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ここはアメリカ、人種の坩堝。かつてこの土地に栄えたネイティブ・アメリカンから始まり、イギリスにブラジル、中国。更には奴隷貿易によって連れてこられた黒人達。この国では様々な人種がひしめき合い、互いのエゴをぶつけ合う。今は女性と黒人の番。彼らと彼らに賛同する人々が平日の朝も厭わず元気にプラカードを掲げて叫んでいる、というのが昨今のアメリカだ。最早日常の一部になったとも言える光景だが、ジョナサンは未だにそれに馴染めずにいる。
ジョナサン・アンダーソンは銀行に勤める35歳。至って真面目な会社員だ。金髪青眼の典型的な白人で、平日はスーツにネクタイ、休日はぱりっとしたシャツにガウチョパンツを合わせるような、古き良きアメリカ人。最近流行りのヒッピースタイルとは無縁だし、むしろ早く廃れてくれとさえ思っている。
そんな彼であるので、毎日の出勤は少しだけ苦痛だ。仕事はやりがいに満ち溢れているし毎日は楽しい。しかし、このニューヨークという街は何分主張の強い人間の多いところである。道を歩けば流行を取り入れた奇天烈なファッションとか、よせばいいのに厚かましくも権利を求めて叫ぶ人々。どうにか静かに、心穏やかに出勤できないものか。彼は心悩ませる。せめて、周りが次々と病に倒れている今くらいは、心穏やかに過ごさせてくれないか。
しかし、世の中悪い事は重なるもので。
「ご機嫌ようお兄さん。やっと見つけた」
いつも通りホットコーヒーを買って職場へと向かう道すがら、彼は突然声を掛けられる。振り向けば、茶髪をボブに切り揃えた女がずんずんこちらに歩いてくるところだった。そのあまりの剣幕にジョナサンは後ずさるが、彼女は当然のように前進して距離を詰めてくる。
誰だこの女。ジョナサンは必死で記憶を掘り返し、果たして思い出す。あの時だ。あの時の、あの女。ずっとにこやかな笑顔しか見ていなかったから分からなかったが、あの女か。
「なんで」
思い出したからこそ、声が出る。それは彼女の神経をずいぶん逆撫でしてしまったようで、途端に青筋を立てて詰め寄ってきた。
「なんで?言ってくれますねえお兄さん。そっちが仕掛けてきた喧嘩でしょう。麻薬だか呪術だか知りませんけどまあ良くやってくれたもんです。ええ、大成功ですね。私じゃなけりゃあ逃げ仰せられたでしょうけど相手が悪かったって事ですよざまあみやがれ!」
そう怒鳴りつつ、彼女はローキック。「いてっ」と、我ながら情けない声が出た。もうホントに何なんだこの女。ジョナサンは泣きたい気持ちを抑えて「やめて下さい」となんとか声を絞り出した。すぐに「あぁん?」と睨まれたのでジョナサンは実際少し泣いた。
本当になんでこんな事に。彼は彼女との出会いを思い出す。
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彼がブルックリン橋で営まれている露店の一つに足を止めたのは、煌びやかなアクセサリーよりむしろ売り子の方が気になったからだ。他の州よりはいくらか先進的なニューヨークとはいえ、女性が露天の売り子を務めるのはまだまだ珍しい。しかも、洋服なり安価なものならまだしも宝石が散りばめられたアクセサリー。大丈夫なのか。彼はついワゴンの品揃えを確認してしまう。すると、ワゴンの横で座っていた女は立ち上がり、気さくな笑顔を向けてきた。
「いらっしゃいませ」
「ああ、どうも」
女は風に靡く茶髪を手で押さえながら、ピーコックグリーンの瞳を細める。しかし、立ち上がった事で余計に彼女の小ささが際立つ。身長160cmも無さそうな、細身の女。早晩カツアゲにでも遭って売り上げを失いかねないようなような頼りない体ながら、堂々とした立ち姿と快活な笑顔を見ていると、何となく‘大丈夫かもしれない’と思ってしまう。不思議な女だった。まあ、ここで立っているのならば商売はできているという事か。観察を終えたジョナサンは踵を返そうとするが、女の「珍しいですね」という言葉に動かし掛けていた足を再度止めた。
「珍しい……ですか?」
「はい」
きっぱりと言い切るのに驚いて、ジョナサンはまじまじと彼女を見てしまう。すると、彼女は目を細めて笑った。
「珍しいですよ。そんな疲れた顔してアクセサリー見にくる人」
「えっ」
ジョナサンは思わず自分の頬を触る。疲れている。確かにそれはそうだ。しかし、見てわかるレベルになってしまっていたとは。咄嗟に彼は「ハハ」と空笑いする。
「分かりますか」
「はい。何かあったんですか?」
「何という訳ではないんですけどね……最近身の回りで怪我や病気が多くて」
「うわ、大変だ」
彼女は目を丸くすると、すかさずワゴンの一角を指差して「買います?お守り」と言った。そちらを見れば、なるほどウィッシュボーンやてんとう虫、馬蹄を模ったペンダントトップが所狭しと並んでいる。ふと、母が「こんな風に夫婦揃って病気になるのはよくない前触れかもしれない。お前も気をつけるんだよ」とオカルトじみた事を宣っていたのを思い出す。一つ買っておけば静かになるかもしれない。
