繊月の涙
夜空の月をどれほど留めておきたいと願っても、人の子には為す術も無く、それは太陽とて同じ事なのだろう。
開け放された雨戸から差し込む夏の朝の日差しが、美夜を無意識のまどろみの世界から現実へと引きずり戻した。
雨雲と共に、夜はとっくに行ってしまったらしい。
願わくば、この目を再び閉じて覚める事の無い眠りの淵へと身を投げたいものを―――
だが、怯える体を母の胎内の様に包み込んでくれる闇の中ならまだしも、無慈悲に眼を射る陽光にどうして目が塞げようか。
程なくして、水の入った漆塗りの桶や手拭など、洗面道具の類いを持って志津がやって来る。
「よくお眠り遊ばされたようで、何よりです」
昨夜の決まりの悪さから口をつぐむ美夜とは対照的に、志津はそんな事もどこ吹く風と、何も無かったかのように美夜の朝の身仕舞いを手伝っていく。
病人の様に、志津にされるがまま洗顔を済ませると、仄かに眠気にたゆたっていた意識も明晰になっていき、全てが現の出来事なのだと認めない訳にはいかなかった。
現も現、むごたらしい程の浮世の巡り合わせ―――
「お召し替えをいたしましょう」と肌着の上から紅絹の長襦袢を着せられて、ある事が美夜の頭を過る。
「あの……わたしの着物は……」
昨夕、伯爵家を出た時に身に着けていた着物は、湯浴みを終えて上がるとどこへ持ち去られたのやら、跡形も無かった。
「お召し物でしたら―――」
一步一步、肩で風を切って歩みをなす様子が伺える昂然とした足音、それに伴って腰に下げられたサーベルの立てる硬い音が、志津の口をはたと閉じさせた。
「お早う、美夜」
灼灼と照らせる夏の日輪を背にして現れた焔の立ち姿は、今日も今日とて比類なき勇ましさである。
思わず目を逸らしたくなったのも、旭日の眩さのせいのみではないだろう。
「おはよう、ございます」
美夜は、我とはなしに志津と共に頭を垂れて、三つ指まで突いていた自分にはっとさせられた。
(この人を前にすると、わたしの体がわたしの物でないみたい)
目に見えない人形遣いの手に操られでもしたかのように、自分の意思を越えた何か大きな力に突き動かされるまま、身を任せる他は無くなってしまう。
この力は、いつしか美夜を美夜でなくさせてしまうのではないか。
「わたしの着物と、リボンはどちらでしょうか」
これ以上、自分を失いたくはないと口火を切ったのは元より、怜子の買い与えてくれたそれらの品々は、美夜にとって単なる衣装や装身具以上の価値を持つものだった。
特に、リボンはついこの間街に出掛けた折に買って貰ったばかりなのだから、尚更だ。
ふと見上げた時、涙ぐましくなるほどの風情を漂わせている夕空の様なやさしい淡紅色で、タレの部分には真っ白な刺繍のマーガレットが、生き生きと咲いている。
そのリボンの一対さえ、怜子との忘れ得ぬ初夏の思い出の形見であるのに。
焔の、毛筋一本乱さずに切り揃えられた前髪の下の双の目が、鋭く細められる。
「何か、あの着物に拘る理由でもあるのか?言ってみろ」
真実は口が裂けても言われまい。
否、本当に口を切り裂かれるやもしれぬ。
「……いいえ、ありません」
「それで良い。あんな安物、私の対の月影たるお前には相応しく無い。……おい、志津」
焔が部屋の片隅の志津を振り返り、顎で示すと、彼女は無言で立ち上がって部屋を後にする。
やがて、戻った志津の手にしていた包みが開かれると、目にもあやな着物や帯の数々が現れる。
まるで、蔓も幾重に絡む朝顔の花が畳の上に群れ咲いたようだった。
夏向きに生地こそ薄けれど、袂や裾に余す事なく華美な刺繍が施された本藍染の振り袖や、金銀砂子を一面にまぶした天の川の如き帯など。
今まで目にした事も無い綺羅の数々は、美夜に思いがけない驚きの声を立てさせたけれども、その瞳に娘らしい喜びの輝きを与えはしなかった。
「美しかろう?帝都でも指折りの店に仕立てさせたのだから」
