?」

「やめて、助けて……」

「ああ、目がイってるね」

 そう呟くと彼女は女の腹に一発蹴りを入れ、「さあ逃げますよ」とジョナサンの手を取った。

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