「これは、それぞれ意味があるんですか?」
「うん?あるにはあるけど、好きなのを買うのが一番ですよ」
「ええ……」
「身に付けてテンションが上がるのが一番大事、ってね」
彼女はまた笑う。随分とまあ、笑顔の多い人だ。ジョナサンは半ば感心しながら「随分と適当を言いますね」と嫌味を一つ。
「大切なのはね、お兄さん。気に入って毎日身に付けることですよ。偽物とか本物とか、由来がどうとかは関係無くて。貴方が大切にした分だけ返してくれる。それがお守りなんです」
「はあ、そうですか」
彼女が随分きっぱり言い切るので、ジョナサンは苦笑いを隠せない。なんだ、その理屈は。
「まあ、そう仰るなら買いますがね。どうなのかな」
「どうでしょうね。いい事あるといいですね」
彼女はまた笑う。ジョナサンはそれを横目に鷲のネックレスを手に取った。なんとなく、アメリカ人らしく。
結果として、お守りの効果は覿面だった。病窓の父に渡したところ、目に見えて症状が回復したのだ。そんな馬鹿な。ジョナサンはそう思いつつも、次はついに母の分をと再びブルックリン橋へと向かう。
「ありゃ、いらっしゃいませ。二日連続?」
昨日と同じ場所で商いをしていた彼女は、ワゴンの前で立ち止まったジョナサンに声を掛けてくる。それに気恥ずかしさを覚えた彼は「まあ」と曖昧に濁して母に合いそうな小ぶりなてんとう虫のネックレスを手に取るが、彼女はそれを許してくれず。
「ああそっか。身の回りでって仰ってましたもんね。あといくつ御入用なんですか?」
「あ、ええと、これだけで」
「そうですか。この店今日までなので、買い忘れのないようにお願いしますね」
「え」
「ちょっくらスリランカまで、宝石の買い付けに」
「……はあ」
ジョナサンは屋台のアクセサリーに目をやる。すると、彼女は「こんなところじゃ売りませんよ、本物なんか」と笑った。
「え、じゃあこれは」
「シルバーは本物。ただし純銀ではありませんが」
「ええ……」
「んふふ。大丈夫。純銀って柔らかすぎるから普通アクセサリーやカトラリーには使わないんです。日常使いするなら丈夫な方がいいですからね。呪術的な目的がなければ92.5%シルバーが一番使いやすいんですよ。それに、効果あったんでしょ?」
「それは……そうですが」
「ね?で、一つでいいんです?」
「ああ……そうですね……」
ジョナサンは職場の後輩や行きつけのバーのバーテンダーの顔を思い浮かべて首を横に振る。彼らにもあっていいだろうが、それをするのは自分の役目ではないだろう。
「いえ、結構です」
「はい、じゃ、10ドルね」
「どうも」
ぺらりと渡された10ドル札を、彼女はそっと受け取ってキャッシュボックスに納めた。
あの朗らかそうな女が、まさかこんなことを。
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引き摺り込まれたダイナーで、ジョナサンは苛々を隠さぬままアイスコーヒーを口に含む。
「で?今なら言い訳を聞いてあげましょう。何のつもりだったんです?」
「だから、何の話なんだね」
彼女が睨んでくるのに睨み返しながら、ジョナサンは言う。妙な威圧感があるとはいえ、相手は小娘。いつまでも縮こまっていては男が廃るというものだ。
「何の?舐め腐ったことを言わないで下さいよ。貴方、人様に試して回ってるんでしょう?ドラッグだか禅だか呪術だか知りませんけど」
「おい、君まさか私をそこらのヒッピー共と同じ扱いをしているのか?」
「そこらのヒッピーよりも下の扱いをしてますね」
「何っ……!」
ジョナサンはいきり立って思わず腰を浮かすが、彼が立ち上がる事はなかった。一瞬早く立ち上がった彼女に額を抑えられてしまったからだ。
「くそっ……何の真似だ!」
「本当に、ほんっとーに、分からないですか?」
「いい加減にしろ!」
ジョナサンは怒りのあまり、力任せに頭で手を押し返す。所詮は女の力。ぐぐ、と頭が前に出てきたところで突然彼女は手を離した。もちろん、ジョナサンは悲鳴と共に前につんのめる。しかし、彼女は気にも留めずに席に座り直すと、何やらぶつぶつと思案し始めた。
「ええ……じゃあ何、この人の周りを攻撃しまくってるのがいるってこと?怖……」
「おいあんた、いい加減にしろよ!何の話だ!」
「ちょっとね、私もそれを見失ってます」
「はあ?!」
「身の回り攻撃されてお守り買うだけで済ませられる呑気な人がいるなんて思いもよらなかったもんで」
「おいあんた!」
ジョナサンは度重なる侮辱に激昂しかけたが、‘攻撃’の二文字に踏みとどまった。
「待て、攻撃?」
「攻撃でしょう、どう考えても。そんなばったばったと倒れていくことあります?」
事も無さげに言ってのけた彼女に、言葉を失った。攻撃。あり得ないと思っていた。ピンポイントで自分の周りの人間だけが大病を患うなど。しかし、特定の誰かを人為的に病気にさせるなどあり得ないから、彼はここ最近の事を悲しい偶然として処理する事に決めていた。ああしかし、攻撃。これが、誰かの悪意とするならば。
「なあ、どういうことなんだ。頼む、教えてくれ」
ジョナサンの口から、素直な思いがまろび出る。彼女はもちろん首を横に振った。