焔は得意げに、今度はそれを美夜に着せるよう志津へと命じる。
そして、着付けの様子を立て膝でシガレットの紫煙をくゆらせながら、芸妓のあだな舞姿でも眺めるように見入っていた。
振り袖は、いつの間に測られていたのかと思うくらい、身丈や袖の長さも美夜の体にぴたりと合った。
髪型も、おさげは子供じみていて好まないと焔が言うので、高々と結い上げ、色素の薄い髪に映えるようにと鮮やかに濃い色彩の髪飾りをいくつも挿す。
猩々緋と山吹色を組み合わせた大ぶりなつまみ細工の簪が、うつ向いた顔を隠すように揺れた。
唇や頬、目の縁にも紅を差して、ようやく仕上がったその出来栄えやいかに―――
「随分見違えたではないか。色香の初々しく匂い立つ様と言ったら、藤娘も及ばぬだろう」
手柄顔に身を乗り出し、様々な角度から自身の着飾らせた美夜の姿を観察する焔と共に、美夜自身も鏡台の中に座る見知らぬ娘をまじまじと見ないではいられなかった。
全てが計算し尽くされた、千紫万紅を極めた盛装。
だが、美夜の意思は何一つとしてこの中には込められていないのだ。
―――着飾るという行為はね、誰かに強制されるべきではないの。その人が本当に好きなものを着ている事こそが真の装いだと思うわ。
初夏の日の怜子の言葉が、あの日の彼女の微笑みや、存在の何もかもを伴って偲ばれる。
あの時希望を与えてくれた怜子の言葉も、今の美夜には自分の無力さをひしひしと痛感させられるのみだった。
「それでは、妾はこれにて失礼いたします」
そう言い残して部屋から立ち去ろうとする志津に、美夜は追いすがって、彼女の袂を掴んで引き止めたくて堪らなかった。
物心ついたばかりの子供の頃、蔵にやって来る兄姉達が夕刻には母屋へと帰ってしまうのが心細くてならず、美夜は決まっていかないでとぐずっては彼らを困らせたものだ。
朽ちかけた壁をそろそろと這い、やがては美夜をも呑み込んでいく逢魔時の夕闇を怖がっていたのではない。
幼い美夜が何よりも恐れていたのは、世界の全てとも言える蔵の中、気が触れそうな孤独に沈められて夜を過ごさなければならないこと。
泣こうが喚こうが、美夜の望みは一度として叶えられた事は無く、いつしか闇の中に捨て置かれる事にも慣れて、涙も枯れ果ててしまった。
しかし、こうして焔と二人きりで過ごさなければならない事に比べれば、一人ぼっちの方がどれほどましか知れない。
真正面から自分を見据える焔の眼光からどうにか逃れんと、目を伏せて顔を背けるのが美夜に出来る唯一の抵抗だった。
場違いな程にかまびすしい蝉時雨の中、一秒一秒が針となって身を刺すように感じられた。
やにわに、焔の指先が美夜の黒子一つ無いうなじをつうっと撫ぜる。
「なんとか細い首筋だろうか。よもや、淡雪の積もった細枝とてこれ程までの可憐さはあるまいて」
赤々と熱を孕んだ熾火をいきなり押し当てられたような感触に、瞬時に肌が粟立つ。
一体この指は、これまで幾人の月影の帯を解き、躰を開かせ、鳴かせてきたのか。
「月影の女は数え切れない程抱いてきたが、お前の肌はそいつらの中の誰よりも、芳醇で美味だろうな。それも全て、お前が私の対の月影であるが故に―――」
焔の指は顎を伝って、まだ熟しきらぬ桜桃の実をつまむ様に、ふに、と美夜の唇を捉えた。
怜子にだって、こんな事はされていないのに。
美夜は照れを通り越した、最早怒りに近い口惜しさに身を震わせながら、顔全体がかあっと火照っていくのを感じていた。
しかし、焔はそんな美夜の反応を歯牙にも掛けず、くつくつと心底愉快そうに笑う。
「やはり、生娘であるのは疑う余地もあるまいな」
焔の言葉はからかいと呼ぶにはあまりにいやらし過ぎる、耐え難い辱めであった。
大勢の人が見ている前で、一糸纏わぬ姿で立つ事を強制されたような、死んでも死にきれない恥の極み―――誇張ではなく、美夜は本当にそれを味わわされた。
眦を裂ける限り裂いて、目の前の女を睨めつけてやりたい。
そうでもしないと、この沸騰しそうな程に腸が煮えくり返る思いをどう消せば良いか分からない。
しかし、それも出来ない意気地無しの美夜は、やり場もない憤りを視線に込めて、罪の無い畳にぶつけるしかなかった。
おろし立ての畳の青々とした緑が、悔し涙で滲んでいく。
「私を見ろ、美夜」
けれども、ぞんざいな口調が嘘の様に、傷つきやすい水蜜桃の実を扱う手付きで頬を横から挟まれると、焔に言われるがままになってしまうのは何故だろう。
改めて正面から焔に向き合うと、怜子に負けず劣らず、生まれ持つ高貴さの現れた端正な顔立ちである。
ただ単に綺麗と称すには物足りない、その目鼻の一つ一つが猛き武者に似つかわしく、くっきりと力強い雄々しさに秀でている。
だが、この容貌の奥には亡者も裸足で逃げ出す恐ろしい夜叉が潜んでいるのだ。
「お前こそが私の対の月影であるというのは、絶対的な真実なのだ。日輪である私がそう確信したのだから、間違いの筈がなかろう。お前がいくら私の事を恐れ、憎もうが、抗う事は出来ない」
物覚えの悪い子供に言い含めるように、御大層な口調で身勝手な理屈を説かれても、はいそうですかと受け入れられるものか。
しかし、それとて焔にはお構いなしなのだろう。
「対の月影たるお前を番に出来る日―――嗚呼、その日はどんなに素晴らしかろうな。そうすれば、私は翳る事を知らない完全な日輪になれる。私にとっては、生命が永遠になる瞬間だ」
焔の瞳は、逃しはしまいと変わらず美夜をその中に閉じ込めている。
だが、完全な日輪という言葉を口にする時、焔の目は美夜を通して別の何かを見ているような、どこか心ここにあらずといった印象を与えた。
終生焔だけの物であるという証をうなじに刻み込まれ、細胞の一つも余さずに焔の為に、番としての体へと作り変えられる―――そんな時が来るとすれば、美夜には生きながらにして永遠に命を絶たれるに等しからんものを。
「何があろうと、わたしはあなたの手に堕ちるつもりはありません」
神掛けて、それだけは確かに言える。
しかし、焔は美夜の魂を込めた誓約さえも冷やかすように、色の浅黒い片頬に意地悪げな薄笑いを浮かべた。
「ほう、その負けん気がいつまで持つだろうな」
焔は指先で美夜の首輪を弄んでいたかと思うと、ぐいとそれを手繰り寄せる。
「どんな手を使おうと、私はお前を必ず自分の物にしてみせる。ゆめゆめ忘れるな。お前の身も心も、全てこの野々宮焔の為に存在するのだから」
美夜は目の縁に溜まった涙がこぼれないよう、唇を噛み締め、息を詰めて焔を見返す。
めそめそ泣いたりすれば、そこから際限なく焔に付け入れられてしまう気がする。
「憚かりながら、お車の準備が整いましたので……」
いつの間にいたのか、こちらを伺うようにして敷居の間際に手を突く志津に、焔は苛立たしげに舌打ちする。
それで、ようやく焔の手も美夜から離れた。
「貴様は本当に気が利かないな、志津。野暮にも程がある」
「お取り込み中のところ、申し訳御座いません。ですが、御館様がお勤めの時刻にお遅れ遊ばしてはいけないかと」
助けられたのだろうか―――
美夜はそう俄には信じがたい思いで志津を見やったが、志津は平伏したまま、焔の顔も美夜の顔も仰ごうとはしない。
億劫そうに重い腰を上げた焔は、不満げに爪先で畳を擦っていたかと思うと、軽快な足取りでくるりと振り返った。
そして、美夜に覆い被さる様にその身を屈めた。
頬と頬の触れそうな間合いで、焔が先程まで吸っていたシガレットの残り香が、消えやらで燻り続ける執心の如く鼻を刺す。
「軍での勤めを終えたら、一直線にお前の所に戻ってくる。待っていろよ」
呪言めいたその囁きに、よろよろと体中の力が抜けていく。
へたり込む美夜を見下ろして、焔は我が意を得たりと満足げに背を向けた。
紺碧の夏空は美夜の心持ちとは裏腹に、どこまでも高く、晴れ渡っていた。
それからの日々を、生き地獄と呼ばずして何と呼ぼう。
身を刺し貫く幾千の鋼の針を持つ山も、紅蓮の深淵を湛える血の池もあらずして、これ程までに惨憺たる地獄の有様を美夜は知らない。
そんな奈落の底へと美夜を引きずり込んだ張本人である焔は、美夜を伏魔殿の内に幽閉して、自分は毎朝誉れある帝國軍人としての出仕の為に帝都へと通うのである。
如何にして逃げ出せはしまいかと、謀を巡らせたのも最初のみであった。
別邸の周りは、美夜が背伸びをして手を延べても、苔むした屋根瓦に指先も届かない白壁の塀でぐるりと取り囲まれていた。
出入り口と呼べるものは、美夜がこの屋敷に連れてこられた時に潜った正門と、敷地の裏手にある木戸くらいであった。
正門の方は朝と夕の日に二回のみ、主人たる焔の出勤と帰宅の際にその扉が重々しくも開かれるのである。
門には天井の梁の様に太い閂が掛けられているだけでなく、美夜の顔くらいはあろうかという錠前で二重に閉ざされていた。
裏木戸の方は、近隣の八百屋や魚屋が食材を届けにやってくる時に志津が出ていき、品物を受け取ると早々に扉を閉めて鍵を掛けてしまう。
正門も裏木戸も、どちらの錠前にも鳴子代わりの鈴が結んであった事は言うまでもあるまい。
夕涼みの散歩の時など、焔は美夜を伴って両方の門の前を通る事を忘れなかった。
決して逃げ出そうなどとは思うな、と言わんばかりに。
しかし、門を開く為の鍵はどちらも美夜の監視役である志津の手に委ねられていた。
彼女はそれを常に用心深く懐の中に仕舞い、美夜には指一本触れる余地は無かった。
何があろうと、美夜が美夜として存在する為に、確固たる意志を持たねばならぬと自分を奮い立たせようとしても―――
その僅かな希望は、砂で作られた偶像の如しであった。
さらさら、さらさらと少しずつ音を立てて崩れてゆくのが、美夜自身にも感じられる脆弱さ。
美夜は魂無き人形の虚ろさをそのままに、ただ呼吸をして時が過ぎるのを待つだけだった。
まあ、なんという腑抜けな体たらくだろうと美夜を嘲笑う人もあるかもしれない。
笑うなら笑いたまえかし、と美夜は半ば乱暴な投げやりさであった。
普通に生きていれば、到底纏う事も無い美衣を着せられ、身の置所も無いくらいの座敷を用意されても、全てがどうだって良かったのだ。
狂わなかったのが不思議なくらい、おかしくなった方がまだ救われただろうか。
夏の日盛りに身を隠す如く、ぽつねんと終日座敷の隅に座しているうちに―――
表で甲高く鳴り響くクラクションに顔を上げると、微風にさゆらぐ風鈴の音も物淋しき夕まぐれの茜色の中に、美夜は呆けた己の姿を見出すのである。
何処へ去りゆかんとする船の水脈なびく海の果て、そこに今しも沈みゆく落日の名残を感じる度に、美夜は嘆息するばかりであった。
また、夜がやってきてしまう。
在りし日の美夜にとって、夜は慕わしき人との和やかな語らいの一時をもたらしてくれる、何よりも愛すべきものであったのに。
間を置かずして、禍を引き連れた鬼のそれも、かくまでに怖気を震わせはしないであろう足音が美夜の元に差し迫る。
「今戻ったぞ。我が対の月影よ」
焔の侵攻を拒む事も許されず―――お帰り遊ばせ、と美夜はうつ向いて奉迎の言葉を述べるしかなかった。
我こそはかぐや姫の心を射止めんと貴族達が持ち寄った、蓬莱の玉の枝や、火鼠の皮衣、龍の首の珠などの幻の宝物。
焔はそれら全てをたった一人で手に入れた公達の如く胸を張り、着物や髪飾りの土産を美夜に持ち帰る事も欠かさなかった。
さりとて、どんなに贅を尽くした品とて、美夜の心を捉えはしないのである。
美夜にとっての夜の訪れは、ただただ心憂いだけのものに変じてしまった。
草陰に集く虫の音も遠く、微かな草いきれも日中の盛況の余韻の如く漂う夜半になると、美夜にもしばしの慰めの時間が与えられた。
枕元の畳を音を立てずにめくると、焔の目につかないよう隠していた封筒を取り出す。
その中の写真の一葉を、障子の開いた丸窓から注がるる月明かりに照らし出して―――思い出の中と何一つ変わらない懐かしい微笑みを向けてくれる怜子に、美夜はきっと涙さしぐまない事は無かった。
もう二度と戻りはしないであろう、人生の中で一番幸福な日々を生きていた自分の姿にも。
追憶の涙に濡れた瞳で眺むれば、過ぎ去った日々の何もかもがうつくしくてならない。
怜子さま。
実の親にさえ愛されなかった自分を愛し、慈しんでくれた人。
月影にも自分の意志を持って生きていく事は許されるのだと、み恵みの温かさで包み込んで、身をもって教え給うた愛日の君。
初めて出会った時から、怜子に対する気持ちは今も尚変わらず、いや増して募るばかりである。
生まれ持った聡明さと慈悲深さを体現したみ姿に、今ひと度お目に掛かりたい。
誰よりも優しく美夜の名を呼んだ声音で、囁き掛けて欲しい。
あの人に似つかわしいパフュームの清香を、息が止まるほどに匂って酔いしれたい。
たおやかに細くも、熱情に沸いた血潮の通う腕で美夜を抱き締めて欲しい。
清小路怜子という女性の全てが、どうしようもなく恋しい。
あまりに細く、あまりに儚い夜空の繊月。
この月を、美夜を恋うてあの方も御覧になっているだろうかと思うと、涙はとどまる所を知らず―――幽寂に銀の粉を振り撒く月も、霞んで消え失せそうになるのだった。
禁じられし祈りを唱える異教徒の如く、怜子さま、怜子さまと如何なる聖句より尊き名を呼ぼうとも―――その声無き願いは、やがては押し殺した嗚咽に取って代わられた。
嗚呼、誰が知るだろうか。
想っても叶わぬ人を慕いて、夜毎さえずる籠鳥のさてもいじらしき忍び音を。
こんな美夜にも、唯一の救いは残されてあった筈だ。
降り注ぐ愛日の確かな光を仰ぐ様に怜子を信じて、再び彼女に相見んと固き心誓文を立てる道が―――
しかし、その愛日の輝きをもいつしか疑ってしまう美夜だった。
美夜の慕情の深さとは裏腹に、怜子は自分の事なぞとっくに忘却の彼方に追いやってしまって、あの美麗な侯爵令妹こそを自身の対の月影と思い定めておられるのではないか。
弱り果てた美夜の心がそんな疑念を生み出したのか、それとも以前から美夜の心のどこかに巣食っていたのか、自分自身でも分からなかった。
あの方がその様な事をなさる筈がない、と自分を諭そうとしても、お前が天照大御神の如く崇めている怜子も所詮は生身の人間に過ぎないのだ、という残酷な声が横から叫ぶ。
相反する慕情と猜疑心に翻弄されるうちに、美夜は自分が百幸美夜という人間でなく、醜悪で呪わしい別の生き物へと成り下がっていく気がした。
伽藍堂の美夜でも、生き物である以上は日に三度の決まりきった空腹を覚えなければならなかった。
「お食事の支度が整いまして御座います」
一分一秒の遅れも無い几帳面さで、毎日同じ時刻に志津に呼ばれるがまま、美夜もその時ばかりは舞妓の様に引きずりにした着物の裾ものそのそと出ていくのである。
食事を摂るのは夏柳の緑陰もひんやりと障子に映る、寺の食堂にも似た静けさの漂う母屋の北の間だった。
志津の拵えた料理が光沢のある漆塗りの蝶足膳に載せて供されるのだが、その膳のみならず、汁椀の蓋一つに及ぶまで野々宮家の家紋が本物の金で箔押しされていた。
異界の食べ物を口にしてしまえばもう二度と現世に帰る事は叶わない、黄泉竈食ひの伝説を信じる訳ではなかったが―――敵の施しを受けるようで気が進まず、最初はなかなか口を付けがたかった。
けれども、残しては志津に申し訳ないゆえ―――というのは半分は建前で、ここでの生活に慣れてくるにつれて、痛いほどに感じるようになった空腹はとても堪えがたかったのだ。
踏み絵を踏む心地で、それでも箸を取る他ない自身のさもしさが、ほとほと嫌になった。
焔が出勤してからの朝餉も、昼餉の時間にも―――食事の最中、志津はずっとその脇に控えて美夜の一挙手一投足から目を離さない。
以前の美夜なら何とも思わなかったかもしれないが、親しい人と共に囲む食卓の賑やかさを知った今となっては、沈黙が鉛の様に重たるい。
「……お昼がまだでしたら、志津さんも一緒に食べませんか」
ある日の昼餉の時間、美夜はそう志津に持ちかけてみたことがある。
「妾の事なぞはお気になさらず、どうぞお召し上がりください」
美夜の遠慮がちな提案は、にべもなく辞退されてしまった。
「貴女は表向き、御館様の大事なお客人という事になっております。女中風情がお客人と食事を共にする訳には参りませんから」
その低声も、虚ろに生気の薄れた目も、夏風の葉擦れにすうと溶けてゆきそうで―――
美夜は志津と向き合う時、やがては晩夏の片蔭に消えていく一場の陽炎を目にしているような、何とも言えない感傷の情に胸打たれるのだった。
この志津も、美夜には掴みどころが無い、解き得ぬ謎の様な人物であった。
朝も日の昇らないうちから起きて働き、夜は誰よりも遅くに床に就く。
屋敷の掃除や、洗濯、料理など、数人の女中を擁しても大儀であろう家事で片時もその手を休める事が無い。
それらの仕事を、姉さん被りにした手拭の陰の額に薄い汗さえ浮かべず涼しい顔でこなしてしまうのだから、全く驚いたものである。
まさに「滅私奉公」の言葉をそのままに、この大宵の御代に生くる女性であった。
けれども―――そんな志津を、ただの真面目な働き者として片付けてしまうのには、どこか違和感があった。
鼓動を刻む心臓を持つ人というよりは、体に繋がれた糸に操られるがまま、為す術もあらぬ傀儡を見せられているような。
そして、その糸を握っているのは他でも無い主の焔であるのだろう。
だが、彼らを繋いでいるのは互いの信頼によって生まれる情緒的な絆ではなく、ただ主従の関係にのみ縛られているように美夜には感じられた。
美夜が空になった姫椀を下ろすとそれを合図に、志津が伏せていた目をほんのすこし―――上げる。
「お代わりはなさいますか」
「もう、結構です。……ご馳走様でした」
遠慮や虚勢では、決して無かった。
食欲は消えないと言えど、旺盛さにはほど遠い。
ただ目的の無い命を繋いでいく為だけに、ちっぽけな空腹を満たす他は無い美夜だった。
志津の料理は決して味が悪い訳ではなく、却って滋味に溢れるものだと言って良かっただろう。
上質な食材のみが、志津の料理をそうさせている訳ではなさそうだった。
海に臨む孤月ヶ浜という事もあり、食卓にはよく新鮮な魚が並ぶ。
志津は朝にカマスの塩焼きを出せば、昼のお菜は金目鯛の煮付けにするなど、日に同じものを食べさせて美夜が飽きないようにしているのが感じられる。
きんぴらの牛蒡や漬物の大根に至るまで、美夜の小さな一口に合わせて切られているのが、それと分からぬくらいのさり気無さ。
小鉢一つ取っても、志津の女中らしい心遣いの象徴のようであった。
それを味わって食べる事ができないのが無念でも、美夜にはどうしようもなかった。
一日の中で最も手の込んだ食事が出されるのは、主人である焔が帰宅してからの晩餐であった。
朝食は仕事に遅れぬように自室で早々と済ませ、昼食は志津の持たせた弁当である焔にとって、唯一美夜と共に食事のできるその時間を何より待ち侘びているらしい。
宮仕えから解放された身軽な上機嫌さで、焔は夕食前の晩酌には美夜に手ずからその酒を注がせるのである。
「お前が酌をすると、水すらも馥郁とした香りを漂わせる美酒に変わるのだろうな」
そう焔が切子の盃を傾けると、万華鏡を覗いた如くその文様が妖しく揺らめいて―――
血の如く紅い舌先で舐めずるように、酒を一口含む度、焔は陶酔に蕩けた流し目で美夜を見やる。
その眼差しを、薄物の下で浅い呼吸を繰り返すほのかに膨らんだ胸や、固く閉ざした膝の間に向けられて―――ともすると徳利を持つ手は打ち戦慄きがちになる。
焔の淫らな色を帯びた視線が肌の上を這い回る時、美夜は情欲の炎に突き動かされた指先や舌で体をまさぐられる様な、激しい忌まわしさに苛まれるのだった。
焔に促されるまま、空になった盃に新たな酒を注ごうとしても、手の震えは一向に収まらず―――硝子の徳利と盃は、触れ合ってきいんと砕けんばかりの不吉な音を立てた。
「す、すみません……」
初めて客を取る女郎の様に、消え入りたくなる気後れに身を縮ませる美夜の反応をも、焔は享楽の肴にしているらしい。
「私がお前の事を手籠めにするとでも考えているのか?莫迦だな、全く」
酒で朱に染まった顔に、嬲る如き微笑が広がる。
焔の揶揄の言葉で、美夜の顔は彼女とは対照的に血の気を失った蒼白に変わっていく。
日輪の圧倒的な力で組み敷かれ、一切の抵抗も叶わないまま乙女の操を焔に略奪される―――そんな目に遭わされるより、いっそ殺される方がましだろう。
この屋敷で過ごすようになってからというものの、いつ夜這いを掛けられるかと、神経が尖って夜もろくに眠れない日々が続いていた。
美夜には焔の言う通り、彼女が運命のもたらす自分の対の日輪であるなどとは到底信じられなかった。
そんな運命、信じたくなかった。
「お前は私を月影狂いの色魔か何かのように思っているかもしれないが、私はそこまで見下げ果てた日輪ではないぞ……なあ、御萩丸」
焔に名を呼ばれて、彼女の横に足を揃えて座っていた毛艶の良い黒猫はにゃあおと太い声で鳴いた。
侯爵家の別邸で飼われているこの御萩丸という雄の猫は、尻尾が短く丸々と肥えていて、どっしりと香箱を作った姿は御萩そのものである。
その似合わしい名前を付けたのも飼い主である焔で、肉に埋もれた首輪に御守りの袋なぞ下げさせている、言葉通りの猫可愛がりであった。
「よしよし。これが欲しいのか?」
のしっと膝に登る御萩丸に、酒のつまみである炒り子の佃煮をやろうと焔の盃が下ろされ、美夜はようやく息ができそうだった。
障子が音も無く開かれたかと思うと、御仏に供物を捧げる尼御前の如く粛々と、志津が食膳を手にしてやってくる。
上座に座る主人である焔の分を先に、跪いて膳を据える時にも丁重な礼を忘れない。
「美夜様の分も只今お持ちいたしますから―――」
目の前に置かれた膳の上に、焔が稲妻の様に素早い一瞥を放った。
「おい、志津っ!」
素手で触れればたちまち火膨れが出来そうな、明らかな怒気に満ち満ちた激声が、焔の口から飛び出す。
双眸は抑えがたい憤怒に燃えたぎり、取り殺さんばかりに志津を睨めていた。
何かが焔の逆鱗に触れたのだ―――
火を吹きながら暴れ狂う竜を目の前にした如く、美夜は恐ろしさに身を竦ませたまま、この行き掛かりを黙視するより他に無かった。
裾も乱さず立ち上がろうとしていた志津は、ぴたりと静止し、そのままごく滑らかな動きで主人へと居直る。
「何事で御座いましょう、御館様」
そんな志津の鼻先に、お前の目は節穴かと言わんばかりに焔は鷲掴みにした茶碗を突き付けた。
「貴様はこの私に、見窄らしく欠けた茶碗で飯を食えというのか」
見ると―――茶碗の縁は小指の先ほど、ほんの少し欠けていた。
言われなければ気が付かないくらいの微々たる欠損で、唇に触れて怪我をするとも思われない。
だが、猛り狂った畏日に、どうしてそれを説けようか。
「平民の貴様が、尋常種の貴様が―――華族で日輪の私を虚仮にするのか。ええ?」
次から次へと罵声を浴びせられようと、志津は格段焦りも怯えもせず、表情はどこまでも凪いでいた。
「申し訳御座いません―――」
弁解の言葉すら口にせず、ただただ頭を垂れる様は、手討ちにされようとする罪人が、一切を受け入れて首を差し出す時と同じであった。
しかし、それをも畏日の逆上を鎮めるには足らなかった。
焔が仁王の如く立ち上がると、御萩丸は彼女の膝から軽やかに飛び降り、そそくさと廊下の暗がりへと姿を消していく。
荒々しく茶碗を振り上げると、少しの手心も加えず―――焔はそれを志津へと投げ付けた。
あっと美夜が声を上げる間も無く、茶碗はしたたかに志津の額にぶつかり、畳の上にまだ湯気もほかほかと立つ米が散らばる。
起伏の乏しい額に一筋の赤い線が走ったかと思うと、それはみるみる広がって―――
乱れた横髪を透かして、烏瓜の実が潰れた如く頬を伝う鮮血を拭いもせず、志津はただ黙して座するのみである。
どれだけ理不尽な仕打ちを受けようと、志津の目には恨みの色さえつゆと浮かばず、どこまでも昏い眼差しをあらぬ彼方に向けるばかりだった。
こんな眼差しを、遠い昔にどこかで目にしたような―――
自分から回顧するまでも無く、美夜の脳裏には幼い頃の淡い記憶が回り灯籠の絵の如く蘇る。
父の癇癪が爆発するままに、拳を振るわれ、幾度となく足蹴にされていた兄や姉達。
自分を守る事も、抵抗する事も、涙する事も、無駄だと分かっているから―――全てを放棄した彼らの目と同じものが、志津の落ち窪んだ眼窩の奥に鎮座していた。
諦めが少しずつ、少しずつ溜まって、その中に囚われている事にすら気づかぬまま、冷え固まった琥珀の様な目だ。
無力な子供だった美夜には、息を殺して嵐が過ぎるのを待つしかできなかった。
日輪には逆らわず、神妙にしている事こそ月影の正しい有るべき姿なのだからと、自分に言い含めて。
そうしなければ、もっと酷い目に遭わされるから。
古傷が痛む如く―――かつてと同じ、否、殊更甚しい怯えが美夜の体に取り憑いて、金縛りにあったように動けない。
自分はあの時の様に、何も出来ないままなのだろうか。
「口で言っても駄目なら、体に分からせてやる他あるまいな」
けれど、焔の右拳が空を切って志津に振り上げられた瞬間、躊躇いも畏縮も弾け飛んで―――美夜は細腕に枝垂れる長い袂も乱るるに任せて、焔の背に飛び付いていた。
「お前っ……何の真似だ!」
怒りと困惑の混じり合った眼光が、烈日の如く美夜の瞳を貫く。
けれど、美夜は目を逸らす事も、閉じる事さえしなかった。
それは殴られようとする顔を庇いもせぬ志津の目をも見開かせた。
焔も、志津も、そして何より美夜自身が、これ程までに体を熱く沸き立たせる心がまだ自分の中に残っていた事に驚いた。
「もう、やめてあげてください!人間誰しも、失敗はあるでしょう。侯爵様も同じ女性であれば、柔肌を殴られる痛みがどれほどのものか、お分かりになりませんか」
死に果てたかと思った感情の一つ一つが、溌剌と息を吹き返した如く、抑圧されていた言葉は途切れる事が無い。
(―――わたし、まだ生きていた)
精彩に溢れた響きを持って鼓動を刻む心臓の音は、美夜に忘れかけていた命を再び思い出させた。
ぎゅっと交叉した腕の中で、息を荒らげて肩を上下させる焔の体が、徐々に動きを失っていく。
焔の拳が下ろされるのに合わせて、美夜も疾く身を離した。
「私としたことが、美夜を怖がらせてしまったな。本にお前は情味が豊かというか、思いやりがあるというか……」
先程までの怒りはどこへ行ったのやら、美夜に語り掛ける焔の表情や声音は菩薩の如く、気味の悪いくらい長閑やかであった。
しかし、それも泡沫のまやかしで、厭味を存分に含んだ笑いに口元が歪む。
「私と此奴が同じ女だと?笑止千万だな。日輪と尋常種風情では、生まれながら全てにおいて天と地の差があるというのに。それを決して忘れぬよう此奴の中に刻み込んでやるのも、主君たる私の務めだろう」
不愉快に吐き捨てると、焔は外れんばかりの勢いで障子を打ち開いた。
「今夜はもう食わん。片付けておけ」
主人の粗暴な足音が遠ざかるのを契機に、志津が力無く体を起こす。
「……お騒がせして、申し訳御座いません」
志津は誰に対しても、どこまでも謝るばかりだった。
夏の夜の静けさが戻った―――けれども、美夜の鼓動は薄れる事もなく、熱い何かが青草の如く胸に萌ゆるのだった。